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井伊

第四上 · 단락 17 · 780520 78코마 L부터

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인물 74 34 24 17 16 13 13 13 10 9 9 8 8 8 7 5 5 5 4 4 3 3 3 3

지명 8 4 3 3 3 3 3 3 3 3 2 2 2 2 2 2 2 1 1 1 1 1 1 1

侍從兼兵部少輔藤原直政は閑院の左大臣冬嗣公の七男、內舍人良門五世の孫、備中守共資の男、遠江國の住人井伊備中大夫共保が後胤、肥後守直親が男なり、共保が事、系圖の傳ふる所、大に怪し、初め一條院の御時、備中守共資、遠江國に下り、村櫛といふ所に住む、此國井の谷といふ所に、八幡の宮居まします、其瑞垣のほとりに、御井ありけり、かしこの宮司、ある正月元日の朝、社頭に參りしに、今生れたらん頃の赤子、忽ちに御井の內より現れ出づ、大に驚き、怪しき事に思ひ、立寄り見るに、容いと美しくして、眼の光り燿けり、頓て懷におし入、おのが家にゐてゆき、世にいとほしみ育てし程に、旣に七歲に及ふ、備中守共資は、女子のみ有て、男子は無かりけり、此兒の事を聞て、只人にあらずと思ひ、彼宮司に乞ひ受け、おのが子として、十五歲の時、髻取り上けさせ、共保と名のらせ、おのが娘にあはせ、家ゆづる、共保長大に及ぶに從ひ、武勇の名譽、當國に隱れなく、國人等悉く恐れ隨ひぬ、初め御井の內より現れ出しがゆゑに、井桁を採て幕の紋とす、また橘を紋につける事も、彼の現はれし時、橘一つ御井のほとりにありしを見て、宮司此兒の產衣に繪がきてければなり、其現れ出たる御井、今もありとぞ、○按するに系圖には備中守共資は、内舍人良門の第三男、兵衞佐利世四代の孫たる由見ゆ、藤氏の系圖を見るに、良門の男は、右中將利基、內大臣高藤二人のみにて、利世といふ人を見ず、されど、藤氏系圖に漏しぬるも知れぞ1、また共保より直政迄十六代の由、家の系圖に記せり、一條院の御時より、直政が生れし比迄は、凡五百六七十年に及びぬべし、たとへ一世ことに四十年に及はんほどを經るとも、なほ年は餘り有りぬべし、思ふに家の系圖に漏れたる人多かるべきにや、又按ずるに、井伊介も同し流の藤氏たる由、系圖に見ゆ、井伊介は、武智麿の後遠江權守爲憲が末葉にて、工藤遠藤、伊藤抔と同し流にて、南家の藤氏なり、此系圖の記せる如くなれは、北家の藤氏にてこそあれ、如何にかく傳へしにや、覺束なき事なり、
  1. — 지면 그대로. 문맥상 「知れず」의 저본 오식 가능성. 미확인
足利殿の御末、天下盡く亂るゝに及て、遠江の國人等、多くは駿河守護今川が手に屬す、共保が後井伊信濃守直平も、今川にぞ隨ひける、直平二人の男子あり、嫡男宮內少輔直宗、二男彥二郞直滿と云ふ、肥後守直親は、此直滿が男なりけり、初め直宗、が子信濃守直盛、父に繼ぐ、家嗣がすべき男子なかりしかば、叔父直滿が子肥後守直親をして、家繼せん事を契約す、然るに、直盛が郞等小野和泉守、直滿が子に、主の家繼せん事を嫌ひて、今川治部大輔義元に參て、直滿が謀叛の由を讒し申ける程に、天文十三年義元、直滿を駿河國府に召て、忽に誅せられ訖んぬ、其後永祿三年五月直盛義元と共に、尾張國桶迫の合戰に討れしかば、井伊が嫡流旣に絕えぬ、肥後守直親が子兵部少輔、幼なくして、父に後れ、いまだ童にて萬千代丸と申しゝより、德川殿に仕へ參らせ、此稚き者、尋常の人にあらず、又累代の家絕えぬる事を哀れませ玉ひ、相傳の家領なれば、井の谷の地賜て、菅沼近藤鈴木等を始て、是を井谷三人衆と云、寄騎の侍多く附け、又木俣淸左衞門庵原治左衞門西鄕藤左衞門をぞ後見にせよとて屬られたる、
家忠日記增補等に云、井伊信濃守直盛、今川義元に從ふ、永祿三年五月尾張國桶迫合戰に、義元と同しく打れ死す、其子肥後守直親といふ、同五年春直親が郞等小野但馬、主を恨る事やありけん、今川殿に參て、我主に候ふ肥後守は、織田德川の人々に心を合て、屋形に叛き參らすると申ければ、氏眞大に怒て、急き井伊を退治あるべしと、軍勢を催さる、今川の一族新野左馬助、氏眞を諫めて、直親と年比親しく相語らひて候へば、かれが心の中をば能く存しぬ、當家に二心有べき者にあらず、これは如何さま讒人の申所とこそ覺ゆれ、暫らく御追討を止められて、事の實否を御糺明あるべう候と申て、井谷の城に人を馳せて、かくと告ぐ、肥後守これを聞て、直親先祖より、今川殿の御被官となり參らせてより、このかた、累代終に御うしろめたき事候はず、中にも父にて候直盛、故殿の御供申て、桶狹間の戰に打死しぬ、されば彼の信長は君の御敵といふのみにあらず、直親が身に取ても、父の仇なるに、いかで屋形に叛きまゐらせ、君父の重讐に組みし候べき、此旨をもつて、誤りなき由を、申し開きて、給ふべしとて、新野が使を返しけるが、いや〱居ながらに陳じ申さん事、疑ひ猶も解くべからず、參りてこそ、申さめとて、打立つ、當時不審蒙りたる身の、郞等あまた具しなん事、然るべからずとて、主從わづかに二十人、掛川の城にさしかゝり、駿河の府に赴きたり、爰に掛川の城の住人、朝比奈備中守は、井い谷の先陣給はつて、おのが城に、勢揃ひして、屋形の發向を待居たりしに、直親此所を忍ひやかに打過ると聞て、混甲二三百騎、鞭鐙を合せて追かけ、大勢の中に取込めて、一人も殘らず討てけり、直親が男、年わづかに二才なるをも、誅せらるべきに定る、新野また彼れが命助けられん事を歎きしかば、さらば、成人の程は、汝にめし預くべしとて、左馬助にたもふ、此とし引間2の戰に、新野また討死ず1、氏眞重て、肥後守がみなし子失はんとし給へば、新野が妻深く匿くす、猶顯はれぬべく覺ゆれば、成人の後、僧になし、父母のあと弔はせ給べとて、ある上人にまゐらせたり、そのゝち同國の住人松下源次郞、新野が妻をむかふ、直親が孤子も、彼の妻に從つて、松下が家に、ひとゝなる、十五歲と申しゝ、天正三年二月十五日、德川殿御鷹狩のため、濱松の城をいで玉ひ、道のほとりにて、これを御覽じけるに、つらだましひ、尋常の人にあらず、怪しとや御覽じけむ、如何なるものゝ子にてやあると、尋させ玉ふに、よく知れる人ありて、是こそ當國の井伊が孤子に侍れとて、在し事ども申ければ、不便の者かな、われに宮仕せよとて、召試らるゝに、誠にさる武夫の子なりけり、賴母しきものぞと思召て、頓て本領を給ひしとなり
  1. — 지면 그대로. 「討死す」의 탁점 오식 가능성
  2. — 지면 그대로. 문맥상 「此とし」는 앞의 「同五年」(永禄5年)이지만, 新野親矩가 引間(引馬)에서 전사한 것은 통설 永禄7年(1564)이다
按するに肥後守直親が父、系圖には彥二郞直滿とあり、信濃守直盛といふは、直親が從弟なり、直滿天文十三年に、義元の爲に誅せらるゝと、系圖には見えて、肥後守直親が、永祿三年に討たれし事みえず、直滿既に義元に誅せられたらんには其子肥後守直親、從弟の信濃守直盛が家く繼べき1事とも思はれず、兵部少輔直政、永祿四年に生る、祖父直滿が打れしより、十八年の後なれば、父の直親が直滿と一所にうたれざりしは一定なり、直親後終に從弟が家繼て、また小野が爲に讒せられて、氏眞の爲に誅せられし事、家忠日記增補等の說の如くなるにや、また直滿討れし時、直親まぬかれ、直盛が家をば繼かず、其後直政を設けて死したりしを、世には誤り傳へて、父直滿が事を、子の直親が事の樣にしるしけるにや、天正十年の春、武田四郞亡ひし後、彼の家子郞等悉く德川殿に從ひ奉る、此年冬十一月万千代丸、元服して、兵部直政をめさる、十二月武田が侍大將山縣土屋原一條が手の者七十四騎、坂東に名を得し兵四十三騎、引すぐりて、直政が手に附られ、一方の大將給て、籏幟より物具まで、色は赤を用ゐけり、十二年三月、羽柴筑前守秀吉、主の北畠殿と、不快の事出來て、軍起る、信雄中將、賴み參らせ給ひしかば、德川殿、尾張國に向ひ玉ひ、小牧に御陣をめされけり、御方の御勢、わづか一萬五千には過きず、秀吉の十五萬騎、こなたに向て陣を取り、二萬餘騎を引分けて、三河國を襲はんとす、德川殿此由を聞召し、さらば此方も出向て戰ふべしとて、密に御勢を引分けて、差向けられ、みづから續て長湫に向はる、直政御先に進む、御方の先陣、既に敵の後陣を打破り、敵さん〱に打なされ、先陣の勢と、一つになり、取て返して戰はんとす、直政が赤籏赤幟、朝日の光に輝きて、山よりこなたに馳せおろし、立ざま橫さまかけ破る、敵終に打負けて、大將あまた討れしかば、士卒猶いふに及はず、京家の者共、直政を赤鬼と名づけしは、此時よりの事なりけり、同き六月敵大野の城を攻む、直政此とき松葉の里に陣取て、此由を聞くよりも、馬烟を蹴立て馳せ向ふ、寄手取る物も取あへず、散〱に成て引返す、かくて所々の戰ひ、秀吉の軍盡く利を失ひ、德川殿助け給はん程は、信雄傾けん事叶ふべからずとて、北畠殿と中直りし、頓て此人に附て、德川の御子於義丸、乞受けて、養君となさる、是は秀吉いかにもして、德川殿に親しうならんとはかり玉ひし故とぞ聞えける、事は三河守殿御傳に詳なり、十三年正月秀吉正二位内大臣になり、七月關白に任ず、八月信濃國眞田安房守昌幸が關白に組みし參らせ、德川殿に背きしかば、御勢を差向けらる、御方利なかりしと聞て、直政等彼國に向ひ、御勢を迎へ歸る、去程に關白、德川殿に對面の事を望給ひしかど、見參の事は叶ふべからずと聞ゆとて、案じ煩ひ給ひしが、急度案じ出し御妹君を濱松の城に參らせられ、北の方となし給ひ、より〱に見參の事を催さる、德川殿既に、かく結すぽうれたる中と、ならんからは、尊者に向ひて、如何で無禮にや及ぶべきと仰ければ、關白殿悅び玉ふ事大かたならず、さらば御家人等が心を安んぜられんがため、御上洛の程は、そこに留めまゐらせ給ふべしとて、大廳を下し給ふ、德川殿夫までにも及びさむらはじ者をと仰せられしかど、大廳既に御首途ありと聞えしかば、岡崎の城に迎へ入れ給ひ、直政を御跡に留めらる、御見參の事終りて後、程なく歸らせ給ひ、頓て大廳をも返し參らせらる、此度は直政して送られたり、直政關白殿に召されて、饗應の儀あり、石川出雲守數正は、伯耆守が事なり別に傳あり直政が昔の傍輩なればとて、接伴に召さる、直政數正に打背き居て、面をもあはせず、殿下みづから茶點して給るべきに至て、數正また接伴す、直政かたへの人に向つて、これにさふらふ數正は、譜代相傳の主君にそむき參らせ、殿下に從ふ大臆病の男なれば、直政彼れと肩を並べ、膝を組まん事、御免を蒙るべきにて候と申ければ、御前に在りあふ人々、皆舌をぞふるひける、十六年四月主上、關白家へ行幸あり、德川殿も參らせ玉ひ、御家人等任官の事あり、直政殊に侍從從五位下になされ、兵部少輔を兼ぬ、十八年の春、若君初めて關白殿へ參り玉ふ、直政御供して、都にのぼる、此年の夏、關白殿、相摸の北條を討たれしに、直政、德川殿の先陣うつて、小田原の城に向ひ、蓮池より押寄て、陣を取る、六月廿二日の夜、直政一勢、外郭を攻破る、松平周防守康親同しく續く、城中にも山角上野介父子三人、次の城を陷されじと、散々に防き戰ふ、つゞく御方なければ、直政康親引返す、
  1. — 지면에도 「く」로 찍혀 있음. 「家を繼べき」의 저본 오식으로 보임
此時に、小田原の城を攻めらるゝ事百餘日、寄手軍勢廿餘万、城中に立籠る所も七箇國の精兵、されども手いたき戰ひせし事は、直政が一勢とぞ聞えける、また直政が攻めやぶりし所をば、篠曲輪と申て、城の東にあり、または、すて曲輪とも申す、城中より橋一筋を渡して、晝は兵を出して守らす、德川殿初め直政をめして、橋か〱とばかり問はせ玉ひて、又仰らるゝ色もなし、直政いかなる事とも心得ず、深く案じ煩ひて、如何さまにも、彼の橋の下の水の淺深をや問ひ玉ふと、橋の下に、杭立てゝ、水の深さを量り、其杭を刻みて、猶も覺束なければ、みづから水際に下りたつて、能く見おほせて、御前に參り、かくと申しゝに、初の如く、橋か〱とばかり仰られしかば、直政いよ〱心得ず、とかく案じ煩ふ程に、初め仰を蒙りしより四十八日を經て、急度案じ出し、みづから夜に入て忍び行き、彼の橋をふみて見るに、ゆき桁よわくして渡るに危し、急き參て此よし又かくと申す、其時德川殿、其事にてこそあれ、个程の事、など心付なからんと思ひしかば、其事とは云はざりき、かばかりのこと下知せんは、家康が身に取ては、似あはぬものをと宣ふ、直政心に思ひしは、扨は此所、直政が勢にて攻め破れとこそあるなれ、たゞし彼橋の事、かくまで問はせ玉ふは、此所攻やぶるとも、此橋をわたりて、次の城に攻入らざらんには、御方の人々に云甲斐なしと嘲けられんも無念なりと、思ひ給ふらんとて、おのが手に附けたまひし、廣瀨美濃、三科肥前をめして、此事かくといふ、廣瀨三科承りて、个程の所攻め取らん事、物の數ならず、攻め損したらんは見苦しかるべし、詮する所、手の軍勢の子弟などいふ若殿原して、攻めさせんに、たとへ攻損したらんとも、何か苦しかるべき、また夫等の一族の老武者、若者共たすけて高名させんと思はゞ、勢に不足はあらじものをと、思ひければ、手の若殿原して、攻めらるべうもや候といひしかば、此議もつとも然るべしとて、六月廿二日の夜に入りて、押寄せ攻む、案の如く若者共の親父伯父など馳せ加りし程に、多勢になりて、篠曲輪を攻やぶりて、次の城に攻め入る、直政眞先をかけ、かの橋のほとりに押寄て、みづから鐵砲をおつとり、城中に向て放つ、玉をも藥をも重ねて込うたりければ、筒忽に裂けて、左の手の指をやぶる、直政是を物ともせず、其手してくろかねの楯提け、えい聲を出して攻め入し程に、士卒などかは、ためらふべき、次の城に攻め入て、散々に戰ひしとなり、
舊き人此事を語りて云ひしは、德川殿の直政めして、一つの橋を擧け玉ひ、四十八日を經るまで、其心を仰せられざりし事こう有難けれ、聖人の人ををしへ玉ふ事、皆かくの如し、凡そ尋常の事にても、其人のみづから心に心得ぬ事は、如何に口に告けて云ひたればとても、終に其益なし、まして戰に臨みては、機にのぞみて、變に應すべきものなれば、人の敎へを賴むべからず、直政が德川殿の仰を承て、四十八日が程、心に絕えず思ひはかりしも、尋常ならず、此心を以て、身をも人をも修めん事を思ひめぐらさば、などか其道を得ざるべき、凡の人は、常の人の言葉は、いふにや及ばん、聖賢の言葉にても、うち聞たる所の、頓て心に得ぬをば、如何なる事と思ひ計ふべし、舜の大聖なる、好みて邇言を察し玉へりといふものを、まして、たゞ人の、此心なからんには、などか善かるべきと申はべりき北條亡びて、彼領せし國々、德川殿へ參らせる、關白殿の仰にて、直政上野國箕輪といふ所を賜り、十二万石高崎の城を構へて移りすむ、十九年七月、奧の九戶が修理亮主政實の南部に大膳大夫信直背きしかば、德川殿、三好中納言秀次卿と共に向ひ玉ふ、直政先陣を承り、蒲生飛驒守氏鄕に會津の守護、別に傳有り加勢して、九戶の城を攻めおとす、慶長三年八月、太閤薨し給ひし後、彼家の奉行、德川殿うしなひ參らせんとする事、度々に及ぶ、直政等が嚴しく守護し奉りしに依て、終に御恙もわたらせ給はず、同き五年の夏、上杉中納言景勝が、陸奧會津に引こもりて、召せども終に參らず、さらば追討あるべしとて、德川殿御下向あり、大坂の奉行等、其隙を窺ひて、天下の軍勢を催し、關東に攻下り、上杉と牒じ合て、德川殿を討んとす、其事下野の國小山の御陣に聞ゆ、御供にさふらふ諸大名、まづ引返して、上方に向ひ、軍をせんとす、此時直政本多中務少輔忠勝と、私に相謀て、諸大名と共に馳向ひ、軍仕らんと申す、德川殿上方のありさまも、いぶかし、また此人々のありさまも、內心はかり難し、汝等が向はん事、然るべからずと、仰せければ、此人々ばかり向ひて、勝軍したらんには、天下をば我等が取りてこそ、內府へは、まゐらせたれと、云はん事の、口惜しう候へば、ひらに御許しあれと、望みしかば、下野守殿を海道の大將軍とし、後に薩摩守殿と申參らせし御事なり、軍奉行には、井伊本多を差向けらる、扨こそ九月十五日の軍をも、直政が手より始けれ、斯て御方手合せに勝軍し、德川殿頓て上らせ玉ひ、東西の軍、美濃國關が原にして勝負を决す、直政手の者共に下知して軍させ、我身は下野守殿の御陣に參り、守殿い、直政か聟君なり、殿は此度ぞ御軍は始めなる、御勢をば爰に留められ、歩行立の兵、少々召し具せられ、先陣の人々の軍するやうを、御覽あるべう候と申、御供して、福嶋左衞門大夫正則が陣の脇より、打出んとす、正則が士、蟹才藏なり今日の先陣は、福嶋が給て候を、先懸けんとし玉ふは誰そ、狼藉なりと押止む、直政是は下野守殿、先陣の人々の軍するやう、御覽あるべきにて、井伊の侍從が、御供に侍ふなり、されば御勢をも倶せられず、通し參らせよといふ、扨は苦しからずとて、道を開く、そこを、つと馳ぬきて、敵の中に切て入り、散〱に戰ひ、守殿高名をさせ給ひければ、打破り駈け通つて、守殿と一所に馬を立て、息つき居たり、かゝる處に、嶋津兵庫入道惟新、負軍して、千人斗り、のけ甲になつて、馬を靜めて落ちて行く、直政が士、嶋津こそ通れといふ、直政あれば、御方がと問ふ、こゝを通る敵の事に候と、いひもあへぬに、直政馬を馳て追かく、守殿も續きて駈け給ふ、嶋津が兵、取て返し戰ふ、守殿組打して御手負はれ、直政も鐵炮に中りて馬より落つ、嶋津も終に逃れてけり、守殿も直政も、手深からねば、御供して御陣に參る、德川殿は、直政が守殿具し參らせ軍せし事ども、深く悅ばせ給ひけり、
此日敵悉くに敗る、嶋津希有に命のがれ落行く、直政はしめより入道と見けれども、守殿の御供はしつ、繼く御方もなし、入道壹人が生き延びたればとて、何程の事か有べき、若し止めんとて、多からぬ御供の人々損ひて益なしと思ひ、見ぬ振してありしを、直政が兵、元は武田が家に有しが、頻りに敵のよしをいひしかば、直政こらへず追かけて戰ひしが、果して守殿も直政も手負はれぬ、危かりし事なり、直政が士、骨法なしと人みな瓜彈きしたるとなり、又直政を鐵炮にて打ちしは、嶋津が家人河上四郞兵衞忠允が若黨柏木源藏といひし者なり、おのが主河上が打たるよしを高聲に名のりしといふ、
又石田が澤山の城を攻らるべき先陣を給ふ、金吾中納言秀秋强ちに望まれしかば、直政二陣に定められ、城をば終に攻破る、かくて國々の御敵、一時に平らき、此年十一月、御方せし諸大名、勳功の賞を給はる、明れば六年二月、直政に、石田が領せし近江國の地を給り、三万石を加へられ、十五万石を領せしといふ、七年正月從四位下に叙し、同年二月朔日年四十二歲にて卒す、
兵部少輔藤原直勝は、初め右近大夫直繼侍從直政の嫡男なり、始め慶長七年生年十二歲にて父に繼く、同き九年の春、仰によりて、彥根の城を築きて移る、同十三年伊賀の筒井が傳別にあり新領收公せらし時1、伊勢本多美濃守美濃松平飛驒守の人々と彼國に向ひ、直勝は留りて上野の城を守る、此人天性身の煩ひ多くして、常に籠居けり、此人父にも弟にも生れおとりしかば、大御所の仰にて、病多しとて籠り居らしめしとも云、
  1. — 지면 그대로. 「せられし」에서 「れ」가 빠진 저본 오식 가능성
創業記に直勝家を繼で後、彼家人等相論の事たえず、應長十年1大御所伏見より關東に下らせ玉ふ時此由を聞召し、鈴木石見を淸洲の城に召し預けらる、十一年又關東に下らせ給ふ時、鈴木をば關東に召さる、十二年の二月又鈴木が子と西鄕勘兵衞と相論の事起れり、今年三月五日、直勝が母、關東に下る、上野國安中に住むべしと仰下さる、安中は直勝が所領なればなり、十四年の冬、上總介殿に近江國まゐらせられ、澤山の城に住せ玉ふべし、直勝は信濃國河中島に移るべしと聞えしが、終に其事はやみぬと云云、
  1. — 지면 그대로. 應長은 2년까지라 「慶長十年」의 저본 오기 가능성. 미확인
十九年の冬、大坂の兵起る直勝病に臥ければ、舍弟掃部頭直孝、兄が代官として、軍勢引倶して向ふ、此年將軍家の仰をかうむり、おのが所領の内近江の地をば直孝に讓り、上野の國に引こもりて、安中の城に住む、みづからは三万石を領す、直勝卒して年月を詳にせず其子兵部少輔直久1つぐ、正保二年正月十一日に參河國西尾の城給て移る、三万五千石なり、三万石ともいふ、萬治二年遠江國懸川の城に移り、此時五千石を加へられて、三万五千石を領せしと云、寛文十二年に年五十五歲にて卒す、卒せし月日いまだ知らず、其男伯耆守直武父につく、
  1. — 지면 그대로. 井伊直勝의 뒤를 이어 正保2年 三河 西尾로 옮긴 인물의 実名은 통설 直好이다
直政の室は松平周防守康親が娘なり、それに隨來りし女の直孝をば生めるなり、初め直政の室、彼の女の娠む事あるを知て、其父が許に送れり、其父をば印具德右衞門某といひて、康親が家の侍なり、此年天正十八年の秋、德川殿關東に移らせ玉ひ、直政上野國箕輪の城を給ひ、康親の子康重武藏國私市の地を給りて、印具關東に移るとて駿河の國藤枝の宿に至る日、直孝は生れてけり、六歲に及ひし時、其母いたきて箕輪の城に赴き、直政が城外に出しを待得て、此御子かくまで育て參らせて候、今は渡し參らせ候べしといひて、みづから參らせて、私市にかへりぬ、直政頓て其處の庄屋といふ者に、此子よく育てよとて給てけり、十一といふ年の暮に、彼の庄屋が家に、夜盜餘多入來る、直孝其一人が高股斬て、下部等召て生どりぬ、十二歲の時、直政ひそかに直孝めして、年來みづから執りし所の釆配を授けぬ、如何に思ふ所やありけん、其明年に直政は卒してけり、
「此とき直孝は淚を流して、兄にて候ふ直勝、年頃病ひに犯され、軍國の務にたえず、然りとは申せども、大御所むかし父にて候侍從直政に附けさせ玉ひし、ふるき者共、猶多く候へば、家の事をば沙汰し申べし、また直孝かくて候へば、天下の御事あらんには、兄が代官として、彼手の者を引具して、馳向ひ候はん事、此度の如くにこそ候べけれ、如何なる仰なりとても兄にて候ものを退け父が家を繼かん事、望む所に候はずと辭し申けれども、御許しなければ、重て安藤帶刀直次に就きて、頻になげき申す、終に御許しなかりけり、かくて、直孝父が家を繼て後出仕す、やをら進み出て、本多佐渡守正信が座の上に着く、其體誠に優なり、事終てのち御前を罷出て、正信に向ひ、今日の振舞、無禮にこそ侍れ、去ながら、故侍從が家を繼くべしとの仰を蒙りて候上は、向後の事は、御免あれといふ、正信されば、けふのふるまひ、正信こそ悅ひて侍れ、かくあらん人と知召されし、將軍家の御心の程、有難う候者かなとぞ答へたる、是を見し人、打寄〱、きのふ迄も大番頭して、遙かの末座に伺公せし人の、けふは一臈の上に立ちし有樣の、優しくも見えき、あはれ將軍家の能き御固めなりけりと賀し申てけり、
かくて再び兵起りて直孝また先陣承りて、大坂に向ひ戰て、敵の大將木村長門守內藤新十郞山口左馬助等を先として、首三百十五切取て獻る、其勳賞に、近江國長濱の地加へ給ひ、五万石を給り、廿万石を領す、また從四位下に叙し、侍從に任し、其後從四位上左少將を經て、正四位上右中將に至る、大相國家の御時又地加へられ、五萬石、その年月いまた詳ならず、元和五年の事也といふ、月未詳、左大臣家御代知し召されし初め、また所領加へ玉ひ、五萬石を玉ふ、是も年月詳ならず、都合三十萬石を領すといふ、身既に三代將軍家の大老として、万治二年六月廿八日に卒す、七十一歲、嫡子靱負佐直滋は、如何なる故か有けん、萬治元年閏十二月廿二日世を遁れて入道す、二男直寛辨之助三男直時內匠頭世をはやうす、四男玄蕃頭直澄、万治二年四月六日嗣となり、父卒して家をつき、此年侍從に任し、又從四位下に叙し、寛文五年四月左少將また掃部頭になされ、延寶三年十二月廿四日1に卒す、其子玄蕃頭直興、實は直時が男、直澄が嗣とせん事を望み請ふ寛文十二年十一月廿六日御許しを蒙る、同き十二月廿八日從四位下侍從玄蕃頭になされ、直澄卒して家を繼ぐ、
  1. — 지면 그대로(「三」 확대 확인). 井伊直澄의 몰년월일을 延宝4年 정월로 전하는 자료가 있다. 미확인