駿河守藤原直賴は、近江國の住人藏人直昌が男なり、累代の先祖、室町殿の御家人にて、此家の先祖、尊氏將軍の御母衣を下し賜ひ、今に傳來す其人の姓名をば失ふと云ふ直賴が祖父與三直寬に至て、近江國坂田の郡新庄の城に在て、伊吹山の合戰に討死せり、何れの頃にや知れずと云ふ直昌父に繼き、同郡朝妻に城を搆へて移る、天文十八年六月十二日、公方萬松院殿の御方に在て、攝津國江口の合戰に三好が勢と戰て、主從廿三人同じ枕に討死す、駿河守直賴、初め豐臣家に近く召され、廿二人の眤近の其中にて、御伽の衆といふ子息越前守直定と共に、所領の地下し賜ふ、父子各一万三千石づゝ慶長五年の秋、大坂の奉行等が、兵起りし時、越前守直定、彼の催促に任せ、宗徒の大名同しく伊賀國に向ひ、上野の城を攻め落し、筒井伊賀守が住せし所なり此所に止て守る、關が原の戰終て後、直賴父子陳じ申す旨ありしに因て、其罪を宥められ、奧の會津に流されて、父子同しく蒲生殿に預けらる、三年の後慶長九年正月十五日、直賴父子召返され、其後所領の地賜り、此時に常陸國麻生の地二万七千石賜ひしにや、詳なる事を知らず、常に關東に伺候して、將軍家に近侍す、御咄の衆と云ひし也直賴既に入道しければ、同き十三年十二月廿六日、宮內卿法印になさる、同き十六年の十二月、直賴入道下總の國にして、御所の狩塲に關入して鷹狩し、野守の爲に告けられて、父子共に逐電す、頓て御免蒙りて召返され、明れば十七年十二月十九日、入道年七十五歲にて卒す、十九年の冬、大坂の兵起りしかば、越前守直定子息直好と共に、將軍家の先陣うつて馳せ上り、今里の要害を守る來年の正月に至て爰を守る、明る元和元年五月七日の戰に、首切て獻る、五つ一說に十三同き二年、御奏者の事承る、四月廿一日、五十七歲にして卒す、嫡子越前守直好、大坂前後の戰に、父と共に馳せ向ひ、父卒して家を繼く、嫡男新三郞直常、世を早うして家繼すべき男子なければ、叔父美作守直房が二男直時に、童名八十郞後に市大夫我娘配せて世嗣とせんとす、其後直好一人の男を設て、彼が成人の程は、直時して權に家の事、行はせん事を望み請て、寛文二年七月廿二日、六十四歲にて卒す、直時舅直好が家の事、司りて此年十二月廿七日叙爵して、隱岐守に任す、直好が男民部直矩、旣に成人に及びしかば、延寳二年八月九日、隱岐守直時を召て、故越前守直好が男、既に長大に至れり、彼父が所領返し與ふべき所なり、又汝が年頃彼家の事執行ひし勞に因て、彼が所領四つが一を分ち賜ふべしとぞ仰せ下されたる、是よりして直好が男民部直矩、父が家を繼く、幾程なくて、同き四年四月晦日の夜、病なくして俄に卒す、世の人怪しき事にぞ思ひける、
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新莊
이 가문에 자주 나오는 인물·지명
인물 新庄直時 12新庄直好 10新庄直頼 8新庄直矩 8新庄直定 5新庄直昌 2徳川秀忠 2足利尊氏 1新庄直寛 1足利義晴 1豊臣秀吉 1筒井定次 1蒲生秀行 1新庄直常 1新庄直房 1新庄直智 1
지명 摂津国大坂 3近江国 1近江新庄城 1近江国伊吹山 1近江国朝妻 1摂津国江口 1伊賀国 1伊賀上野城 1美濃国関ヶ原 1陸奥国会津 1常陸国麻生 1関東 1下総国 1摂津国今里 1
其頃世に傳へしは、隱岐守直時、舅直好が家の事、攝して後、直好が男、成人に及ひぬれども、家の事返し與ふべしともせず、執政の人々を先として、かたへの人々にも、折に觸れては、かの直矩、天性病多くして出て仕ふべき身にあらず、某が不幸にこそ侍れと云て、歎きし程に、人々さもこそあらめと思ひしに、隱岐守が申す所、跡方もなきそら言なり、直矩は身健かに才あつて、父祖が家繼つぐべき者なり、あはれ御恩裁を蒙りて、早く彼が父の遺領返し賜はん由、直矩が家人等、頻に訴ふ、執政の人々大に驚き、さらば直時を召して、决せらるべくやなど議せられしに、かねて聞召されし旨やありけん、其事となく、直時召して故越前守直好が男直矩に、其所領返し給ひしなり、程なく又直矩病なくして、俄に死したれば、世のさがなさは、あらぬ事ども申せしなり、精しき事をば知らず、