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佐竹

第八下 · 段落 1 · 780524 12コマ Lから

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人物 20 8 8 8 8 5 4 4 3 3 3 3 3 2 2 2 2 2 2 1 1 1 1 1

地名 6 5 4 3 2 2 2 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1

左中將兼右京大夫源義宣は鎭守府將軍賴義の三男、新羅三郞義光の孫、佐竹の冠者昌義十八代の後胤なり、昌義母方に付て、常陸の國に下り、久慈の郡佐竹の地を領しぬれば、佐竹とは名乘りけり、昌義が孫佐竹別當秀義、右大將賴朝の爲に、討るべかりしを、希有にして免る、賴朝奧の泰衡を討んとて、下野國宇都宮に至り給ふ時、秀義軍兵を率ゐて參る、佐竹が籏、皆混白なりければ、御所の御籏に、別たれんが爲に、月を出せる扇、賜りて籏の上に付らる、佐竹が月いだしたる扇を、紋とする事は、此故とぞ聞えける、秀義五代の孫常陸介貞義、元弘の始、遠江守兼上總介に任し、入道して、上總の入道と申す、相摸入道高時が催促に隨ひ、六波羅の加勢し、高時亡ひて、又足利殿に隨ひ、官軍と戰ひ、無二の將軍方なりしかば、子孫又繁昌して貞義が曾孫右馬頭義盛に至る、義盛世嗣なかりしかば、鎌倉の執事上杉安房守憲定が二男を養ひ、我が娘に配て、嗣となし、右京大夫義仁と申けり佐竹が郞從、義仁が他姓の子なるを嫌て、上總入道貞義が孫、山入刑部大輔師義が子、上總介與義を立て、主君とす、鎌倉殿持氏なり岩松持國に、大將を賜り、與義が籠りたる長倉の城を攻めらる、佐竹が郞從、叶はずして、義仁を迎て主となし、與義も降人と成つて參りたり、此より佐竹藤氏の胤となる應永廿三年、鎌倉の兵革に、義仁持氏の御方に參りしかば、其勸賞に屋形號を許さる、關東八屋形の其一家なり義仁が子伊豫守義俊、其子左衞門佐義治、其子四位少將兼右京大夫義舜、其子從四位上右馬頭兼大膳大夫義篤、天文の頃、古河の御所晴氏朝臣の御方して、武藏國河越の城を攻め、北條左京大夫氏康と戰ひ、御方利なくして引返す、義篤が子右京大夫義昭、其子常陸介義重は、義宣が父なりけり、此義重が時に當りて、關東の管領上杉亡ひしかば、關東八家の人々、悉く北條に隨ふ、北條武田軍起りて後、常陸下野の國人等、又北條を背て、義重に隨ふ、此より又佐竹北條が戰、止む事なし、天正十八年、義重同國の大名江戶重通を滅し、水戶の城を攻取て、嫡子義宣に與へ、國務を讓り、我身は太田の城に隱れ住む關白秀吉、北條を討ち給ふ時、義宣軍勢を引率して、御方に參りければ、常陸國を賜て南方三十三館の大將を承る、關白伏見に移り給ひし後、義宣彼所に家造りし、妻子引具し、移りしかば、殿下の御感斜ならず、關白家のきり者石田治部少輔三成と、親しう相語らひ、三成を賴み、如何にもして、我が國三十三館の國人等滅して、彼が所領、悉く幷せ領せん事を謀る、或時義宣、關白の御前に侍りしに、三成も同じく參て、御物語の序に、君は未だ知し召れずや、抑かの常陸國の事、義宣が下知に任すべきの條、既に御敎書を成し下されぬ、夫に彼國人等、一向に佐竹が下知に隨はぬと承る、是れ併ながら、殿下の仰を侮り申す所なり、斯ても猶寬宥の御沙汰ならんには、違命の輩、日々に國々に出來候はんか、如何さまにも、御沙汰あるべうもや候はんと申せしかば、關白以の外御氣色損し、汝が申す所、理あり、いかに義宣おことが、下知に背く奴原、請ふまでもなし、自の裁斷に任すべき者也、とぞ仰せける、義宣大に悅ひ、頓て本國に歸り、饗應に事寄せて、三十三人の國人等、悉く召集め、一々に切て捨て、其地合せ領しければ、天下六人の大名の數に入られたり、德川毛利上杉前田佐竹嶋津義宣かく大名に成りし事、偏に石田が謀に因りしかば、如何にもして、彼の恩に報せん事をぞ思ひける、されば太閤薨し給ひ、大名數多與黨して、三成うたるべかりしに、義宣軍勢引具して、大坂に馳せ來り、三成を迎ひつゝ、伏見の家に伴ひけり、其後慶長五年の秋、德川殿、奧の上杉討れんとて、御下向ありし時、義宣かねて三成と謀を通はして、御使賜りて、召しけれども、參らず、自ら四萬餘騎を隨へ、石那坂を打過き、多賀の郡に陣取て、德川殿奧に向ひ給ひ、戰ひ半ならん時、御後より押寄せ、襲ひ參らせんとぞ謀りける、斯る所に、石田等が兵、起りぬと聞えしかば、德川殿まづ東國の軍をば、止められ、下野國より引返し、上方に向て、攻め上らせ給ひしかば、義宣案に相違して、一族東左近大夫政義が謀に隨ひ、軍勢少々御供に參らせたり、斯て關が原の軍、終りて後、父義重が降を乞ひ申すに依り、此時の使は緒貫大藏人見主膳と云ふ者なりと云ふ御誅伐の事、延引に及ひしに、明れば六年の春の頃、大納言殿、關東へ歸らせ給ふ、是は奧方の御敵、御追討の爲と聞えしかば、義重大に恐れ、頓て國を立て、大御所に參るとて、武藏の神奈川の宿にして、大納言殿に參りあひ、家滅びざらん樣を歎き申す、さらば先づ伏見に向ひて、其由大御所に申し給へと、ありければ、伏見に參る、大御所も、老たる父が歎き申所哀れにや思召されけん、させる御咎めもなし、同き七年五月八日、義宣伏見に侍ひしを召され、常陸國をば、收公せられ、八十万石出羽の國秋田の地を賜て移さる、二十万五千石餘此日常陸國に、御使を下され、父義重を始とし、宗徒の家人等にも此由を仰せ下されたり、此時、東政義は既に死す、家人群馬丹波守、義宣を諫めて、我國の軍兵四五万人はありぬべし、兵粮又十年の料は候ひなん、いかに、かく云甲斐なく、奧に下らんとはし給ふらんと云ひければ、義宣當時日本六十餘州が其中に、德川殿に隨はぬ者、一人もなし、我國の勢を以て、天下の敵とならんこと、いかにしてか、叶ふべき、まづ夫迄もあるべからず、我が爲に、滅されし三十三館の餘類、此時を窺て、主君の仇を報ぜんと、國中に蜂起せば、雜兵の手に懸て、討たれん事も、無念なり、たゞ兎にも角にも、我が家の絕えざらん事こそ、あらまほしけれとて、其勢僅七十餘騎、累代の地を去て、同き六月十四日、秋田の城にぞ入りにける、群馬丹波守は、跡に止て、兵を起し、終に搦め捕られて、誅せられぬ、同き十七年三月廿九日、常陸介義重卒す、年六十六歲、大坂の軍起りし時、義宣、將軍家の先陣、打て馳せ上り、今福の堤に戰ひて、兩御所の御感に預り、家人等まで、其賞を賜る、梅澤半右衞門、大塚九郞兵衞、黑澤甚兵衞等、御敎書をなし下され物を賜ふこと差あり義宣初め天正八年十二月廿三日、從四位下侍從になされ、寛永三年八月十九日、左中將に任し、同き十年正月廿五日、六十四歲にて卒す、嗣なかりしかば、舍弟岩城忠次郞貞隆が男を養うて子とす、貞隆岩城親隆が養子として、彼家を繼きしなり、左少將義隆、伯父義宣が嗣となり、從四位下修理大夫になされ、寛永三年八月十九日、侍從に任し、家繼きて後、寛文六年十二月廿八日、左少將に任して、同き十一年十二月五日、六十三歲にて卒す、男子三人、嫡子侍從義處、家を繼き、承應三年十二月廿六日、從四位下右京大夫、寛文九年十二月廿五日、侍從に任す、二男式部少輔義實、承應三年十二月廿一日、叙爵して、寬文五年九月廿一日、三十三歲にて卒しき、三男は左近將監義長、寛文十年十二月廿八日、叙爵し、後改めて壹岐守に任す、