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相馬

第八下 · 단락 5 · 780524 20코마 L부터

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지명 4 4 3 2 2 2 2 2 2 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1

長門守平義胤は、彈正大弼盛胤が男なり、桓武天皇第五の皇子一品式部卿葛原親王の御孫、高望王、始て平の姓を賜ひ、上總の國を賜ひ、上總の大守に任し、王氏を出で人臣に列る、朱雀院の御時、第二の御子鎭守府將軍平の良將の男、相馬小次郞將門、下總國相馬郡より起て、常陸國を奪ひ、終に坂東の國々を、討ち隨へ、下總國猿島の郡石井の鄕に、都を立て、平新皇と名のり、百官を置く、終に官兵の爲に破られて、兄弟從類此處彼處にて誅せらる、爰に良將の弟良文が子村岡次郞忠賴、將門が跡を繼て、陸奧守に任ず、忠頼は將門の從弟なり、されど將門が跡を繼きしと云ふこと覺束なし、伯父良將の跡を繼きしといふにはあらずや其子上總介忠常、其子千葉介常將、常將が曾孫千葉の介常胤が二男相馬次郞師常と名乘る寛永の頃、今の兩家の相馬より、參らせし系圖の寫本を見るに、兩家共に相馬次郞師常より出たり、されども傳ふる所、大に異なり、大膳亮利胤が家に、傳へし所は、本文の如し、小次郞貞胤が家に傳ふる所は、平將門十二人の男あり、父が誅せられし時、其誅を免れたる者共、鎭西坂東の國々に猶少からず、將門が男相馬小次郞將國と云者あり、其子小太郞文國と云ふ、常陸國信太郡に住して、子孫信太と名乘る、文國が五代の孫信太小次郞重國、又相馬の郡に移りて、是より後、子孫又相馬とは名乘にけり、重國が子相馬小次郞胤國、其子中務大輔胤國と云ふ、千葉介常胤が男、其家を繼く、相馬小次郞師常也と見えき、胤國といふ父子あり、不審、是は某が見たりし書、傳寫誤れるなるべし、其家に問ひ糺すべき事なり○按ずるに、利胤が家に傳へしは、將門より師常に至るまで七代なり、貞胤の家に傳はるは、十一代の由なり、將門誅せられしより、師常が時に至て、二百年には、遙に超えたり、此內たゞ七代と云ふこと、覺束なし、又利胤の系圖に師常が子義胤が後、胤綱に至るまての間、定かならぬ由を載せたり、貞胤が系圖には、桓武天皇より三十八代の由を記せり、されば此系圖は、詳なるに似たり、師常より上つ方の事は、貞胤が家の說に、隨ふべしや、但し新編纂圖を見るに、千葉四郞大夫常永が嫡子に相馬五郞常時あり、是則ち千葉介常胤が伯父なり、若し此事誠ならんには、師常より先に、千葉の家にて、相馬を名のりし事あれば、利胤の家の說も、據所あるべきにや
按ずるに、胤綱より重胤に及びて、相馬行方兩郡を併せ領せし由、覺束なし、又胤綱が子五郞左衞門胤村、永仁の頃の人と云ふ、又胤村が五代の孫出羽守親胤、觀應の頃の人なりと云ふ、然らば、此間奧州の國司北畠源中納言顯家卿に屬して、勳功を致せし人あるべし、系圖に其事を漏らしぬること尤も惜むべき事なり、其孫大膳大夫盛胤、宇多標葉各半郡を隨へ、行方の郡を併せ領す、其子讃岐守顯胤、其子又盛胤と名乘て、彈正大弼に任し、家を其子長門守義胤に讓りて、慶長六年、七十三歲にして卒す、長門守義胤、父が讓を受て、豐臣太閤家に隨ひ參らせ、本領を安堵す、慶長五年の秋、德川殿、奧の景勝中納言を征伐あるべしとて、諸國の軍勢を催さる、岩城相馬の人々は、年頃佐竹と好み深ければ、內々は上杉石田等と謀を通はして、德川殿の催促に隨はず、程なく天下悉くに德川殿に歸しぬれば、義胤罪蒙りて、所領沒收せらる、同き九年七月十七日、右大將家、若君御誕生の事ありしかは、時に台德院殿大相國、未だ右近衛の大將にてましますなり義胤が子大膳亮利胤を召出され、本領を下し賜りぬ、奧州中村の城六万石なり
景勝が兵起りし時、伊達左京大夫政宗は、急き本國に歸りて、搦手より攻め入るべき由の仰承て、大坂を打立ち、夜を日に繼て、馳せ下る、白川より白石に至ては、皆敵の中なれば、道塞りぬ、常陸國を廻りて、岩城相馬にさし懸て國に歸らんとするに、相馬又累代の敵國なり、恙なく通らんこと、叶ふべからず、然るに政宗僅かに五十騎計、引具して、常陸の國を經て、岩城と相馬との境に至て、先づ相馬が許に、使者を立て、此度德川殿、上杉を征伐し給ふに因て、政宗搦手より向ふべき由を承りぬ、路次既に塞りて候ひし程に、東路に隨ひて、漸く此境に至り侍りぬ、餘りに道を早めて打ちし程に、士卒悉く勞れぬ、願くは城下に、旅館點して給はらんには、馬の足を休めて、明日は國に入らんと存ずと、云はせたり、長門守義胤、是を聞て、あつはれ運の盡きぬる奴原かな、只だにも、伊達は相馬が年頃の敵なり、ましてや、味方討たれん一方の大將、承ると云ふ者を、いで〱今宵一夜討して、案內知らぬ者共を、此處彼處に追詰て、一人も殘さず、討ち取て、年來の仇に報ひ、今度の賞に、つのらばやとて、頓て民家をしつらうて、迎ひ入れ、家子郞從等、召し集めて、夜討の樣をぞ議したりける、爰に水谷三郞兵衛尉某、遙の末座より進み出で末座の意見、恐れ入て候へども、既に僉議の座に列て候ふ上は、心に存ずる所を、申さゞらんは、其詮なし、抑も窮鳥懷に入る時は、獵者もこれを殺さずとこそ承れ、政宗ほどの大名が、既に年來の恨を棄て、君を賴みて、來りしを、たばかつて、闇々と討たれんは、勇者の本意とする處にあらず、長き弓矢の瑕瑾なり、又我が城を去て、彼國の境駒が峯に到らんこと、行程僅に三里、けふの日、未だ未の時に下がらず、政宗おのが境に、到らんとだに思はば、日ゆふべならざる間に、到りぬべし、それに僅の勢を以て、此所に止ること、豈深き謀計なからざらん、只同じくは、我備を全うして、彼に代つて、夜を守り、先づ此度は、本國に返し給ひ、重て戰に臨まん時、尋常に軍して、勝負を兩家の天運に任せらるべうもや候はんと申ければ、滿坐の輩、皆此議に同じて、彼が旅館の邊に、粮料魚鹽秣糠藁に至るまで、積み置て、夜に入り四面に篝火たかせ、兵共に夜をめぐらせ、警衞心を盡してけり、義胤が士共も、政宗が餘りに取鎭めたる躰を見て、憎しいざ彼が振舞を試みんとて、夜更けて、馬一二疋切て放つ、雜人原走り散て、以の外に、騷き罵る、政宗は小童一人に燭持たせ、白き小袖、上に打掛けて、左の手に刀提て、立出で、相馬殿の御人や候ふ、御人や候ふと云ひし時、さむらふとて參りければ、物音高う候ふ、何事にや、政宗が雜人原、狼藉候はんには、能く鎭めてたべとて、又內にぞ入りにける、斯て夜明けけれども、立ちもやらず、己の刻計りになつて、義胤が許に使して、一禮し、靜かに馬をうつて行く、窃かに人を付て見せたるに、彼國境の駒が峯のあなたに、伊達が軍勢、雲霞の如く滿ち〱て出て迎へぬ、斯て關が原の合戰、事終り、天下悉く平きて、相馬既に世帶を沒收せられ、家亡ぶべきに極る、政宗德川殿に訴へ申けるは、相馬は只だにも、政宗が年頃の敵なり、夫に上杉石田等に與みしたるが、一定に候はんには、政宗彼が爲に討たるべき時至て候ひしに、君の仰せ承り馳せ下る由を聞て、忽に舊き恨を忘れ、新しき恩を施して候ひき、是れ偏に彼が野心を挾まざりし故にあらずや、且は又累代弓矢の家、此時に至て、長く斷絕すべきこと、誠に不便の至なり、只然るべくは、彼が本領安堵の事、御免を蒙らばやと、折に觸れて、度々歎き奉りしかば、其事となく、年月を經て後、本領をぞ賜ぶたりける、此時より、彼家年每の評定始には、滿坐の輩、一々に水谷が子孫の坐の前に進み寄り、水谷殿の御意見違ふ事あるべからずと、色代して罷出づること長き佳例となりにけり、其後政宗は、井伊掃部頭直孝を媒にて、大膳亮利胤に、中直りせんとしけれども、利胤聞て、我家既に伊達殿の芳志に因て、本領を安堵すといへども、累代の敵國、私に中直りすべき事、其憚りなきあらず1とて、終に中直りはせざりしなり、
  1. — 지면 그대로. 「なきにあらず」에서 「に」가 빠진 저본 오식으로 보임
大坂の軍起りし時、利胤將軍家の先陣打て馳せ向ふ、寛永二年九月十日、年四十五歲にして卒す、其子虎之助、猶幼なし、六歲長門守義胤、家の事を執り行ひ、寬永十二年十月十六日、八十八歲にて卒す、虎之助義胤、祖父の名を讓りしと云ふ寬永十三年十二月廿九日叙爵して、大膳亮に任し、慶安四年三月五日卒す、三十三歲、長門守勝胤、家を繼く、後に忠胤實は土屋民部少輔利直が二男、義胤女子一人あつて、男子なし、外從弟利直が子養ひ、娘配せて、家繼がせしとぞ聞えける、これより相馬源氏となるか勝胤承應元年十二月廿八日叙爵し、延寶元年十一月二日、三十七歲にして卒す、嫡子出羽守貞胤、家を繼て、延寶七年十一月廿三日、貞胤世を早うし、世嗣なければ、舍弟彈正少弼昌胤兄、に繼1く、
  1. — 지면 그대로. 「兄に繼く」의 구두점이 잘못 놓인 저본 오식으로 보임