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大久保

第四中 · 단락 12 · 780521 2코마 L부터

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이 가문에 자주 나오는 인물·지명

인물 81 53 46 21 17 16 15 15 15 12 11 10 8 8 8 8 7 7 7 7 5 5 5 4

지명 12 10 9 8 7 7 6 6 5 5 4 4 4 3 3 3 3 3 3 3 3 2 2 2

並合記を考るに、朝綱が子、孫左衞門尉何某、新田世良田の人々と同しく、後醍醐天皇第九の皇子尹良親王の御子良王に從ひ奉る、宮は永享五年鎌倉の執事上杉が爲に搜し出され玉ひて、下野國落合の城を落ち、信濃國木曾の山家に忍ば玉ひ、同き七年の冬三河國へ打越んとて、並合に至らせ玉ひしに、飯田にて駒場が爲に襲れ、世良田桃井の人々二十一人枕を並て戰死す、其間に、宮をば宇津宮御供して、三河國に入れまゐらせ、これよりして、尾張國津嶋奴野の城に移し奉る、御供の人々悉く尾張三河の國々に留り住む、宇津宮が一族同き甚四郞忠成、三河國大久保といふ所に住み、名字改て大久保と名のる、また三河國前木にすむ、桐山の大久保といふ一流あり、又駿河國にありと云々、○按ずるに此記の記るせる所、宇津宮が後、大久保と名のりし事詳なるに似たり、されど家の傳ふる所にあらざれば爰に註す、
蓮常が四代の孫、宇津宮八郞左衞門某、初めて松平和泉入道殿に仕ふ御法名、信光此後子孫永く當家譜代の侍とは成てけり、其子三郞左衞門尉忠與、其子左衞門五郞忠茂といふ、忠茂が世に始て、大久保とは名乘けり、家に傳ふる所は、此時紀伊國の大久保といふ功のもの、三河國に來りしに、夫が家號を請て、大久保とは稱せし、また長親主の仰に依れりともいふなり、爰に當國の住人松平彈正左衞門尉昌安、其身は岡崎の城に在ながら、山中の地をも兼領し、東三河盡く打從へんとす、和泉入道殿四代の御孫安祥二郞三郞殿御諱清康十三の御年、御父源藏人殿の御諱信忠讓受け玉ひ、安祥の城に住し玉ひ、幼なきより御心も剛に、御謀もいみじく十六歲の御時、まづ山中の城攻取らんと議せらる、忠茂謀を參らせ、大久保彥左衞門物語に、此事を記し、七郞右衞門と載す、左衞門五郞後に七郞右衞門といひし成べし、時を待ち玉ふには若くべからずと申て、此年大永六年の四月風烈しく雨甚しき日、御勢引倶して、山中の城を襲ひ取る、此勢に乘して、岡崎城をも攻らるべしと聞えしかば、彈正左衞門大に恐れ、急ぎ聟君となして、岡崎の城を讓り參らす、二郞三郞殿、忠茂を召て、汝が功莫大なり、恩賞請に依るべし、望み申せと宣ふ、忠茂承て、君に忠盡さん事珍しからず、子息等皆一所懸命の地下し玉ひ、某又年老たり、何の望か候べきと申す、二郞三郞殿聞召され、夫れ功ある者に賞行ふも、一人が功を賞するのみにあらず、多くの忠を勸めんが爲なり、汝辭する事あるべからず、ひらに望めと、重て仰下さる、さらば、此國に用る升司とつて、侍らんには、老養ふ程の料は候ひなんずと申、安き程の事なり、とて、御許しを蒙る、忠茂天文十六年二月四日に死しぬ、男子四人嫡子は新八郞忠利4、後に五郞右衞門と申剃髪して常源と號す、二男左衞門二郞忠次忠次が子阿部定次が養子となり、阿部四郞兵衞忠政と申と云、或は三男なりとも云、三男甚四郞忠員、後には平右衞門是相摸守忠隣が祖父なりけり、四男彌三郞忠久と申す、家の系圖には、忠茂が子息等、初めて大久保と名乘と記せり、○按するに、山中の城を取りし事、大久保が家、初度の大功なり、幾程なくて、二郞三郞殿世を去らせ玉ひ、贈大納言家御諱廣忠此時には千松丸殿と申し奉る、御年僅に十歲になり玉ふを、內膳正信定出雲守長親の二男二郞三郞殿の御叔父、岡崎の城を出し參らせ、御領悉く奪ひ取る、安部大藏を初めて、御家人少々若君の御供し、大久保兄弟は殘り留る、安部、伊勢の國より駿河國府に趣き、今川殿を賴みしかば、義元朝臣軍兵を差添へて、參河國牟呂の城に若君を納らる、天文四年二郞三郞殿失玉ひ、贈大納言家國を去り玉ひ、伊勢の神戶に趣き、遠江の貝塚に移り、同き五年九月牟呂の城に入らせ玉ひしなり內膳正信定、安からぬ事に思ひ、此上は大久保兄弟に心ゆるす可らずとて、新八郞忠利をめし、伊田の八幡の神殿にて、二心を存ずまじき由の起請文を、一日に七枚づゝ、三日までこそ出させたれ、忠利、兄弟等を近付け心あらん御家人、誰か若君を迎へんと思はざるべき、夫にかく我を疑ふは、年頃の本意察せられぬ、事もし遲なはつて後、如何に悔ゆとも及ぶまじとて、先づ牟呂の城に牒狀し、忍ひ〱に御一門の人々を始て、譜代の御家人かり催し、天文六年五月朔日岡崎の城を奪ひ返へし、若君を迎納れ奉る、此事精く大久保が物語、阿部四郞兵衞定次入道が記に見えたり、○按するに是大久保が家、大功の二なり、同十六年の春、按するに、此頃迄忠茂世に永へしなり藏人信孝、罪有て、所帶沒收せらる、信孝大に驚き、今川殿に附て、誤なき旨を申披んとす、岡崎殿、即ち贈大納言家の御事なり、彼罪科輕からずとて許し給はず、信孝深く恨み參らせ、兵起して軍せんとす、この信孝と申は、安祥殿の御弟、岡崎殿の御叔父にて、譜代の士あまた其手に附らる甚四郞忠員、彌三郞忠久、兄弟も彼手に屬す、兄弟、傍輩に向て、我等信孝の郞等にあらず、主君の仰、承て彼手に從ふ輩なり、如何で反逆の人に組みして、正しき君には背くべき、いざ岡崎に參らんといひしかば、人々皆尤〱と同じて、岡崎殿に馳參る信孝彼等を賴んでこそ軍せんとは思ひつれ、今は如何にも叶ふ可らずとて、殘止る兵五十七騎を引倶し、尾張國に趣き、織田備後守信秀に隨ふ、信長朝臣の御父なり、信秀大に悅び、信孝に案内させ、三河國に向て、爰かしこに攻入、岡崎殿今川の加勢乞て戰はんとて、德川殿僅か六歲に成り玉ふを、駿河國に參らせらる、然る所に、田原の戶田心變りして、若君信秀が爲に奪れ玉ひ、幾程なくて、岡崎殿かくれさせ玉ひ、備後守信秀も失せ、是より先、藏人信孝も打れしなり、今川殿如何にもして、若君を迎へんとて、今年天文十八年十一月安祥の城を攻破り、信長の舍弟三郞五郞3信廣を虜にし、德川殿に替らる、大久保が一族、信廣を送て、若君を迎取參らす、此事の始終、伊東法師か記に詳なり、世に傳ふる諸記には、此事岡崎殿御在世の中の事と記す、誤れるに似たり弘治元年、德川殿の御家人、今川の催促に隨ひ、此時德川殿御幼稚にて、駿河にわたらせ玉ひしなり、尾張國蟹江の城をせむ、新八郞忠利、甚四郞忠員が嫡子七郞右衞門忠世、父子兄弟、誰彼七人先懸して、高名を顯はす、阿部四郞五郞、杉浦八郞五郞、河合帶刀、同才兵衞、凡七人、蟹江の城七本鎗と呼れしなり、○按するに阿部四郞五郞といふは、忠次が子なり、同き二年の春、德川殿御軍始のため、御歲十五歲なり、三河國梅が坪の城を出て、廣瀨の城に向はる、七郞右衛門忠世、織田殿の家子津田兵庫介を討取る、是よりこのかた、大久保が一族、常に德川殿に隨て、軍の先を懸けずといふ事なし、三河國大略從ひ參らせしに、永祿六年の秋の比より、不思議の大變出來て、國中以の外に騷動す、縱令ば、當國佐崎といふ所に、上宮寺といふ寺あり、彼寺の僧侶、德川殿に叛き參らせ、野寺針崎の寺々に牒し合せ、門徒の鄕人等駈催し、吉良義昭を大將におし立て、東條の城に移し入て、國中の一揆等所々に蜂起す、德川殿宗徒の人々を召て、一向專修の敎法、此國に行ばるゝ事年久し、譜代の家人等、多は彼寺々の檀那たり、速かに其宗門を改め、彼逆徒に組すべからざる旨の起請文を書て參らすべしと仰下さる、彼檀那等、各寄合〱詮議す、抑衆生の四恩何れ淺深はあらず、去りながら君父現當の恩よりも、如來悲願の大恩は、未來永劫を經るとも、盡くる期、更に有べからず、されば、たとへ譜代相傳の主君に叛き奉るとも、如何で佛法の破滅を擁護せざらんと、同意一統して、或は兄弟引き別れ、或は父子と打連て、都合侍八百餘人、皆寺へぞ籠りける、此所に至ても、大久保が一族、親類の因みを離れ、傍輩の好みを捨て、壹人も背き參らするものなく、上和田に要害を構へて、勝滿寺に向て、日々夜々に攻戰ひ、騷しかりし年暮て、明れば七年正月十一日、上和田の合戰に、新八郞忠勝眼を射られ忠利入道常源か子七郞右衞門忠世も手負ひ、其外一族郞等一人も疵を蒙らずといふ者なし、同き二月蜂屋半之允親周5、所緣に就きて、大久保治右衞門忠佐に依て、罪赦れて、御家人に召返されん事を望む、御許し有べしとも聞えず、忠利入道常源、岡崎に參て、抑今度御家人等が背き參らせし事、君を恨み申事あるにても候はず、只心の愚なる儘に、深く佛法を信ずるに依てなり、尋常の謀反叛逆なんどゝは、其科同じかる可らず、彼等が罪だに御許あらんには、吉良荒川の人々を初めて、御敵悉く平げん事、踵をめくらすべからず、また入道が一族の軍せしやうをば、君も御覽じてころ候はめ、彼等が勳賞に申かへて、八百餘人が首を續くべきにて候と申ければ、汝が申所、理あり、左あらば汝が計ひに任すべしと仰あつて、御家人等悉く召返され、吉良義昭を始て、謀反の張本せし輩、忽ち亡失せにけり、大久保が家大功の三なり、同き八年三月長澤の城落て、忠世等一宮の要害を守り、同き十二年正月忠世忠佐兄弟等、掛川の城の邊りにて、今川の勢と戰ふ、元龜三年十二月、三方が原の合戰、御方既に打負て、散々に成て引返す、忠世御籏を賜て、犀が棧に打立て、落來る御方を集て、此事創業記考異に出つ濱松の城に參り、忠世、今夜敵陣に夜討せんと存ず、人々の手に候ふ足輕の鐵炮に馴たるを集て、給るべうもや候と申す、德川殿御感斜ならず、人々に仰せて足輕の兵を召けるに、或は打れ又は落失て、殘る所二三十人には過きず、忠世が手の者を合せて百餘人、敵の陣取たる犀が棧に押寄せ、鐵炮こと〱しう、續けざまにぞ打つたる、武田にては、今夜夜討のあらんとは思ひ設けず、俄の事にてはあり、敵思ふにも似ぬ多勢なりとて、周章ふためく事大方ならず、大膳大夫入道信玄、大に驚き、今日の合戰に、宗徒の兵多く討せ、今夜の夜討如何にも叶べからず、家康が軍のやう、あなどりにくしとて、明れば井谷に引入る、今夕武田が兵、犀が棧に落て死するもの數千人といふは僻事にや、大久保が物語並に創業記等に見えず、甲陽軍鑑にも此事を論したり、天正三年四月武田四郞勝賴、甲斐國を立て遠江國を經て、參河國長篠の城に押寄す、德川殿御父子後卷せんとて打立、織田殿に加勢を乞はる、御使度々に及びて後、信長父子、數万騎の兵を率ゐ來り、有海原に打向ひ、流を前にして、柵結て陣を取らる、この有海原といふは、南北に高山そばだつて、其間三十町には過ぎず、乘本瀧澤、二つの川、縱橫に流れて落合たり、勝賴敵近づきぬと聞て、長篠の城の上に當て、鳶巢といふ山に要害を搆へ、宗徒の士大將七人を留めて、其身は一万五千餘騎を引率し、瀧澤川を渡て、有海原に打出、谷川を前に當て、陣を分つ事十三所、西に向て扣へたり、兩陣の間僅か二十町には過ぎず、五月廿日の夜、酒井左衞門尉忠次、信長の軍兵を引倶し、山路を傳うて、鳶巢に向ひ、明れば廿一日の朝、敵の要害を攻落す、忠世が弟治右衛門忠佐、兄に向ひ、今日の戰は、我等が爲には當の敵、信長の加勢に、先を懸けさせんは、無念の次第成べし、我等まづ魁けて戰はゞやといふ、忠世いしくも申たる者がなとて、德川殿に參て斯と申、足輕の弓鐵砲の達者、引すぐつて、兄弟に附けられたり、馬に乘ては駈引き、自在なるまじとて、兄弟が手勢も皆下り立せて、先陣に進む、石川本多鳥居平岩が勢、同しく續て打て出、兄弟まづ足輕を出し、敵に向て鐵砲を一度に放つ、武田が方にも、山縣三郞兵衞昌景、千五百人、是も同じく下り立て、錣を傾け、面もふらず、太鞍を打て、えいや聲揚て、進み來る、兄弟が兵、敵懸れば、さつと引て、鐵砲を放て打散し、敵引けば打て出て、をめいて切て懸る、小菅廣瀨三科とて、一人當千の敵と、忠世忠佐、兄弟名乘かけ〱、追ひつ返しつ、九度まてこそ責めたりけれ、小菅三科手負て引く、大將昌景、鐵砲に中て、馬より落つ、織田殿方にても、佐久間右衞門尉信盛六千人、瀧川左近將監一益三千人、柵より外に打て出て、馬場內藤駈け立られ、さん〱に成て引て入、數万騎の軍勢たゝ一所に集て、柵より外に出も得ず、只たゞ遠矢に射取れやとて、三千挺の鐵砲を、一面に立並へてぞ放したる、織田殿遙に大久保兄弟が、軍するやうを御覧して、家康の手の戰、敵味方いつれ隙ありとも見えず、其中に、金の蝶の羽、腰にさしたる、殘黃1の幟に、黑餅つけたる、敵かと見れば味方になり、味方かと見れば敵になり、敵味方のさかひ、定かならず、誰かある見て參れと宣へば、德川殿の御陣に馳來て、斯と申、德川殿聞召て、あれは家康が侍大將、兄弟にて、蝶羽は黑餅が兄大久保七郞右衞門忠世、黑餅こそ同治右衞門忠佐とて、蝶羽が弟にて候へと仰ければ、織田殿此由聞玉ひ、なに味方と申か、さん候と申す適れ大剛の兵かな、彼等兄弟に似たらんは、信長が手の者には、いまだ候はぬとぞ宣ひける、去程に、馬場美濃守信春、織田殿の陣に向て、手の者多く打たせて引く、眞田兄弟入替れば、土屋も頓て押續き、柵の木、引き破て入らんとし、皆鐵炮に中つて死す、山縣既に打たれて後、武田左馬助信豐を先として、甘利、原、跡部、小幡、望月、安中の者共、一勢〱入替〱、德川殿と戰て、討たるゝもの、數を盡し、助かるもの多からず、南北の敵、散々になつて逃け散れば、四郞は主從三騎にて、本國さして落さりぬ、軍既に事終て、織田殿、大久保兄弟を召され、このたびの軍に利を得し事、ひとへに汝等兄弟が戰、拔群なりしゆゑなりと、感じ給ふ事、大方ならず、此後安土にて、忠佐に小袖を賜りし事、大久保が物語に詳なり、此年六月七日忠世二俣の地を賜ひ、皆野の原に、要害搆て、二俣の城を攻む、武田が加勢も來らざれば、城の大將依田右衞門尉信蕃こらへかね、忠世に城をさけわたし、高天神の城に入けり、城をも忠世に給て、同九年に至まで凡七年が間、敵の境に打出て、日夜の戰ひ暇なく、同十年武田四郞亡ひし時、依田右衞門尉、駿河國田中の城にあり、爰をも忠世ぞ受取てける、今年六月、織田殿また討れ玉ひ、甲斐信濃再ひ亂る、忠世仰を承り、宗徒の人々打連て、甲州を討從へ信州に至て、諏訪小太郞を始とし、當國の國人等を悉く降だす、かゝる所に、北條左京太夫氏直、上野國をしたかへ、碓氷峠を打越え信濃の國より甲斐の國に入て、德川殿と戰ふ、忠世又計らうて、眞田安房守昌幸、御方に參る、斯て諸方の戰ひ、氏直の軍盡く利を失ひ、德川殿に中直りし、信濃上野を經て、相摸國にぞ歸られける、かゝりし程に、德川殿古國府に御陣を居立られて、山林に伏し隱れし武田が家の士をも、皆御家人にめされて後、十二月廿一日、濱松に歸り玉ふ時、忠世を召され、甲信の國々打續たる兵亂に、人の心いまだ定らず、或は上杉等に志を通し、或は北條に謀を合す、汝此所を留て守るべしと仰下されけり、初め信濃に向ひし時、忠世德川殿に申けるは、彼國の住人依田右衛門尉信蕃、去し頃駿河國を去りし時、御使を賜て、御方に召るゝ事、度々に及へども參らず、主の行方、覺束なしとて、甲斐國に歸りき、武田が兵多き中に、彼が忠を存ぜしに、似たるものも候はず、又忠世二俣田中の兩城を、彼が手に請取て候へば、いさゝかの所緣に引れて、此程二俣の城に、迎取て候ひぬ、又柴田七九郞、罪蒙りて年久し、あはれ御免の仰せ承て、信蕃と同しく信濃に出向はゞ、依田が家子郞等馳せ集り、從はぬ國人等、押寄〱攻めふせば、彼國をしづめん事、御勢を向らるゝ迄も有べからずといひしかば、忠世が申旨に任せらる、依田柴田信濃國に向て、去る十一月まづ前山の城を攻落し、高棚小田井等の城〱攻破れは依田か落せし城九つといふ、信蕃本領を賜ひ、佐久郡六萬石なり、其後甲斐駿河の地加へられて、十萬石に至る、○山中忠兵衛が記せし所を見るに、依田が功莫大なり、大久保が家の事にあらねば略しぬ、柴田をば、忠世と共に甲斐國にぞ留めらる、今年六月の終より、十二月に至る迄、僅か七月にたらずして、甲斐信濃の隨ひしは、忠世が功こそ、多かりけれ、大久保か家、大功の四つなり、今年忠世が計ひにて、諏訪小太郞味方に參りしに、酒井左衞門尉忠次と爭論の事有て、おのが城に立籠る、斯ては此國の侍、悉く背き參らすべしと見えければ、忠世また仰を承て、諏訪が許に使立て、とかく拵へし程に、明れば十一年三月に、諏訪父子また御方に參る、又上田の城をも取て、眞田に與へけり、十二年德川殿、北畠殿を助けて、尾張國に向ひ給ひしかば、忠世御後に留て、濱松の城を守る、三遠記と云ふ書に出つ、曰く五箇國の軍兵、凡四萬五千餘人の人質を預り守ると云々、此事大事なれば、忠世に仰下されしといふさも有べし、されど大久保が物語にも、また其餘の記にも漏れたる事、いぶかし、十三年九月廿三日2、依田信蕃、舍弟伊賀守信幸、善九郞信春、岩尾の城に押寄せ信蕃、信幸、敵の矢に中て、死し、信春また痛手を負ふ、大將既に斯の如し、士卒などかは、ためらふべき、息をもつかず、攻めしほどに、岩尾小次郞城を落つ、家忠日記には、此事天正十一年二月の事とす、山中忠兵衛か記を見るに天正十一年より十二年に至て、依田眞田と戰ふ事、度々に及ひ、中にも十二年八月二日、加野川の戰に、首二百餘を打取、味方も八十騎打ると記す、然れは、十一年に依田打死せしといふは誤れるにや、又家忠日記に、善九郞も岩尾にて討れぬといふ、是も山中か記とは同じからぞ、
  1. — 지면 그대로. 「淺黃の幟」의 저본 오식 가능성. 미확인
  2. — 지면 그대로. 依田信蕃의 岩尾城 전사는 통설 天正11年(1583) 2月이다. 저자 할주도 家忠日記의 天正11年 2月설을 들고 있다
  3. — 지면 그대로. 織田信広은 통설 信長의 서형(庶兄)이다
  4. — 지면 그대로(이 단락 3곳). 常源이라 호한 大久保 新八郎의 実名은 통설 忠俊이다. 미확인
  5. — 지면 그대로. 蜂屋半之丞의 実名은 통설 貞次이다. 미확인
德川殿、依田兄弟が討死せしを、大に感じ玉ひ、信蕃が嫡子竹福丸に、父が領十萬石を給ひ、天正十五年叙爵す、御諱字御家號給て、松平修理大夫康國と名乘、十八年小田原の軍に、康國手勢三千八百を引て、碓氷口より攻下り、松井田の城を攻落し、首四十三打取、八王子惣社の兩城をもおとす、上野の長根の城1を攻めて、討死す、康國が弟松平左衞門大夫康直2、家を繼く、關東に移らせ玉ひし時、上野國藤岡の地三萬石を領す、此康直、兄康國が妻にそふ、或時御家人の內にて、康直と碁を圍みて負けし人の、我は圍碁には負るとも、兄の妻を我妻とは、すまじいものをと云ひしかば、康直怺へず、打切て逃け去りぬ、其後結城殿、賓客のやうにて召し置れ、祿七千石を賜ふ、其時は入道して加藤宗月と申せしなり、
  1. — 지면 그대로. 松平(依田)康国은 통설 天正18年 上野 石倉城에서 항복 교섭 중 살해되었다. 「長根の城」과의 관계 미확인
  2. — 지면 그대로. 依田康国의 동생으로 뒤를 이은 인물(加藤宗月)의 実名은 통설 康真(康勝)이다. 미확인
忠世、依田が兄弟討れぬと聞て、急き彼國に馳せ向ひ、信蕃が嫡子源二郞が、此時は竹福丸兵を一手にして、小諸の城を攻落す、信蕃既にして死し、子息いまだ幼なし、忠世小諸の城に留る、今年の秋、眞田又叛きしかば、討手の勢を向られ、忠世同く押寄たり、御方攻損じて引返す、忠世人々を勸めて、御方の勢を一手になし、又戰んとせしかども、人々引て歸りしかば、其身も小諸城に歸る、同き十一月石川伯耆守數正、岡崎を去て、都に登り、三河遠江の間、以の外に騷動す、急ぎ御使を給て、忠世を召す、忠世承て、當國の住人小笠原心變りすと聞ゆ、數正、旣に小笠原が質をも盜取て、上洛すと承る、貞慶が謀反、疑ふ所あるべからず、忠世急て馳參らは、上方既に亂れて、忠世また落行ぬと申さんには、當國の國人等皆御敵とこそ成べけれ、また信玄の子に龍寶と申が、盲なるを、眞田が主になさんとて、越後國より迎て、甲斐の國へ打入んとすと聞ゆ、もし風聞の如くんば、甲斐國また亂れなんず、彼といひ、これといひ、以の外の大事なれば、暫く此城に留り、事のやう見おほせてこそ參へけれど申て、御使をば返したり、飛脚また日々に往來し、急き馳上るべき由を仰らる、さらば然るへき者此城に留めて、參るべきにて候とて、舍弟平助忠敎を、後に彥左衛門小諸の城に留て、濱松にこそ參りけれ、忠敎爰に在る事來年正月に至る、此後東西御和睦あつて、德川殿關白秀吉に御對面のために、都に登り玉ひ、大廳岡崎に下り給ふに、忠世、井伊本多作左衞門重次なりと共に、御後に留る、小田原を攻められしに、忠世先陣を奉り、今年德川殿關東に移らせ給ひしかば、忠世に小田原の城を賜ひけり、四萬石を領す、後に五千石を加らる、
家忠日記にも、其餘の傳記にも、井伊本多榊原大久保には、關白殿内々の仰有て、所領の地賜ふとしるす、又按ずるに此人々には、關白殿より所領賜りしと存ずるなり、上杉島津其外の家人に此例多し、これ秀吉の姦謀にて、大名の主從、不和にすべき爲なりと見えき、秀吉薨ぜられし後、島津が伊集院を誅せしにても、推て知るべし、されど、當家の人々は、關白殿より賜ひしといふ事を嫌ひて、秀吉の御內意とは云ひしなるへし、若し德川殿の御心にて、此人々に大祿を賜ふ程ならば、酒井左衞門尉が家、僅に三万石を賜ふべきや、不審、
忠世行年六十三歲にて、文祿三年九月卒しぬ、嫡子相摸守忠隣父に繼く、忠隣初名忠泰新十郞と申生年十一歲より、德川殿に近く仕へ、生年十六、堀川の戰に初て敵を打、十七歲の時、天王山の戰に、敵陣に馳せ入て首を取る、此年また天方の戰ひに首を得たり、十八歲の時、姉川の合戰に、先懸し、三方が原の合戰に、御方散々に戰なつて、德川殿に隨ひ奉る人多からず、忠隣馬射られ、步行立になつて、少しも後れ參らせず、德川殿、御馬を引返し、落來る御方を待ち玉ふに、此所彼所より馳參て、兵少々出來たれど、馬にて參りし輩は、菅沼藤藏後に土岐山城守三宅彌次兵衞、これら二騎には過ぎず、德川殿小栗忠藏を召して、汝如何にもして馬とつて來れと宣ひしに、小栗取て返し、能き馬取て打乘り、頓て追付き奉る、いかに忠藏、其馬新十郞にや借すべきと仰ければ、承ると申て飛て下り、忠隣を助け乘す、小栗此日の戰に、鎗にて股をつらぬかる、血夥しく流れおつ、ちつともひるます、馬に添て、濱松に歸れり天正の初より、忠隣奉行職に參はり、國務の事を沙汰す、
古き奉書に、大久保新十郞奉と書し者多し、信州村上の末流の家に傳へし古文書の中に、新十郞忠泰村上源吾國淸に送りし數通あり、其中三月九日と記せし書に、去月は其國に罷越、輝虎の見參に入し由を載たり、又德川殿より國淸に給りし御書に、此度大久保を差出さるゝの由にて、二月廿日と記さる、思ふに此事天正二三年の間にあるべし、又忠泰松平左近將監貞政1と連署して、國淸に贈れる書あり、謙信上洛のよし聞えて、其期を問ふ所にして、二月五日と記せり、是は天正六年の事と見ゆ、此年三月十三日謙信卒しぬ、
  1. — 지면 그대로. 이 시기 左近将監은 大給 松平真乗로 보이며, 「貞」은 「眞」의 오기일 가능성이 있다. 미확인
長久手の戰に德川殿と馬を並べ、御手の兵を下知して軍させ、森武藏守長一、黑母衣一揆、馬の鼻を並べ、山よりこなたに駈け落せば、忠隣眞先に進んで、能き敵二騎切ておとし、馬乘廻し〱、御手の兵の軍するやうを見る、人々打取たる首ども差し上〱、まづ忠隣に見す、長一が陣既に破ると見て、又池田紀伊の入道が陣に馳入る、步行立の敵、鎗取て駈け向ふ、忠隣も取直して、互に突く、敵の槍、むかふざまに冑の內に突入し程に、忠隣あをのけに馬より落ち、敵頓て其馬に打乘て、逃け延びぬ、此時忠隣が乘たるゑのこ較といふを、後に池田が侍土肥權左衞門といふものゝ許より返し贈る、されば此敵は土肥なるべし、忠隣が郞等、また宮地彥九郞主失うたる馬取て、我主を乘す、敵陣悉く破れしかば、忠隣味方の御勢を止て、御前に參り、人々の高名不覺、糺してけり、此日忠隣に續きし郞等下部、打取首十二、生捕壹人とぞ聞えたる、天正十四年十二月四日駿河の國府へ御舘移さる、俄の事にてはあり、年も暮れんとす、家移す御家人一人もなし、忠隣ばかりぞ移る、德川殿も悅ばせ玉ひ、人々も皆感じあへり、創業記には、駿府へ移らせ玉ふべきよしは、去る天正十三年より披露ありしかど、關白殿と御軍始りしかば、其事止みぬ、御中直り事成て、十四年の十二月御移りありと記せり、考異には、十四年九月十一日にまづ御移り有て、廿四日に岡崎に趣き、廿七日に濱松に歸らせ玉ひ、十月に關白殿との御和睦なると載せらる、されども諸記みな創業記に同し、十六年四月德川殿の御供して、上洛し、叙爵して、治部大輔になり、其後に相摸守十八年關東に移り玉ひし時、武藏國羽生の地給ひ、一萬石文祿二年十二月、中納言殿に附らる、同き四年、當關白秀次、御謀反の企ありとて、大閣の御不審、蒙らせ玉ひ、かくては一定失はれぬと思召し、當時中納言殿の都にましますを、たばかつて取參らせ、德川殿を賴みて、讒言を申し披かんと、四3月三日の曉、中納言殿に御使あつて、今朝の朝餉まゐらせなむ、參らせ給へ、よべより仰らるべきを、聊か事にまぎれてぞと宣ひ遣さる、忠隣頓て心得て、御使に對面して、忠隣謹て仰せ承りぬ、秀忠いまだ幼なく、いつも日たけて起きぬ、御返事遲々に及ばん事、憚少からず、まづ御使をば返し、訖んぬ、忠隣仰を傳て、頓て參らすべきにて候とて、御使を返し、土井甚三郞利勝を御供にて、中納言殿をば、窃かに伏見の御館に入れ參らせ、大炊頭が傳合見るへし、忠隣は留まる、關白の御使、度々に及ひて後、忠隣又對面して曰く、秀忠兼てより云合はする人有て、茶の會せんとて、今朝の曉、伏見に趣き、忠隣さる事ありとも存せず、例の日たけて起る事よと心得て候ひき、今こそかくとは承れ、返々も恐入ぬとて、御使を返す、日既に午の時斗りなれば、追かけて取參らせん事も叶はず、關白殿口惜き事に思ひ玉ひしが、程なく失はれ給ひけり、大久保が家大功の五なり、慶長五年の秋、東西一時に軍起る、中納言殿、宇都宮より引返し、山道より攻め上り玉ふ、榊原康政、忠隣父子、子息加賀守忠常、此時新十郞といふ、本多正信佐渡守隨ひ奉る、眞田安房守昌幸、上方に心合せて、信州上田の城に立籠る。康政忠隣まづ手合に眞田が伊勢崎の要害を落す、八月五日先陣4の軍勢等粮料の爲に、敵の地に押入て、稻を刈て歸る、城の兵と、はしたなく行合て戰ふ、大番の人々馳加り、御方次第に多勢に成しかば、敵は城に引て入る六日にも稻刈らん刈らせじとて戰ふ、菅沼忠七郞本名奧平、後には松平攝津守、其傳に詳なり、自餘の勢をも交へず、外城一つ攻め破る、此日本多正信、敵は多勢に恐れて、打出る事は、よもあらじ、只打捨て御通りあれと申ければ、康政忠隣、佐渡守が計ひに、若くべからずと申す、明れば七日御勢又稻刈らんと、爰かしこに打出しを、城中の兵、城戶押開て打て出づ、御方散々になつて馳歸る、追詰〱討たんとす、忠隣幷に牧野右馬允康成が兵、同じく取て返す、城中より是を見て、味方うたすな、者共と、我も〱と打て出づ、大番の人々を先として、御方も多勢馳加り、追ひつ返しつ火出るまでぞ戰うたる、敵は怺へず引返す、透間もあらせず追詰て、大久保牧野が兵二人、城の堞に飛のぼり、味方つゞけ、城は落ちぬと呼はつたり、大久保が兵は、杉浦平太夫と云旗奉行なり、牧野が兵は牲掃部1といふ者なり、かゝる所に、本多正信、御方の人々軍すと聞て、御下知なからんに軍する條、甚た奇怪なりと怒て、御使を馳て、御方を制して引返す、同き九日御陣を小諸の城に移さる、佐渡守、中納言殿に申て、拔がけして城攻めたる輩、軍法に任せて、速に誅せらるべしとて、まづ忠隣康成が兵既に城に乘たる上は、首を刎べしと下知す、牧野が嫡子新二郞忠成時に十八歲此由を聞て、彼郞等を具して逐電す、父右馬允康成罪蒙る、牧野が傳に詳なり、忠隣が嫡子新十郞忠常も、彼の城に登りし兵、杉浦ぐして失せんとす、杉浦聞て、御情の程、死しても如何で忘るべき、たゝし我が命の惜きとて、君を失ひ參らせんは、望む所に候はず、命は義に依て輕しとこそ承れといひもあへず、みづから首搔落して死にぬ、此外大番の人々にも、罪蒙りし人多し、これより御家人等、佐渡守を恨み、また大久保本多が不快、此時に始りしなどゝも申なり、大御所杉浦が忠死を感し玉ひ、其子二人御家人に召仕る、今の杉浦、彼等二人が後とぞうけたまはる斯て正信が計ひにて、御勢を引わけ、上田の城を守らせ、同き十二日小諸の城を御立あり、急きて打たせ玉へども、關が原の軍は既に終りぬ、此事の始終、榊原が傳をあはせ見るへし、○此年慶長五年の冬、大坂の西城に入らせ給ひし時、御代繼の事を議せらる人々申旨ありしに相摸守が申旨に因て、大相國家に定めらると、よく尋ぬべし、明れば慶長六年の秋、大納言家の姫君、大相國家此時には權大納言、加賀國へ入らせ給ひしに、忠隣して送らせらる、七年の五月佐竹が仙北に徒されし時、忠隣正信、常陸國に向て、國制を定む、忠隣男子七人あり、嫡子新十郞忠常、加賀守に任し、所領賜ふ、二萬石、忠常文祿三年元服して、御諱字賜はれり、奧平美作守信昌の娘に添ひ、大御所の御孫聟にて、殊に時の賢人と聞えしかば、將軍家の御覺も並ぶ人なし、慶長十六年十月三十二歲にて世をばやうす、二男石川主殿頭忠總一云敎高外祖日向守家成が家を嗣く、三男右京亮忠勝、後に敎隆四男主膳正忠長、後に幸信五男石川內記成堯、是も外祖家成に養はる、大坂の合戰に廿四歲にて打死、六男主計忠尙、七男刑部忠村と云、或は淸左衞門と申し早世すと云忠隣十一歲にて初て仕へしより、奉公の勞つもりて、六十二歲に及び、忽に罪蒙れる身となりぬ、人其故を知らず、たとへば慶長十九年正月五日、忠隣小田原の城を立て、都に上る、是れ大御所の仰を蒙て、西洋耶蘇の法、禁ぜんが爲とぞ申ける、同き十七日都に入て、藤堂和泉守高虎が家に宿し、まづ、西の京にある彼寺を焚き拂ひ、四條の坊に在りしをば、屋を毀て焚き捨てぬ、ばてれん、いるまんなど云て彼國の師二人、資財打捨て、西を差して逃げ行く、同き十九日關東にては、忠隣が男等を召して、本多佐渡守正信、仰を傳ふ、抑去年忠隣が養女を以て、山口伊豆守重信が妻とす、かねて兩御所の御聽にも達せず、執事の身として、始に憲法を犯す、其罪殊に輕からず、先づ忠隣が身は、其所領を收め、近江の地に移され、井伊兵部少輔直勝に預られ訖んぬ、子息右京亮、同主膳正二人、酒井備後守忠利を預人として、武州河越の城に召禁らる、然りといへども、大久保累代の功、沒すべからざる故に、故加賀守忠常が所領をば、其子仙勝丸に給ふ所なりとぞ聞えける、此日一記に廿一日安藤對馬守重信、御使を承り、宗徒の人々引具し、小田原に向て、忠隣が郞從等追却し、城郭を毀つ、外郭を破て、本城を止めらる、同廿四日佐渡守正信父子等、忠隣に配流の奉書を下す、兼てより板倉內膳正重昌、父に久しく對面に及ねば、身の暇賜て上洛すと披露して、忠隣に先だつて、都に上り、去年十二月十四日に、江戶を立つ父伊賀守勝重に仰を傳ふ、勝重既に其期に及びしかば、相摸守が旅舘に行向ふ、忠隣折ふし象戯に對し居たりしが勝重を坐に請し、忠隣配流の御使たるよし、さきに承り訖んぬ、流人の身となつて後、かゝる戯あるべしとも覺えず、待ち玉へ、事終て仰せ承るべしとて、靜に事を終て後、さらばとて、謹て仰を承り、さなきだに此間洛中洛外、物騒しかりしに、京童ども、忠隣罪蒙ると聞て、すはや事の起るぞとて、資財雜具等、こゝかしこに持運ひ、以の外に騷動す、忠隣此よし聞て、おのが弓箭兵伏、悉く束ね縛て、伊賀守が許に送る、家子郞等皆暇賜て、關東に下しげれば2、洛中程なく鎭まりぬ、二月五日森川內膳正、日下部河內守、大久保與一郞、同半助等、御勘氣を蒙る、これは去し十六年三月十七日大御所、關東へ下らせ玉ふとて、相摸國中原の御旅舘にわたらせ玉ふ時、加賀守忠常が病急なりと聞て、密かに小田原城に馳行し輩なり、同三月佐野修理大夫、九月安房侍從、里見なり二人共に所領沒收せらる、忠隣が緣坐なり、扨も忠隣は二月二日近江國に趣き、南光坊の僧正に就て、一紙の告文を捧く、大御所くり返し〱御覽して、兎角の仰出さるゝ旨もなければ、忠隣重て又訴ふる事もなし、斯て配所に年經て後、預人掃部頭直孝が時に至て、ある日對面の序に、罪なくて空しく成給はんころ、いたはしけれ、申披き玉ふべき旨あらば、直孝が身に替て、執し申べきにて候と勸む、忠隣聞て、御芳志の程、山よりも高く、海よりも深し、たゞし忠隣罪なからんには、如何でかゝる身とは成るべき、たとへ申披くべき旨ありとも、大御所既にかくれさせ給ひ、今に至て、御免し蒙りなば、大御所聞召し誤らせ玉へばこそ、當代には御免しあれと、世の人申候ひなん、さあらんに於ては、將軍家御父の過ち、あらはさせ給ふにこそ候へ、たとへ下を憐み玉ふ、御惠こう深からめ、何ぞ御孝行とは申べき、忠隣またおのが罪まぬかれんとて、さしも當代の太祖にて、終に御過ち無かりし御事を、世の人に疑はしめ、將軍家の御不孝を勸めまゐらせん事、更に本意にあらず、迚も身は斯なりはてゝ侍るをや、只此儘にこそ候べけれと云ひしかば、直孝重ねていひ出ぬべき言葉もなく感淚にむせび立出しが、忠隣終に配所にて、はかなくなるこそ哀なれ、
  1. — 지면 그대로. 통설 표기는 「贄掃部」. 미확인
  2. — 지면 그대로. 「下しければ」의 탁점 오식 가능성
  3. — 지면 그대로(「四」와 다음 열 「月三日」). 秀次 사건에서 秀吉 측의 詰問이 시작된 것은 통설 文禄4年 7月 3日로 「四月」과 어긋난다
  4. — 지면 그대로. 徳川秀忠 군의 上田城 공방(刈田 충돌)은 통설 慶長5年 9月 초순이라 「八月」과 어긋난다. 뒤의 「六日」「七日」「同き十二日」도 9월로 보아야 맞는다
忠隣罪蒙りし事、さだかに知る人なし、故に世の人色々の說多し、一つとして信を取るに足らず、たゝし駿府政事錄創業記並に考異等の實記を按ずるに、謀反の讒言ある由に似たり、今かの實記の說を取て、爰に註す、○慶長十八年の春、山口但馬守が所帶を沒收せらる、其よしを尋るに、大久保相摸守が妻は、石川日向守が娘なり、相摸守我妻の姪なれば、日向守の男長門守が娘養て、山口但馬守が子に嫁したり、將軍家此由を聞召て、御氣色宜しからず、其故は、石川長門守が男、その行猥がはしきに依て、近年御勘氣蒙りしに、それが妹を、御旨をも伺はで、但馬守が子息の妻に迎かへし事、上を蔑しろにする條、一方ならずとて、かく罪に處せられ、山口一通の書を捧て、訴ふる旨あり、相摸守大に怒れりと云々、山口が書の旨、また相摸守が怒りし事、何事といふ事は詳ならず、又相摸守が孫女の夫、里見安房守が罪狀を按ずるに、曰く相摸守が許に、足輕の兵並に兵糧馬の飼料等を送りし事、第一の條に載せらる、思ふにこれは、山口が書を捧け、相摸守か怒りし時にや、相摸守が怒りしは、山口に對して怒りしやうに見ゆ、上に向ひ參らせし事とは見えず、扨其後ことしの冬、大御所駿河より江戶へならせ玉ひ、程なく江戶をたゝせ玉ひて、相摸國中原の御旅館に入らせ給ひし夜、馬塲八左衛門といふ老翁、御館へ參りて、本多佐渡守に申事あり、この馬塲といふ者は、元は甲州武田が士、年頃御勘氣を蒙て、相摸守に預られて、小田原の城にあり、相摸守に我罪申披て給はれといへど、事叶ざるを大に恨みて、年月を送りしに、此春養女の事によつて、相摸守も御前よからぬと聞て、大に悅び、急度案じ出だしけるは、本多、日比大久保と不快の沙汰あれば、此人に就て、相州が事、讒して、御恩を蒙るべしと思ひすまして、八十有餘の馬塲が、いく程のよはひに、如何ばかりの榮花に誇らんとか、あらぬ事ども思ふさまに書認めて、彼御館に參りて捧しかば、俄に此處より江戶へ返させ玉ひ、相摸守をして、都にのぼり、邪法を禁ずべしと仰下され、都に上りし跡へ、御使ありて、郞徒等を追ひ出され、城をも毀たれ、やがて大御所江戶を御立あつて、小田原に至らせ玉へば、將軍家も同じく彼城に來らせ給ひ、御對面の後、大御所駿河へ趣せ玉ひしに、前の日より、往來の旅人を止むる事、西は三島より、東は大磯平塚に至り、箱根の山中には、道を夾て、五間づゝに、ひしと弓鐵砲を立並べて、警衞す、夥しといふもよのつねならず、同日、將軍家も江戶へ、歸らせ玉ひ、將軍家奉行職に、相摸守父子と音信を通ずまじき由の起證文を奉らしめらると云々、此外には、本文に記せるが如し、大略此趣に依て、此獄の事は、推して知るべきものか、○又世に大久保をば、本多が讒せしが、其報ひにて、其子上野介同じやうなる罪に逢うて、永く家を亡せしといふ、されど正信ほどの人如何でさる事有べき、是も信じかたき事の一條にぞ有ける、
加賀守忠季1は、故加賀守忠常が子、相摸守忠隣が孫なり、八歲にして父に離れ、祖父が罪蒙りし時、別の仰あつて、父忠常が遺領を賜りたれど二万石○此時十一歲なりといふ祖父が事に依て蟄居す、寛永二年御免を蒙て、始て出仕す、三年十二月叙爵し、同き九年美濃國加納の城を給ふ、五万石同十六年十一月播州明石の城に移る、七万石慶安二年七月四日肥前國唐津城に移る、八万三千石、寛文十年四月十九日、六十七歲にて卒す、嗣なかりしかば、右京亮敎隆の二男、出羽守敎博を以て世嗣とす、敎博家を嗣て、延寳五年七月廿五日、執政の職に補せらる、加賀守に任し、忠朝と改め名のり、又四位侍從になされ、同六年正月廿三日下總國佐倉城に移る、本領の嫡子安藝守忠增、二男は帶刀敎房、三男は宇津大學敎武とぞ申ける、
  1. — 인명 지면 그대로. 사실관계 미확인
治右衞門藤原忠佐は、平右衞門忠員が二男にて七郞右衞門忠世が弟なり、生年十六歲の時、柴田修理亮勝家と鎗を接せしより、此かた一生の高名いくらといふ數を知らず、忠佐十六歲にて柴田と戰ひし事、彥左衞門が物語に出つ、疑ふべからず、按するに御年譜幷家忠日記增補等に弘治二年正月十七日の事と見えたり、忠佐慶長十九年に七十七歲にして卒すといへば、弘治二年は十九歲の時なり、されは七十七歲にて卒せしといふは、誤れるにや、十六十九の文字、誤れるにあらずや、中にも永祿十一年正月2、今川の勢と、掛川の城の邊に戰て、敵の大將近松丹波守を討ち、天正三年五月長篠の合戰に、兄の忠世を勸め、先駈して、武田が勢を打破て、織田殿の御感に預る、忠世の記に詳なり、長湫の戰に、御使を承る、先陣にまじはりて、敵を打つ、頓て秀吉朝臣、僞て北畠殿と中直りし、又みづから四万五千の軍勢を引率して、樂田の邊に發向あり、德川殿淸洲の城にて、此よしを聞召し、鞭鐙を合せて駈向ひ玉ひ、先づ忠佐して敵のやうを見せらる、忠佐一騎多勢の中に駈入て、足輕の兵共、馬にて懸倒し〱、下部等に首拾はするを見て、敵大きに亂れ立つ、德川殿の御幟金扇既に間近く見え來れば、一支へもさゝへず、散々に成て逃げ奔る、秀吉の朝臣も、其夜の內に三里がほど引き、終に信雄と中直りをぞなされける、忠佐年頃鐵炮二十人頭衆の第一にて、關東へ移り給ひし後、上總國裳原の庄を領す、五千石關が原合戰に中納言殿の御供して、山道より上る、明れば慶長六年の春、駿河國沼津の城を給ふ、二萬石同き十九年九月七十七歲3にて卒す、世嗣なければ、家も絕え、城も除かれぬ、折ふし忠隣罪蒙りしかば、忠佐が家もれのづから1絕たりといふ、
  1. — 지면 그대로. 「もおのづから」에서 글자가 바뀐 저본 오식으로 보임
  2. — 지면 그대로. 掛川城 공방은 永禄11年 12月~12年 5月이며, 본서 f026.p003은 같은 일을 「同き十二年正月」로 적는다
  3. — 지면 그대로. 大久保忠佐의 몰년은 통설 慶長18年(1613) 9月이다(저자 할주도 「慶長十九年」으로 적음)