參議藤原長重は、五郞左衞門尉長秀が男なり、元は武藏の兒玉黨、中比尾張國に移て、世々當國の守護武衞の家に仕へて、祖父修理亮長政に至る、系圖に尾張國兒玉の住人たりしと記して、如何なる故に、丹羽とは名のりしと云ふ事を載せず、思ふに當國丹羽の郡に住して、かく名乘りしにはあなずや2、長秀若かりしより少名は万千代丸、生年十五戈1なりと云ふ織田殿に隨ひ、常に一方の大將を賜り、向ふ所破れずと云ふ事なし、元龜三年二月、數多地付て、近江國佐和山の城を賜ふ、五万石是れ年來の武勇を賞せられし處なり、されば織田殿の御内にして、丹羽柴田と云ふ者をば、世の人知らずと云ふ事なく、豐太閤も、初め彼等が名を慕ひ、家の號一字つゞ、乞ひ受けて、羽柴とは名のり給ひけり、又天正三年十二月、信長未だ權大納言の右大將にてましませし時、家人等任官の事ありしに、信長が領する國、未た多からず、家人等に賜はらん地、これ少し、筑紫の國まづ一々に切取て、彼等に割きくれん、鎭西の侍の古き家の號、押し取て、家人等に名のらせらる、長秀も仰せ蒙りて、惟住とぞ改めらる、信長失せ給て又丹羽と名乘る同き十年の夏、織田殿四國の地退治すべしとて、三男三七信孝を大將軍とし、長秀等を侍大將として、差向けらる、一說に此時長秀は織田信澄と二人大坂の城代となされしと云ふ既に攝津國に到る、斯る處に、信長信忠、明智が爲に討たれ給ひ、織田七兵衞信澄は光秀に與みすと聞えしかば、長秀信孝と相謀て、信澄を誅伐し、伊丹の賊徒等を擊ち碎く、筑前守秀吉を始て、宗徒の輩、此所に馳せ集り、軍勢を催し、急き凶徒を誅戮して、淸洲の城に會合し、御世嗣の事を僉議す、右大臣殿の嫡孫にて、渡らせ給へばとて、三法師殿を君となし、後に岐阜中納言と申せし御方なり、信雄信孝二人の公達を御後見と定め、三法師殿御成人の程、御領の國々、御家人等分ち守るべしと議定し、長秀若狹國に近江の滋賀高嶋二郡を添て預る、此時長秀近江國大溝に住し、江北の兵此に屬すと云ふ、一說に長秀是より先、信長の世に若狹國一州に江州滋賀高島二郡を賜り領し、若州靑井に居城すと云ふ此時柴田羽柴爭論の事出來て、兩家是より不快となる、長秀秀吉に力を合す、三七殿秀吉が我家の天下奪ばんとする氣色、早く見給ひ、勝家と謀合せて、秀吉を誅せんとして軍起し、秀吉が爲に戰ひ負け、中直りの事仰せらる、長秀其御使として、悉く秀吉の利運にぞ計らひける、勝家越前の國に在て、秀吉が美濃の屋形、攻め參らすと聞て、以の外怒り、北陸の雪深くして、軍出ださん事、如何にも叶ふべからず、先づ長秀に牒狀して、秀吉を討たんと議したりしに、長秀是に隨はず、明れば十一年の春、勝家北陸道の軍勢催促して近國に發向す、長秀此時近江國坂本に在りしが、頓て坂本を打立て、志津嶽の城に入り、秀吉に力を合せ、終に柴田を討ち滅す、信孝又秀吉が爲に岐阜の城を落され、尾張の內海の浦にて御腹を召されける秀吉自ら天下の權を司り、長秀我が爲に功ありし事を賞して、本領なれば若狹近江の地は云ふに及はず、越前國に加賀國二郡添て賜はりける、百万石又七十万石餘とも云ふ其後長秀越前國北の庄の城に移り住む、長秀後に越前守に任ずと云ふ系圖には見えず秀吉又信雄をも失ひ參らせんと、軍勢をかり催し、美濃尾張伊勢の國々に打出つ、長秀其勢八千人、秀吉に隨ひ美濃國に向ふ、秀吉戰ひ常に利を失ひ、北畠殿と中直りす、明れば十三年の二月秀吉內大臣に成て正二位に上る、同き四月十六日、長秀自ら腹切て死す、年五十一歲とぞ聞えける、多門院の記に此年四月十四日に腹を切り十六日に死すとあり、又彼記には惟住越前守に任せしなり、又越前にて死せしと記せり、是は年頃の積聚と云ふ病に犯されて、命既に盡きんとす、譬へ如何なる病なりとも、我が命失はんずるは、正しき敵にこそあれ、如何で其敵討たでは、空しくなるべきとて、腹かき切り膓くり出して、見るに、奇異の曲者こそ出來たれ、形石龜の如くに、喙鷹の如くに尖り曲りて、背中に刀の當りたる跡ありけり、長秀自ら筆執て事の由を記して、我が跡の事をよきに計らひ給ふべしと書認め、彼の腹切たる刀に積蟲添て大臣に獻る、秀吉大に驚き歎き給ひ、自ら御筆を染められ、子息に本領賜らん事、相違あるべからずと固く誓ひ給ひければ、長秀この御返事を披き見て、今は思ひ置く事なしとて死しにけり、
- 十五戈 — 底本のまま。「十五歲」の誤植とみられる
- あなずや — 底本のまま。「あらずや」の誤植とみられる