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丹羽

第八下 · 단락 4 · 780524 24코마 R부터

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參議藤原長重は、五郞左衞門尉長秀が男なり、元は武藏の兒玉黨、中比尾張國に移て、世々當國の守護武衞の家に仕へて、祖父修理亮長政に至る、系圖に尾張國兒玉の住人たりしと記して、如何なる故に、丹羽とは名のりしと云ふ事を載せず、思ふに當國丹羽の郡に住して、かく名乘りしにはあなずや2、長秀若かりしより少名は万千代丸、生年十五戈1なりと云ふ織田殿に隨ひ、常に一方の大將を賜り、向ふ所破れずと云ふ事なし、元龜三年二月、數多地付て、近江國佐和山の城を賜ふ、五万石是れ年來の武勇を賞せられし處なり、されば織田殿の御内にして、丹羽柴田と云ふ者をば、世の人知らずと云ふ事なく、豐太閤も、初め彼等が名を慕ひ、家の號一字つゞ、乞ひ受けて、羽柴とは名のり給ひけり、又天正三年十二月、信長未だ權大納言の右大將にてましませし時、家人等任官の事ありしに、信長が領する國、未た多からず、家人等に賜はらん地、これ少し、筑紫の國まづ一々に切取て、彼等に割きくれん、鎭西の侍の古き家の號、押し取て、家人等に名のらせらる、長秀も仰せ蒙りて、惟住とぞ改めらる、信長失せ給て又丹羽と名乘る同き十年の夏、織田殿四國の地退治すべしとて、三男三七信孝を大將軍とし、長秀等を侍大將として、差向けらる、一說に此時長秀は織田信澄と二人大坂の城代となされしと云ふ既に攝津國に到る、斯る處に、信長信忠、明智が爲に討たれ給ひ、織田七兵衞信澄は光秀に與みすと聞えしかば、長秀信孝と相謀て、信澄を誅伐し、伊丹の賊徒等を擊ち碎く、筑前守秀吉を始て、宗徒の輩、此所に馳せ集り、軍勢を催し、急き凶徒を誅戮して、淸洲の城に會合し、御世嗣の事を僉議す、右大臣殿の嫡孫にて、渡らせ給へばとて、三法師殿を君となし、後に岐阜中納言と申せし御方なり、信雄信孝二人の公達を御後見と定め、三法師殿御成人の程、御領の國々、御家人等分ち守るべしと議定し、長秀若狹國に近江の滋賀高嶋二郡を添て預る、此時長秀近江國大溝に住し、江北の兵此に屬すと云ふ、一說に長秀是より先、信長の世に若狹國一州に江州滋賀高島二郡を賜り領し、若州靑井に居城すと云ふ此時柴田羽柴爭論の事出來て、兩家是より不快となる、長秀秀吉に力を合す、三七殿秀吉が我家の天下奪ばんとする氣色、早く見給ひ、勝家と謀合せて、秀吉を誅せんとして軍起し、秀吉が爲に戰ひ負け、中直りの事仰せらる、長秀其御使として、悉く秀吉の利運にぞ計らひける、勝家越前の國に在て、秀吉が美濃の屋形、攻め參らすと聞て、以の外怒り、北陸の雪深くして、軍出ださん事、如何にも叶ふべからず、先づ長秀に牒狀して、秀吉を討たんと議したりしに、長秀是に隨はず、明れば十一年の春、勝家北陸道の軍勢催促して近國に發向す、長秀此時近江國坂本に在りしが、頓て坂本を打立て、志津嶽の城に入り、秀吉に力を合せ、終に柴田を討ち滅す、信孝又秀吉が爲に岐阜の城を落され、尾張の內海の浦にて御腹を召されける秀吉自ら天下の權を司り、長秀我が爲に功ありし事を賞して、本領なれば若狹近江の地は云ふに及はず、越前國に加賀國二郡添て賜はりける、百万石又七十万石餘とも云ふ其後長秀越前國北の庄の城に移り住む、長秀後に越前守に任ずと云ふ系圖には見えず秀吉又信雄をも失ひ參らせんと、軍勢をかり催し、美濃尾張伊勢の國々に打出つ、長秀其勢八千人、秀吉に隨ひ美濃國に向ふ、秀吉戰ひ常に利を失ひ、北畠殿と中直りす、明れば十三年の二月秀吉內大臣に成て正二位に上る、同き四月十六日、長秀自ら腹切て死す、年五十一歲とぞ聞えける、多門院の記に此年四月十四日に腹を切り十六日に死すとあり、又彼記には惟住越前守に任せしなり、又越前にて死せしと記せり、是は年頃の積聚と云ふ病に犯されて、命既に盡きんとす、譬へ如何なる病なりとも、我が命失はんずるは、正しき敵にこそあれ、如何で其敵討たでは、空しくなるべきとて、腹かき切り膓くり出して、見るに、奇異の曲者こそ出來たれ、形石龜の如くに、喙鷹の如くに尖り曲りて、背中に刀の當りたる跡ありけり、長秀自ら筆執て事の由を記して、我が跡の事をよきに計らひ給ふべしと書認め、彼の腹切たる刀に積蟲添て大臣に獻る、秀吉大に驚き歎き給ひ、自ら御筆を染められ、子息に本領賜らん事、相違あるべからずと固く誓ひ給ひければ、長秀この御返事を披き見て、今は思ひ置く事なしとて死しにけり、
  1. — 지면 그대로. 「十五歲」의 저본 오식으로 보임
  2. — 지면 그대로. 「あらずや」의 저본 오식으로 보임
長秀が自害せしは、誠に此內府と申は、故右大臣殿の下部より擧けられて、大名になし給ひし人なれば、如何なれば故殿の御子孫をば七代迄も御後めたき事あるましき者をと、長秀が、むかし思ひ誤て方人せしに、三法師殿の御爲ならば、三七殿失ひ參らせしは、さもありなん、いつしか三法師殿を有る者ともせず、剩へ北畠殿をも失ひ參らせんとし、終に天下の事、自ら知り給ひければ、悔しき事に思ひけり、されど今此人を謀らん事、我が力には如何にも叶ふべからず、斯て世にながらへて、天下の人に後指さゝれんも、耻かしと思ひ死したり、病に犯されて自害しぬと云ふは、子孫の後榮を思ひ、かくは披露したりとも申なり
長重今年十五歲にして父に後る、斯て此月越中の佐々が此時內藏介成政後に陸奧守信雄の方人したるを討たれんとて、長重が軍勢を催さる、未だ父が遺領の事は如何にとも宣ひ出さる旨もあらず、丹羽が隨一の家人成田彌八郞、宗徒の傍輩を集て、さても我等が故主は、さしも織田殿の御恩深かりし御事なり、夫に秀吉と云ふ無道人に、たばかられて、彼家の天下を奪はれ給ひし事、一生の不覺にこそあんなれ、又大恩の君の公達をだに失ふ人の、如何で傍輩の好みを思ひ、此稚き人に大國數多まゐらせんと思ふべしや、得難きは時、失ひ易きは勢なり、迚も亡びんずる我家を、未だ勢の散り失せざらん其内に、彼が越中に入らん頃ほひ、織田殿の御爲に義兵を擧け、佐々と狹んで討ち滅し、故主の耻を雪がんこと如何なる佛事供養にも、猶優りぬべう思ふは、方々いかにと議したりけり、以の外の大議なれば、この事いかゞあるべきと、長僉議に時うつりて、大臣殿の御方に洩れ聞え、長束戶田が許より秀吉に告け申たりと云成田速に死刑に處せられぬ、佐々も程なく戰ひ負け、降人に成て出ければ、丹羽が宗徒の家人引すぐつて、長束大藏大輔村上周防守溝口伯耆守靑山修理亮靑木民部少輔戶田武藏守寺西下野守上田佐太郞奧山雅樂助等を始めとして、悉く大臣の御家人に召出され、長秀が遺領越前加賀の國々を奪ひて本領なれば相違あらずとて、近江國三郡の地をぞ長重に賜りたる、長重越前國を削られしは、天正十三年閏八月の事の由、多門院日記に見ゆ、一說には若狹の國をば賜ふといふ此年秀吉關白に成り給ひし時、長重をも侍從になさる、同き十五年、筑紫の軍に隨ひて、日向國に向ふ、家人等が軍法に背きし事ありとて、又近江の地をも奪ひて、僅に所領付て加賀の國松任の城に移さる、三万石とも四万石とも云ふ朝鮮の軍起りて、肥前國名護屋に陣す、文祿四年參議に任し從三位に叙す、公卿補任には見えず、武家補任には見ゆ慶長三年同國小松の城に移され、所領の地加へられ、家人等にも所領の地賜ひ、長重に十万石、家老坂井與右衞門江口三郞右衞門各一万石、加賀守を兼ぬ、同き秋、大閣薨し給ひ、世の中何となく物騒しく、明る四年の冬、加賀中納言利長、在國し謀叛の企ありと聞えて、德川殿向はせ給ふと云ひ罵る、加賀守長重德川殿に參りて風聞の如きは、利長御退治の事定て日近きにあらんか、さらんに於ては長重が領する處、彼境に近し先陣の事、他人に讓るべからずと望み申さる、此人の父、長秀と利長と同し信長の御娘を迎ひ、結ぼうれたる中なるが、公儀の爲に私の睦を顧みず、先陣を望み申されし事、德川殿の御感斜ならず、御刀をぞ引かれける、吉光利長の謀、叛、形もなき虛言なりければ、軍勢の催促にも及はず、明る五年の秋、大坂の奉行等軍起せし時、中納言利長、長重の許に使立て、利長此度內府の方人して、上方に攻め上らんとす、和君も與みし給はんには、同く打立ち給ふべうや候はんと云せらる、長重の返事に、われ故大閣の爲に父が國々押奪はれ、去々年こそ此所には移されたれ、それも猶本領に準ふるに十が一つにや及ぶべき、されば彼家の恩かうむつたる身にもあらず、又內府へも親しうも疎うもなし、東西の間いづれの方人すべしとも覺えず、但し利長の執し申し給はんに因て、此度の戰功につのりて、父が領せし國なれば、越前の國賜らんには、內府の爲に一方を討ち破つて參らすべきにて候と申されしかば、利長重て仰せ承りぬ、越前の國賜らせ給はん事は、內府の旨に在るべければ、利長かねて定め申難きか、彼家の爲に戰功を致し給はんには、如何で御望は叶はざるべき利長が微力を盡して、執し申さん事は勿論に候ものをやとありければ、長重大に悅ひ、さらば味方に參るべしとて、軍の評定あらんが爲、兩家の家人等、松任に出て會ふ、先づ利長の方に人質を賜らん由を望む、長重が家人大に怒て、織田殿の御時より、丹羽は一方の大將にて、利長の父利家は、被官の樣まてこそありつれ、故大閣の時に至りて、當家かく衰ふるといへども、兩家又織田殿の婚君にて由緣に就ては、兄弟の國なるをや、今何の故に人質を出すべき、又亂れたる世の人の心、計り難し利長たとへ心變りしつとも、人質取られて後は、悔ゆとも及ぶべからずと慮て、其事叶ふべからずとぞ云ひ切つたる、又利長の方よりは、去りし冬、當家謀叛のよし風聞の時、自餘の人は如何にもあれ、此長重は當家にむすぼれたる中なれば、など如何にも申披ては給はらぬ、それに又先陣を望み申されき、斯る恐しき人を、人質なくて味方とし戰ひ半ならん時に、後矢射られては叶ふべからずとて、是も人質賜はざらんには與みし參らせん事、叶ふべからずと云切て事既に破れぬ、斯てもあるべき事ならねば、利長多勢を引具して小松の城を押通りて大聖寺の城を攻落す、斯る處に、敵兵船に取り乘て能登の國をさして漕き向ふと聞えしかば、利長本國の事心元なしとて、爰より引返し、又小松の城に差懸る、長重は利長が我無勢なるを見侮て道を假るにも及ばず我が住む邊を一度ならず再ひまで蹴散して通るこそ安からねと、城より外に打て出で利長が後陣を打破て、城に入る、利長後陣に軍ありと聞て鞭鐙を合せて馳せ歸る、軍既に終て敵城中に打入る、此城究竟の要害、一旦に攻め落しぬべうも見えず、又本國の事も覺束なく、怒を止めて引て歸る、敵の能登の國へ廻ると聞えしは詐にて、美濃國の戰ひ味方勝軍し、德川殿御父子馳せ上らせ給ふなり、利長も急き攻め上るべしとありければ、利長長重と中直りし、互に人質取替し夜を日に繼て馳せ上るに、關が原の戰ひ事終りて、近江國大津の宿にして、德川殿に參り會ふ、此度天下一統して、功罪を糺明あつて賞罸を沙汰せらる、長重陳じ申して長重初めより東西の方、何れに與すべしとも覺えず、只利長が勸めしに因て、東國の御爲に戰功を顯さんと思ひ定む、然るに忽ち事の違亂出て來て、我が城に引籠りぬ、又利長と戰ひし事、私の恨報ぜんが爲めにして、全く西に心を通はせし所にあらずと申けれど、內々は重き罪にも行るべしと聞ゆ、利長此由を聞て、初め海道上らせ給ふ時、重て御使を賜り、北陸の事いかにも平かならん樣に、こしらへて急き馳せ上るべしと承りぬ、さるに因て利長此由を長重に傳へて、中直りして馳せ上れり、それにて彼を罪せられんには、利長先度の戰に恐て、一旦彼をたばかつてこそ通りつれなど云はれんこと、弓矢取ての耻辱なり、只初め承りし如くに彼が緩怠を御免あらばやと歎き申さる、申さるゝ所も、理ありと聞召されしかど、既に加賀國をば利長の賞に行はれし上は、長重所領を失つて關東に參り、芝浦の邊に籠り居て、五郞左衞門尉と申て、將軍家に近く召されて、昔今の御物語の友となされたり、御咄の衆と云ひしなり
長重罪を免されし事、利長中納言の歎き申されし故のみにもあらず、昔大相國家の未だ童形にて渡らせ給ひし時より、長重に親しう語らはせ給ひ、如何なる事ありとも、此よしみ忘れさせ給ふまじき由を、固く誓ひ給ひし事ありき、此由を密かに大御所に申せし人ありしかば、其事となく打過させ給ひしとなり、其事大御所に申せし人は、土井大炊頭利勝とも又本多佐渡守正信とも申すなり、同き八年十一月廿七日、將軍家より常陸國古渡の庄を賜る、一万石大坂前後の軍に將軍家に隨ひ奉る、元和五年所領の地加へらる、一万石と加へ給ひ二万石を領す同き八年陸奧國棚倉の城を賜ひ、所領の地加へらる、三万石を加へ給て五万石寛永四年二月十日、所領の地倍せられて、同國白川の城に移り、十万石同き九年左大臣家1、將軍の宣旨蒙らせ給ひし時、參議に還任し、十四年閏三月四日、六十七歲にて卒す、其子侍從光重左大臣家御諱字賜ひしと見えき初め左京大夫從五位下たり、父の家を繼て後、寛永十九年十二月晦日從四位下に叙し、同き廿年七月同國二本松の城に移る、十万石の外に三万石を預る萬治元年閏十二月廿七日侍從になさる、延寶七年四月七日、致仕入道して玉峯と號す、嫡子若狹守長次家を讓らる、
  1. — 지면 그대로. 앞 문맥으로 寛永9年이 되나 家光의 将軍 宣下는 통설 元和9.7(1623). 長重의 参議 還任 시점은 미확인