家一覧 › 第八下 › f098
上杉
この家によく出る人物・地名
人物 上杉景勝 59上杉輝虎 57豊臣秀吉 35長尾為景 14長尾政景 13夏目定房 10上杉景虎 10徳川家康 10木村吉清 9直江兼続 9長尾六郎(為景子) 8佐々成政 7上杉憲政 6上杉顕定 6近衛前久 6織田信長 6上杉家臣須賀修理 6上杉頼成 5宇佐美定祐 5上杉憲房 5長尾景弘 4足利尊氏 4上杉房能 4足利義輝 4
地名 越後国 20越中国 11信濃国 10上野国 8関東 7加賀国 7奥州 6佐渡国 5能登国 4越後落水城 4陸奥国会津 4相模国鎌倉 3下野国 3京都 3北陸道 3出羽国 3越中魚津城 3越後国妻有荘 2越後国喜多川 2常陸国 2相模国小田原 2東山道 2東海道 2越後府内城 2
此說大概北條五代記、宇佐美定祐が記等に據るなり、又定祐が說に、長尾は桓武天皇の御末、村岡將軍平忠通の三男鎌倉四郞景村、其子太郞景明、景明が子二人あり、兄は大庭の景宗弟は長尾次郞景弘と云ふ、是を長尾の祖とす、景弘が子孫世々鎌倉に仕ふ、相摸二郞時行が起りし時、長尾の一族、これに與みし悉く亡ひぬ、足利尊氏卿の御母は、上杉賴重の娘なれば、其男賴成は足利殿の御外舅にて、賴成の息は、御外從弟なり、故に賴成の子藤景して、長尾の家を繼がせらると云ふ、又夏目定房が記に、桓武天皇の御末、鎭守府將軍良文五代の孫村岡太郞景通に、三子あり、嫡子鎌倉權五郞景政、二男大庭權頭景宗、三男梶原太郞景久と云ふ、嫡子景政五代の孫長尾次郞景弘より十三世、長尾六郞爲景、これ輝虎入道が父なりと云々、以上兩說、大に異なるに似たり、一は勸修寺の庶流の藤氏と云ひ、一は桓武平氏と云ふ、何れか宜しき、但し長尾の系圖は、夏目が說に依るべし、宇佐美が說は、新編纂圖に依ると見えき、凡そ纂圖の記する所は、武家の事、慥かならざるよし、水戶の相公光國卿も、仰せあり、さもあるべし、按するに、長尾が家、四流あり、白井惣社宇留窪足利等の長尾なり、中頃より、此等の長尾、悉く上杉の家老たり、これ長尾もと上杉の家より繼がれし故に、長尾が子孫又上杉の被官たりしにや、後に上杉憲政の、長尾輝虎に家號と管領の職とを讓れるも、兩家元由緣あるが故なるべし、されど時行が亂に、長尾の家絕えたりとても、上杉のゆかりならで、其家つぐべき樣もなし、想ふに長尾が一族の中に、足利殿に仕へし者ありしが、夫れに子なかりしかば、上杉が子養て、嗣とせしにや、かくあれば、家は長尾なれど、血脈は此時より藤氏なり、覺束なき事なれば、先づ一說を本文に載せ、其下に諸說をも、記し置くなり、
去程に、元弘建武の後に至て、尊氏將軍の三男左馬頭基氏、鎌倉の管領に備り給ひし時、上杉は御外戚の家なれば、世々關東の執事とはなりたるなり、此後いつとなく、上を僣し下に驕つて、鎌倉殿を私に將軍と崇め、執事上杉を管領殿と仰きぬ、安房守憲顯が時より、伊豆上野越後三箇國を領しければ、子孫自ら此國々に居住す、鎌倉の左馬頭持氏、失せ給て後、上杉が權勢、日々に强くして、關東の諸大名、靡き從はずと云ふ事なし、又長尾は、其家の老なりしかば、是も上杉が領せし國々に分れ住む、輝虎が父長尾信濃守爲景に當て、主君越後の上杉民部大輔房能と、不快の事出來て、主從の軍起り、房能打負けて、當國雨溝と云ふ處にて亡ぶ、民部大輔房能とは上杉憲房が室町殿へ此亂の事を註進せし書に見えたり北條五代記には上杉九郞房義と記せり誤れるにや管領山內の上杉前民部大輔顯定入道可淳、息男憲房と共に、上野の國を立て、越後國に向ひ、爲景と戰ふ、永正六年七月廿八日の事也爲景打負て、越中國西濱へ引退く、顯定入道父子、越後の國に在て、國中の亂を鎭めんとす、當國の國人等、高梨攝津守を大將として、爲景に與みして、管領の下知に隨はず、永正七年六月十二日、憲房椎屋と云ふ所に押寄せ、一戰に利を失ひ、妻有の莊に引籠て、軍勢を催し、上野の勢を待て、戰んとす、長尾高梨、勝に乘て、妻有の莊に押寄す、同き六月廿一日、顯定入道、軍兵を卒る越後と信濃との境なる長森原に、出向て戰ひ、高梨が爲に打負て入道終に討れにけり、此入道上杉中興の管領たり年五十七歲子息憲房、越後國に溜りかね、上野國に引返し、平井の城にぞ籠りける、此後爲景、越中の國府內1の城に住し、越後の國をも打隨へ、天文十一年、加賀國へ發向し、敵の爲に欺かれ、梅檀野と云ふ所にて、闇々と討れ死にけり、
- 越中の國府內 — 底本のまま。長尾為景が拠った府内は越後国府中(直江津一帯)のため、「越中」は「越後」の誤記の可能性。未確認
輝虎入道、父爲景が討れし時、僅に十三歲、平三景虎と名乘り、自ら父が家を繼ぐ、明れば天文十二年、景虎が姊婿長尾越前守政景、景虎が幼を侮て、彼の所領を并せんとす、景虎其勢二千計り、政景が八千人を打破り、其後、合戰度々にて、同き十四年、政景終に降人に成て來りしかば、時に景虎十六歲、政景廿九歲なり明れば十五年、越後國悉く靡き隨ひぬ、さらば父爲景が吊ひ軍、あるべしとて、越中國に打入て加賀能登を隨へ、佐渡國へ押渡る、斯る所に、十六年の八月、信濃の國の住人村上義清、甲斐の武田に、滅されて、越後國に落ち來り、景虎を賴みしかば、さらば武田を追拂て、義清を返し納むべしとて、武田と合戰始れり、又同き廿年の夏の頃、山內の上杉憲政、北條に滅されて、これも景虎を賴て、越後國に落來る、景虎故主の義を存して、喜多川の邊に、館を構て迎ひ入れ御館殿と仰きつゝ、よきにかしづきまゐらす、憲政大に悅ひ、景虎に上杉の家繼がせ、管領の職讓りしかば、彈正大弼從四位下藤原政虎と名乘て、上杉の管領とは申しけり、政虎頓て入道し、謙信と號す、甲陽軍鑑には廿三歲にて入道せしと云ふさらば北條を討て、當家の仇、報ぜんとて、永祿三年三月、信濃上野下野常陸武藏の軍勢を催し、都合其勢十萬騎、相摸の國に發向し、小田原の城に押寄す、斯る所に武藏の國忍の成田が、心變りして、國々の軍勢、散々に成て、引返せば、謙信も力およばず、本國にぞ歸りける、謙信つら〱思ひしは、當時戰國の最中なればとて、居ながらに朝家の官、加階を望み、又弓箭の道に、たづさはつて、將軍家に見參せざらん事、冥の照覽も、恐しく、又武勇の耻辱なりとて、隣國の敵の方に、一々に使者を立て、此由を告て、此年五月1、雜兵合て僅に二千八百人を引具し、敵の國々打渉りて、都に上り、先づ參內の後、公方へこそ參りたれ、義輝將軍、御感斜ならず、御諱字賜りて、輝虎と改められ、管領の職許さる、
- 此年五月 — 底本のまま。前の文脈(永祿三年)に続くが、景虎の二度目の上洛と関東管領継承の許可は通説では永禄2(1559)。前の小田原攻撃も通説では永禄4.3で1年食い違う
夏目が記に、葬送の事、執行ふとて、枕の下を見れば、辭世の詞と見えて、我一期榮、一盃酒、四十九年、一醉間、生不知、死亦不知、歲月只是如夢中と云ふことを、自ら書かれ、押入て置かれしとなり
輝虎いかなる心にや、一生の間、素食して、女に近づくこと無かりしかば世嗣とすべき子なし
其家譜、並に宇佐美定祐が記を按ずるに、輝虎の母、賤かりしかば、父爲景に逐れて、八歲の時より、金津新兵衞と云ふ郞等と共に橡尾と云ふ所に隱れ居りしこと九年を經て、十四歲の時、父爲景が主君上杉顯定を失ひ、己が子六郞を上杉の世嗣とせしことを憤り、上杉譜代の士と、心を通じ、如何にもして、上杉の家を興さばやと思ひしに、程なく父討たれ、天文三年、兄の六郞、姉婿の政景して、輝虎を攻む、輝虎政景と戰て、勝つ事を得て、終に府內の城を攻め落し、兄の六郞を討て後、兄を殺して、國を得ば是れ嫡を奪ふにこそあれ、我れ國に望みなしとて、出家して、宗心と號して、高野山に趣かんとす、家人等、とかく諫め止めければ、さらば兄を殺して、其世嗣絕ちし上は、我も世嗣たつべしと、堅く盟ひ、又兄殺したる罪を懺悔して、肉と色とを絕ち、一生持戒し、後に謙信と改むと云々、又或說に、父爲景討たれ、兄六郞は家を保つ器にあらずとて、家人等が景虎を主とせしかば、兄を退けて、弟が家を繼き、我が子孫に傳へば、兄の家奪ふなりとて、一生女に近づけずとも云ふなり、去れども夏目定房が記を按するに、六郞と云ふは、謙信の弟なり、姊婿の政景が、謙信を亡し、六郞を主にせんと計りしに、永祿八年、政景、野尻の城の湖水に溺れ死す、其後六郞をば別の科を課せて、籠居させられしが、其明る年に病死せし由を記せり、按するに一つは六郞は兄にて、天文三年に、府內の城にて攻め殺されしと云ひ、一つは弟にて、永祿九年に病死せりと云ふ、彼れ是れ大に異なり、其中にも夏目が記す所、事の終始精しく見えたれば、宇佐美が說、覺束なし、兄殺して、其儘出家せしと云ふも如何あるべき、輝虎初め彈正大弼に任し、從四位下に叙し、天文二十年、管領職に補せられし後、入道して、謙信と號し、權大僧都の位に任ぜしなり、又肉と色とを斷ちしことは、夏目が記に、謙信常に持戒して、灌頂を行ふこと、凡そ四箇度、或は護摩を修し、或は參禪して、肉と色とを斷ちしかば、子なしと記し、嫡を奪ふの疑を避て、斯くありしとは見えず、思ふに弓矢の冥助を祈て、斯る外法を行ひしこと、昔人には多くありし俗なり、謙信遺言して、葬りし有樣、又今も上杉の家にて、謙信の像に仕ふる儀範を聞くに、罪障懺悔の爲に、持戒せしとは見えず、餘りに弓矢の冥助を、深く思ひ入て、かゝる行法せしと見えたり、然るに兄殺せしが故など云れし事は不幸と云ふべきにや○又謙信の卒せし事も、柿崎和泉守が怨靈に殺されしとも、又織田信長の謀計にて、人をして厠に行きし所を、鎗にて突殺せしなど、世に傳ふ、夏目が記に記せる所を見るに、病して自ら辭世の詞を、殘せしなれば、世の說又誤り傳へしなり、此餘謙信の行狀は、甲陽軍鑑等にも見ゆ、事長ければ、大略をしるす、
去る元龜元年の春、北條左京大夫氏康の七男三郞を人質として越後國に送る、謙信我が子にすべしとて、天正元年正月十九日、我が名を讓りて、上杉三郞景虎と名乘らせ、我が外甥景勝が妹に配せけり、謙信卒する時、領せし國々を二つに分て、半は景虎に讓り、半は外甥の長尾喜平次景勝に讓る、謙信卒して、百日をだに經ずして、景虎景勝、互に國を爭て軍起り、四月廿日の事なり景虎打負て、春日山の城を去り、憲政の御館喜多川へ落行き、景虎に方人せし家子郞等、是處彼處の城々に立籠て、戰ひ止むことなし、天正七年正月晦日、景虎が賴みきつたる侍大將北城丹後守討れしかば、景虎御館にも溜かね同三月、鮫が尾の城に落行く、是處をも同く攻め落され、景虎腹切て死す、憲政も終に自害して失せぬ、抑も此景勝が父越前守政景は、輝虎が姊婿にて、同じ流の長尾なり、然るに、政景、輝虎失はんとすること、兩度に及びて、輝虎、彼を誅せん事いと安し、去ながら、彼の家滅さんも憐なり且つ國の亂れともなりぬべし、計ふべき樣こそあれとて、戶次と云ふ侍に仰せて、戶次圖右衞門と云し者なり彼が領せし野尻の城の邊りなる湖にて、政景誤て水に溺れて死せし樣に拵て、其世嗣を絕たず、其子喜平次景勝、十一歲にて、父に後れて、幼き心にも、父が不忠の罪を耻ぢ、如何にもして、輝虎の恩に報ひ、此耻すゝがばやと、神佛に祈請す、十三歲より輝虎に近く仕へ、十四歲にて、深澤九鬼と云ふ大剛の兵とも、輝虎に罪蒙りしを、二人ながら、同じ枕に斬りにけり、輝虎大に感して、父政景が領せし植田三庄を始めて、殘る所なく返し賜ふ、十五歲にて、加賀能登の軍に高名し、廿四歲の時、輝虎卒し、景虎と戰て、三年の中に討ち亡す、こゝに織田平信長、年ころ輝虎が威に恐れ、常に家人の禮を取て、使奉り物獻ずる事、更に空しき月なかりき、輝虎死し、國亂れしと聞くよりも、上杉が國々打取て領せよやとて、加賀國をば佐久間玄蕃允、能登をば前田又左衞門尉、越中をば佐々內藏助に、分ちたぶ、景勝打ふし柴田因幡守が背きて、越後國新發田の城に籠て、國中靜ならざるを鎭めんとて、彼等と戰ふに暇あらず、天正十年の春、信長、甲斐の武田を滅して、上野をば瀧川左近將監、信濃をば森武藏守に與ふ、諸方の敵、牒じ合せて、越中信濃上野より攻め入らんとす、景勝先づ越中に向ひ、魚津の城に押寄せたる織田が軍勢、討ち破り、取て返して、信濃國に向ふ、景勝信濃に引き返せば、前田佐々、又魚津に押寄て、終に城をぞ落しける、此年信長、明智に討れ、瀧川森、上方へ引返す、景勝信濃を打隨へ、越後の國に歸りて、國中の亂を鎭め、又佐渡の國を擊つ、同き十二年、羽柴筑前守秀吉、越後國柏崎妙樂寺の僧に、日蓮宗の僧なり木村彌一右衞門尉を、副使として、音信を通じ重て又木村を使として長く兩家の好み結ふべき由の起請文、書きて送らる、又越中の佐々が、秀吉の旨に隨はず、秀吉これを討たんがため、頓て彼の國に向はんとす、成政いかに申すとも、景勝助け給はずんば、秀吉が幸、何事か、是に過くべきとぞ申されける、景勝、木村に向て、去りし年、景勝、成政が爲に、魚津の城を落さる、當時は、國中の亂を鎭めんとて、未だ彼と戰ふに及ばず、又彼國は、我が累代の所領なれば、景勝必ず佐々を滅して、取らんとす、然るに今秀吉の使を承て後、彼が國を討たんこと、秀吉と國を爭ふに似たり、又景勝が一度も彼と戰はで、秀吉の望に任せんも、云甲斐なし、所詮、此度彼が國に向て、越後武者の、弓矢取る樣、おことが見參に入れ、都への餞別すべしと、都合其勢八千人、十月廿三日、越後國を立て、越中國宮崎の城に押寄て、一時に城を攻め落し、戶山の城の此方なる滑川の邊に攻め入り、此處彼處放火して引返し、木村を召て、おことが見たらん樣、秀吉に語て、景勝北國打隨へんこと、いと安し、去りながら、秀吉の望に任せて、功をば讓り訖んぬと申せ、又兩家の好み結んことは、みな景勝よく計つてこそ返答には及ふべけれとて、使をば返されたり、明れば、十三年四月、秀吉越中の國に發向し、佐々戰負けて降參す、秀吉家譜に、越中を討れしは、此年七月、秀吉關白に任せられし後とす、誤れるか九月十三日辰刻斗りに、秀吉石田治部少輔三成、木村彌一右衞門尉、只二騎を具して雜兵僅三十八人、越後國落水の城下に來て、此城を守るなる須賀修理が許に使を立て、上杉殿へ秀吉の使として、木村これまで參りたり須賀殿に參會して申べきこと候とぞ云せける、須賀頓て商人の家、彼が旅館に點して、出て迎ふ、秀吉、修理に對面し、我は是れ羽柴筑前守秀吉なり、景勝に見參し申べき事あつて來りたり、案內者乞て春日山に趣かうと思ふは、如何にとありければ、須賀、不肖には侍るとも、某かくて候へば、仰られん事あらば、承りてこそ、景勝には申傳ふべけれ、容易く通し申さんこと、叶ふまじくにて候とぞ云ひ切つたる、秀吉さらば、早馬を參らせて、景勝に斯と申せ、秀吉が云はんこと、汝が聞くべき所に非ずと、仰せければ承りぬと申て、羽柴殿をば、城中に入れ參らせ、さま〱に饗應し奉る、此時、景勝は柴田が伯父刑部左衞門尉が、籠つたる新潟の城を、攻めんとて、蒲原郡に向ひしが、秀吉越中に攻め入ると聞て、羽柴が起請文書て、我と好を結ばんと云ふとも、亂れたる世の人心、計り難しとて、其勢八千六百にて、越後越中の境なる糸魚川の城に陣したり、落水の城よりは、無碍に程近ければ、須賀飛脚を立て、此由を告げ、秀吉討たせ給はんには、御勢賜るまでも候はず、某討つて參らせんとぞ申ける、景勝聞て、天下の權を掌る身が、戰國の中にして、多くの難所を越て來れるは、一つは去年の盟に違へじと、景勝と好み結ばんが爲、一つは景勝が正なき振舞すまじきを賴んで、斯くこそあらめ、夫に彼を闇々と討たんことは、景勝が年頃正しう取つたる弓矢の名を汚さんず、いで〱景勝、參會して彼が望に任せ親しうなるか、さらずば、先づ此度は彼を返し、重て軍起してこそ、勝負をば决すべけれとて、直江山城守、藤田能登守、泉澤河內守、安田筑前守を始として、侍合せて十二騎、步武者六十餘人を引具し、其日午刻計に、落水の城に來て、秀吉と對面す、色代事終て後、秀吉の御方には石田、景勝の方には直江ばかり、傍に在て、密に事を議せらるゝこと二時餘り、酉の刻の初めに、秀吉落水を立て、夜をこめて、戶山の城に歸り、越中の國務、沙汰あつて上洛し、今年七月、關白に任し給ひけり、此月、信濃の國の住人眞田安房守昌幸、德川殿に背き、二男源次郞を質として、景勝に加勢を乞ふ、景勝源次郞に所領を賜ふ、是れ後に左衞門佐と云ふが事なり景勝、河田安田本庄を先として、信濃國の軍兵、其勢六千五百人、上田の城に差向く、眞田大に悅び、越後の勢に、上田の城を守らせ、我身は九千の勢を率し、小野山に陣取る、此處彼處、勢配りして、敵を待つ、德川殿の御勢、利なくして、終に引返せば、越後の勢も歸りけり、同き冬、木村又關白の御使として、越後國に行向ひ、景勝を初として、宗徒の侍大將等に、物を賜ること夥し、これ兩家よしみ結ばれし悅の使とぞ聞えける、此年景勝、杉原新潟沼垂等の城を攻め落し、此等は皆柴田が餘黨の城なり明れば、天正十四年、關白に參るべしと聞えしかば、秀吉大に悅て、又木村を使として、色々の物贈り給ふ、景勝、木村と打連て、五月十一日に越後を立ち、石田增田大谷、北陸道に下りて、此處彼處にまうけす、同廿七日、景勝都に入る、關白かねて彼が旅館を點ぜられ、本國寺其夜自ら彼が旅館に至りて、遙々の上洛を悅ひ給ひけり、
藤田泉澤安田も、從四位下に叙し、其餘の家人等、叙爵するもの十一人に及べり、十八年、北條を討たれし時、景勝東山道より攻め下り、此處彼處の城々落して、小田原に至り、北條亡ひて後、關白殿に隨て、奧に下り、加賀の筑前守利家と、陸奥出羽の撿地し、朝鮮の軍起りしかば、名護屋の陣に隨ひ、文祿二年の春、朝鮮に渡りて、釜山の城を築く、同八月、歸朝し本國に趣き、三年の秋、上洛して伏見の城を築き、慶長元年、暇賜て歸國す、明れば二年の春、召1に隨て上洛す、陸奧會津の地賜て移され、百二十万石家人直江山城守、別の仰せ蒙りて、米澤を賜ふ、三十万石
- 二年の春、召 — 底本のまま。景勝の会津移封は通説では慶長3.1(1598)
又景勝に仰せけるは、奧の國郡、やゝもすれば、王命を蔑如し、反逆を謀る輩、古より是れ多し、景勝かしこに趣きなば、三年が程、國に在て、能く境を鎭むべしとて、御暇賜はりぬ、明れば三年八月、太閤薨し給ひし後、景勝、故太閤仰せ置るゝ旨ありと稱して、己が國に引籠て、要害を搆へ勢揃ひす、又隣國に盜賊蜂起して、其境穩ならず、是を追捕して、糺問するに、皆景勝が下知かうむる由を、陳じたり、斯ては世の亂れ、近にありぬとて、德川殿、御使を下されて、諫め給ふこと、度々に及びしかど、景勝終に隨はず既にして景勝が、軍起しぬと、國々より、早馬を參らせければ、さらば速に退治あるべしとて、慶長五年の秋、德川殿、奧に向はせ給ひしに、石田治部少輔三成が計ひにて、秀賴の御催促として、山陽山陰南海西海の軍勢、大坂に馳せ集り、德川殿失ひまるらせんとす、德川殿御父子、先づ東國の軍を止め、下野國より引返し、海道山道二手に分て、攻め上らせ給ひけり、景勝が軍勢、陸奥出羽の際にして、伊達最上の人々と、戰ふこと度々に及ぶ、上方の軍、破れて後、明れば六年十一月、景勝關東に參る、
德川殿御對面の後、長井信夫等の郡を賜て、會津仙道庄内の地、收公せらる、景勝此後米澤に移り三十万石を領したり外に五万石直江に賜ひしと云ふ、大坂の軍起りし時、將軍家の先陣して、馳せ向ひ戰ひて、兩御所の御感に預り、家人等多く勸賞を蒙る、杉原常陸介、須田大炊助、銕孫左衞門等、鴫野の戰に高名して、御敎書幷に物を賜ふこと差なり再び軍起りしには、兩御所、景勝を二條の御陣に召され、帝都を守護し奉れとて、御跡に止められ、八幡に陣をぞ取たりける、景勝六十九歲にて、元和九年三月廿日に卒したり、景勝が事、委しく夏目か記に、見えたり、其大略を載せぬ、其子左少將定勝、父に繼き、元和九年、從四位下侍從になされ、彈正大弼を兼ぬ、寛永三年少將に任し、正保二年九月十日、四十三歲にて卒す、其子侍從綱勝、承應二年十二月十一日元服し、御諱字賜て、從四位下侍從兼播磨守になされ、寛文四年閏五月七日、廿七歲にて卒し、嗣なかりしかば、外甥なればとて吉良上野介義英が嫡男して、家繼かせんことを望み申す、其遺言に任せて、義英が男を世嗣とし給ひて、所領半を減ぜらる、十五万石を賜ひしなり喜平次景倫、綱勝が家を繼ぎ、延寶三年十二月廿三日元服し、御諱字賜り、綱憲と改め名乘り、從四位下侍從、兼彈正大弼になさる、