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本多

第四上 · 段落 18 · 780520 54コマ Lから

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地名 11 6 6 4 4 4 3 3 3 3 3 3 3 3 2 2 2 2 2 2 2 2 2 2

中務少輔藤原忠勝は、九條右大臣師輔公十二代の孫、藤原助秀が後胤なり、助秀初て豐後國に下り、本多といふ所に住みしかば、本多とは名のりてけり、助秀が男右馬助助定、將軍尊氏卿に隨ひ參らせ、尾張國横根粟飯原の地頭になさる、助定の時、志村某を討て參らせしに因て、御敎書を成されて、其功を賞せられしといふ、助定より六代助時が時に至り、初て三河國に來て、源藏人殿に仕ふ、長親朝臣の御事助時子助豐が子忠豐、はしめ平八郎、後に吉左衞門、忠豐が嫡男平八郎忠高、二男肥後守忠眞といふ、忠豐贈大納言家に仕へ奉り、廣忠卿の御事天文十四年安祥の戰に先かけして討死す、同き十八年二月、又安祥の城を攻られしに、平八郎忠高、城中に戰ひ、敵の矢にあたつて死す、肥後守忠眞も、永祿四年に石瀨の戰に高名し一番鎗を合せしなり、元龜三年十二月三方が原の戰に討死す、父子兄弟同じく君の爲に命をおとす、中務少輔忠勝此平八郎忠高が子にて、是も初は平八郎とぞ申ける、永祿七年夏五月、德川殿吉田の城を攻めらる、忠勝生年十七にて先駈し、始て高名しけり、忠勝一番に牧野宗二郎と鎗を合すといひ、又は鵜殿石見守と鎗を合せしともいふ、此日蜂屋半之亟手負て死したり、これは忠勝に先をかけられて、けふの軍に鎗取の高名は詮なしとて、太刀打せしがゆゑなり、
一說に、永祿三年五月、德川どの大高の城を守らせ玉ひし時に御供し、同五年今川が侍大將小原肥前守、三河國長澤に入りし時、忠勝十五才にて敵の首を取といふ、又同六年牛久保にて、駿河の城所助之進と鎗を合せ、此年牧野宗二郎と吉田下塚にて鎗を合せ、同七年土呂一揆の時、柵を越えて槍をあはせしといふ、同き十二年三月五日掛川の合戰に先駈す、元龜元年の夏、織田殿、備前守長政朝臣と、大猷院殿の御外祖淺井殿の御事なり、軍起る、越前國の守護朝倉左衞門督義景、長政に加勢す、信長また德川殿に御加勢を乞ひ申さる、三千餘騎を引卒し、一說に五千近江國に至り給ふ、軍既に明日に極りぬ、德川殿强からん方に向はるべしとて、明れば六月廿八日、姉川を隔てゝ義景に向はれたり、信長淺井と戰ひて、負軍し玉ふと見えし所に、忠勝先陣に進み、士卒を下知して、眞先かく、御勢先を爭ひて、三萬餘騎の一說に一万五千中へ駈け入て、縱ざま横ざまに切て廻る、義景終に打負けて、散々になつて落行けば、淺井の軍も破れてけり、按するに、此軍の事は、甲陽軍鑑信長記、家忠日記等にしるす所、異說多し、同三年六月、武田入道信玄、三河遠江を打隨へんと、甲斐國を立て、直ちに飯田の城を落す、御方の人々、この由を聞て、敵の樣を伺はんと、見付の原に打出つ、敵思ふにも似ぬ多勢にて、間近く陣を取てけり、信玄御方の勢を見て、如何にも相謀て、敵一騎も洩さず、打取れと下知し、一勢〱打て出て、此方に向て進み來るに、爰に内藤三左衞門信成、御方の人々を制して、三河遠江の兵、都合八千とこそいへ、それが中、こゝに來る者、四千にや餘るべき、敵の勢は三萬餘騎、しかも信玄といふ古兵に向つて、我等大將もましまさぬ軍して、軍仕損ずるほどならば、敵は定て勝に乘て、濱松に至んず、纔に殘る御勢にて、軍したまはんこと難かるべし、ひと先づ爰をば引返し、信長の加勢を待て後陣とし、八千人が先駈して戰はんに、いかで勝軍せではあるべき、さりながら、かほど間近く寄せ合うたるに、軍全うして返へさん事、信成いかにも叶ふべからず、誰か候、人々下知して引せ玉へといふ、忠勝ことし廿五歲、黑糸の鎧に、鹿角打たる冑をき、蜻蜓切といふ槍を、馬手のわきに、かいこうで、二反ばかりに、押寄せたる敵御方の眞中に、馬をしづかにあゆませ入れ、御方を下知して引退く、見付の人家に火を懸けて、濱松にこそ歸りけれ、
忠勝が振舞ひ、敵味方の目を驚かす、敵の方より見付の坂に榜を建てゝ、家康に過たる物は二つあり、からのかしらに本多平八、この謠は、信玄の近習に杉右近助がよみしなり、此程は、戰國の最中なれば、外國の物は、世にめつらしかりしに、三河武者十人に七八人、冑の上に、氂縷を裝ひしを見て、かくは讀みしなり、からのかしらとは、氂縷の事をいひしなり、
槍の身長きに、柄ふとく、二丈計なるに、靑貝をすつたり、蜻蜓の飛來て、忽ちに觸れて切れたれば、かくぞ名付しなる、忠勝年老て後、或日桑名の城下、町屋河原に出て、馬に乘りながら、此鎗の石突をとりて振りけるに、歸りて抦三尺斗切て捨たり、人怪みければ、兵仗は、おのが力をはかりて用ゐるべきものなりといひしなり
この年十二月、三方が原の戰に、敵を破り、敗軍の兵を集て、濱松の城に歸るといふ、信州村上が子孫の家に、忠勝の村上源吾國清に送りし狀あり、其詞に、累年輝虎家康に被仰合に、付て、此間權現堂を以て仰遣さるの叚、祝着之旨、御報に及はる、貴所にも、直札を以被申入由を載たり、此事を思ふに、天正の初年に係るべし、其狀には、二月四日と見えたり、此時國清は、越後の國に屬せしゆゑなり、
天正元年の秋、長篠の城を攻めらる、忠勝等相謀て、遠攻にす、敵怺へずして降りぬ、同三年五月、長篠の合戰に、忠勝軍奉行を承るなり、創業記考異にいづ、他書に見る所なし、今年六月、高明の城を降し、八月小山の城を攻む、同六年三月駿河國に向ひ玉ひし時、忠勝仰を承て、遠目口を越て、駿府に入る、敵持舟の城より出て、遮らんとするを打破る、同じき八年六月、高天神の城に向ひ給ふ、忠勝眞先に進み、外城を打破れば、即ち城を圍まれて、明れば九年三月、終に攻おとす、落行く敵と戰て、首をきること廿二、同十年三月、德川殿、三位中將平信忠と、信長の嫡男、武田四郎を擊るべしと、駿河國を打從へ、甲斐の國に攻入り玉ひし時、忠勝先陳を承る、去程に德川殿今度武田が滅びし事をも賀し、みづから又駿河國をわかちし祝をも、申さんとて、五月九日濱松を御立有て、織田殿へ參り玉ふ、信長大に悅び玉ひ、道造らせ、橋わたさせ、諸大名に仰せて、尾張國より近江の安土に至るまで、宿々に假屋をうつて、御座をかまへ、饗應の具、みな金銀をちりばめたり、ましてや織田殿に參らせ玉ひし時、もてなし給ふありさま、心も詞も及ばれず、信長宣ひけるは、年來國を爭うたる、武田滅て侍る事、信忠が名譽、全く德川殿の武功に依る所なり、東國の事、おことましませば、信長思ひ置く事なし、是よりは、西國盡く平げなんと存じ、まづ四國を退治せよとて、三男信孝、後に美濃の屋形三七殿軍勢付けて遣はしぬ、信長また中將と共に山陰山陽を從へんが爲に、近日に首途し、諸國の軍勢集らん程は、都にさむらはん、德川殿は都の內も見給はぬ所も多かるべし、是よりは程遠からず、善きついでなれば、畿内の名所〱をも御心靜に御覽あれ、やがて都にて又こそ見參には入べけれ、汝等は御先へ罷り向て、よくもてなし奉れとて、津田七兵衞尉信澄、信長の甥惟任五郎左衞門尉長秀、丹羽が事也、攝津の國へ下さる、御道しるべのために、具せらるべしとて、長谷川竹丸をば藤五郎秀一、東郷侍從、參らせられたり、又この四郎次郎男と申は、茶屋と稱す、都の商人にて候が、さが〱しきやつにて、常は信長が許へ近く召すものにて候、德川殿にも御存知とこそ承れ、おのれ道すがら、をかしき物語をも仕て、御心を慰め奉るべしと、仰下さる、同廿一日、德川殿近江國を御出あり、都より初て、所々回り御覽ずる程に、同き晦日には、和泉國堺の浦に至り給ひぬ、織田殿も、今ははや御上洛の程なり、家康も見つべき所をば見つ、都へ上りて見參に入らんと思ふに、汝まづ參て、此由を申せとて、四郎次郎をば返へされたり、六月二日の朝、忠勝して、今日御歸洛の旨を織田殿へ告げ申され、頓て堺の浦を出で玉ふ、忠勝馬を馳せて上るに、都の方より荷鞍しきたる馬に乘て、追かけ〱來るもの、行合ひたり、近く寄て見れば、例の四郎次郎男なり、馬うち寄せて、世ははや是迄に候よ、今朝のあかつき、本能寺の御陣へ、丹波の明智おし寄せ、火を放て攻め奉りしかば、織田殿討れ玉ふ、中將殿の御陣をも、十重廿重に取卷き、攻め戰ふと聞く、今は討れたまひぬと存ず、此事を急ぎ申べきために、參り候といふ、忠勝打つれて引返す、飯盛の山のほとりにて、德川殿はやく御覽じ付けられて、汝等は爰に扣へ候へと、御供の人々をば止められ、酒井左衞門尉忠次、石川伯耆守康昌、一說に數正、榊原小平太康政、後に式部少輔井伊万千代、後に兵部少輔直政、大久保新十郎、後に相摸守忠隣、ばかりを召しぐせられ、出向ひ玉ふ、忠勝まづ其由を申す、四郎次郎を近く召して、一々に尋ね究められて、長谷川を召す、竹丸やがてまゐれり、おの〱馬を一所に立てゝ、たゞ呆れにあきれたり、やゝ有て、德川殿竹丸に向ひ玉ひ、家康年頃信長と好みを結び、恩に感ずる事もこれ多し、具したるものゝ、今少しもあらんには、いづくまでも光秀が陣とらん所に押寄せ、信長のために一軍して、うち死しなむ、此無勢にて、なまじいに軍せんとて、雜兵の手に掛らんよりは、都へ登り、知恩院に入て腹切て、信長に死を共にせんと思ふなりと宣ふ、竹丸承て、殿だにも御腹めさるべしと承る、まして年比の御家人にて候者をや、竹丸まづ腹かき切て、此程の如くに御道しるべをば、冥途迄も仕るべく候と申す、さらば、忠勝御先仕れと仰ければ、四郎次郎男と二人馬をならべて、御先をうつ、御供の人々には、何事の出來ぬるやらんと、怪み〱行く程に、路のほど廿町斗り行きて、忠勝馬を乘返し、さきの五人の人々を招て、忠勝微弱の身にて、君を强て諫め奉らんこと、憚りすくなからずといへども、殿の御大事、今日に極つたる上は、思ふ所をまづ人々に申にて候、そも〱殿が信長の年來の恩に感し玉ひ、都へのぼり、御腹めさるべしと候は、義の當つたる所なれば、誰々も異議なきとこそ存ずれ、さりながら、信長の御爲に恩を報し給はんには、如何にもして、參河國へ御下りありて、軍勢を催され、光秀が首を切つて、御手向あらば、如何なる讀經佛事よりも、亡魂はさこそ悅び玉ふべけれ、あはれ此由を以て、仰上くるべうもや候はんと云ひければ、左衞門尉年たけたる者の心付なくして、和殿の異見承る事、偏へに忠次等が不覺たり、返す返すも面目を失ひ訖んぬ、さらば申べきにて候とて、忠勝が申す旨を、盡くに述べたり、德川殿つく〱と聞召し、家康もし國に歸る事を得んには、軍起して光秀を誅せん事、元より願ふ所なり、さりながら、家康を初め、汝等に至るまで、爰に來る事、此度を初めとす、知らぬ野山をさまよひて、かく亂れたるひまに、落人はぎ取て得づけんとする、山賊强盜の奴原に、爰かしにて打れん事の口をしければ、都にて腹切らんとは思ふぞと仰せらる、竹丸怒れる眼より、泪をはら〱と流して、悔しうも、殿の御供を承て、重恩の主の最期の供も仕らず、又敵の奴原、一人も手にかけ切て捨てずして、腹きらん事、死しての恨、猶深かるべし、哀れ御歸國あつて、御勢を催され、光秀御誅伐あらんとき、眞先かけて打死せば、今の身にては何の幸か是に過候べき、たゝし殿は道の程をこそ危く思召さるれ、日頃此ほとりの士は、竹丸が申次を承て候得ば、竹丸が賴まんこと、背く人は候はじ、夫故にこそ、此度も竹丸御道しるべをば承れ、竹丸だに御先を打ち候はんには、道の程は、何の御恙か、わたらせ玉ふべきと申す、忠次康昌一同に、幸なる事を承る者かな、さらば忠勝が諫め申に御從ひ有て、道すがらの事は、竹丸が計らひに任せらるべう候にとて、此時にいたりて、始て御供の人々にも事のやうをぞ語られける、穴山の陸奧入道も、梅雪此程こゝかしこ伴ひしかば、織田殿父子の御事を告けられ、又打連れて、御下り有べしと仰遣されたりしに、德川殿を疑ひ參らせ、引別れて行くほどに、宇治田原の邊にて、野伏のために討れけり、竹丸みちすがら、能く計りたりければ、兵參らせて御先を駈る所もあり、或は駄餉を獻て、上下の餓を救ひ參らす人もあり、伊賀伊勢を經て、事故なく、三河の國に歸り玉ひ、急き御勢を召され、先陣既に尾張國に出る、かゝる所に、光秀誅せられぬと、筑前守秀吉告申たりければ、引返させ玉ひてけり、此時の事、異說多くして、定かならず、この說、加藤宗月の記に詳なり、
此時御供の人々には、酒井左衛門尉、石川伯耆守、高力權左衛門、本多藤四郎、石川長門守、高木筑後守、本多平八郎、榊原小平太、大久保新十郎、菅沼藤藏、久野新平、本多百助、阿部善九郎、牧野平左衛門、三宅彌次兵衛、大久保治右衛門、服部半藏、渡邊半藏、森川金右衛門、酒井作左衛門、多田三吉、花井庄左衛門、御扈從組には鳥居おまつ、井伊万千代、内藤新五郎、都筑龜藏、松平十三郎、菅沼小大膳、永井傳八郎、長田瀨兵衛、松平小源太、都筑長三郎、三浦お龜、靑木長三郎、侍都合三十四人なり、此外に十人計、此度の御供に參りたるありしが、金瘡を療するに宜しき湯なりと聞えければ、暇申て有馬へ行て、大事の御供を仕らず、これに依て、今も御家人有馬の湯に趣く事をば、憚る事にてありけり、
幾程なくて、秀吉信孝を失ひ奉り、又信雄をも亡さんとて、軍起る、德川殿北畠を助けて、尾張國の小牧山に出むかつて、御陳を召さる、天正十二年四月九日午の刻ばかりに、犬山のあなた、長湫のほとりにて、德川殿に出あうて、味方まけ軍したりと、秀吉の陣に告ければ、秀吉大に怒て、やすからぬ事かな、秀吉むかつて軍すべし、始より此所の要害を守りたらん者は、尙よく守れ、其外の軍兵は、一騎も殘らず來るべしと、陣々に觸る、馬ひつたて、鎧なげかけ、冑とつて着る間に、はや大將軍の陣に、貝を吹鳴したれば、先陣既に打出つ、秀吉の籏、門外に押立てたり、二番三番押つゞいて、十六番迄出ぬれは、秀吉樂田を立て、長湫をさして馬を馳す、後陣は猶引もきらず、忠勝この時は小牧の御陣に止り守りしが、此由を聞て、今朝よりの戰に、御方疲れぬべし、馳せ加つて、御先を懸けんとて、手勢二つに引わけ、半は止めて爰を守らせ、馬武者步卒三百餘人を三手に作り、敵の多勢と、道を並べて行く程に、其間四五町には過ぎざりけり、猶も矢頃近くゆく時は、足輕の兵に下知して、鐵炮を放ちかけ〱、靜かに馬をうつ、かゝる所に、永井與次郎は、沛艾の馬をあしう乘て、落ちたりければ、馬いはなれて飛びあがり〱、敵に向て走る、永井は次いて追て行く、忠勝きつと見て、一鞭あてゝ馬を馳せ、永井を、つと馳せ拔て、敵の中に追こうで終に其馬取返し、永井を乘せて歸りけり、秀吉の兵共、憎き本多が今日の振舞ひかな、馳せ寄つて蹴ちらして通り候はんといへば、秀吉かたく制して、龍泉寺に至る、打漏されたる味方に、家康は勝ち誇てや居らんずらんと問ふ、戰事終て家康の御旗は、小幡の方に向て入りぬと答ふ、秀吉力およばず、此所に陣を張る、忠勝物なれたる兵共に、敵の陣の取やう、見て來れとて遣はす、能く見おほせて歸る、猶覺束なくや思ひけん、重ねて人を遣はすこと、都合六人に及ひて後、德川殿の御外叔父水野殿を惣兵衛忠重後に和泉守伴ひ、御前に參り、忠勝が手のもの、いまだ軍仕らねば、疲れもせず、忠重の御勢と一ツに成て、今宵龍泉寺に夜討せば、一定犬山より此方にして、秀吉が首取て見參に入れ候べし、夜討の料に、ふるひものどもして、敵のやうをば、見おほせて候と申す、德川殿いみじうこそ謀りたれ、去ながら夜軍は、あやうきものぞかし、今日の戰ひ、御方の利すくなからず、たゞ此儘に軍を全くさんには若かじとて、小幡の城を出玉ひ、夜半に小牧に入らせ玉ふ、此夜討の事を後に仰られし事、岩淵夜話別集を見るべし、北畠殿忠勝が振舞を感じ玉ふこと斜ならず、御刀をぞ給ひける、此後東西和睦なりて、關白の御妹、濱松に入玉ふべしとあり、悅び申の御使に、忠勝都にのぼり、關白殿も、此日の事を語り出されて、一人當千の兵とは、忠勝をこそいふべけれと感じ、仰下されけり、同十六年叙爵し、同十八年の夏、關白殿北條を伐ち玉ふ時、忠勝上方の軍勢と共に、武藏の岩槻の城に向ひ、大手の大將承て、眞先に攻やぶつて、敵を降す、秀吉德川殿に宣ひけるは、北條が國々、既に降りぬといへども、上總下總は大事の所なれば、忠勝して鎭めたべ候とあれば、廳南の城に止つて守る、
小田原の陣の時、初め忠勝濱手を守る、秀吉德川殿に宣ふ旨ありしかば、忠勝仰を蒙り、家臣都筑彌左衞門をして、玉繩の城に差遣し、北條左衞門大夫が叔父たる僧に達して左衞門大夫を說き降さしめ、左衞門大夫、質を參らせ小田原に來り忠勝によりて、德川殿に見參し其後秀吉に見參す、かくて秀吉、淺野木村して關東の國々をめぐらしめられたるに、忠勝相共に左衞門大夫に案內させて、五月の初め、小田原を立ち、江戶佐倉土氣東金廳南等の城降る、六月岩槻の城を攻降し、鉢形深谷に出て、北條勢とあひて、八王子の城をせめ落して、筑井を取る、又秀吉の命によつて、忠勝は、上總國廳南の城を守り、上總下總兩國を鎭む、
北條亡ひて、關白殿東山道に下り玉ひしが、忠勝を下野國宇都宮の御陣に召されて、冑一つ取出して、奧の佐藤忠信が着たりしとて、此程陸奧國より參らせたる冑なり、當時忠勝ならで、此冑きんずるもの覺えねば、賜らんとて召しけるぞと、賜ひけり、時の人、羨しき事に思ひしに、忠勝が嫡子平八郎忠政、後に美濃守、今年十六歲に成けるが、父に向ひ、父御は、まさしく德川殿の侍大將にてこそ侍れ、義經の侍の冑、何條の事あらん、とく返させ玉ふべしとぞ怒りける、同年德川殿關東へ御移あり、井伊本多榊原大久保などは、よのつねの御家人に准ずべからずと、關白の仰ありければ、上總國大多喜の城に、あまた地つけて給てけり、十万石、一說に五万石、文祿の初め、朝鮮を伐ち玉ふとて、關白殿筑紫に御陣をめさる、肥後國に凶徒起る、淺野左京大夫幸長、追討の御使を承る、殿下德川殿に仰せけるは、幸長年若く侍れば、忠勝をも向はせ玉ふべしとあり、既に打立んとせし所に、凶徒滅ひしかば、軍を出すに及はず、慶長五年の秋、東西一時に軍起る、忠勝仰を蒙り、井伊直政と共に、御方の大名、打つれて、美濃國に向ひ軍し、九月十五日の合戰に、諸軍を下知して軍させ、我身も嶋津を打破り、此日忠勝が手に、首九十餘を得たりと云ふ軍終て後、福嶋左衞門大夫正則、德川殿の御陣へ參り、扨も今日忠勝が御方の多勢を下知して、戰うたる樣、左右の手をつかふよりも猶たやすう見えて候、あつはれ、よき大將軍にて候ものかなと感じ申す、忠勝あさ笑て、敵の無碍に弱うて、戰ふに堪へずこそ候ひつれと、色代せり、明れば六年二月伊勢國桑名の城を賜ひぬ、十万石今迄領せし大多喜をば、五万石二男忠朝に賜ふ、父子共に、去年の勳功の賞とぞ聞えたる、忠勝十七歲の時初て軍し、大小の戰ひ五十七度、終に一度の不覺なし、又終に一所の手も負はず、身既に衰へ、いたはる所も多ければ、同き十四年四月、所領を嫡子忠政に讓り、伊勢國にこもり居て、十五年十月十八日、六十三歲にて卒しぬ、男子二人女子二人あり、姉は眞田伊豆守信幸が妻にて、女なれども能き大將にて有けり、妹は奧平大膳大夫家昌に嫁したり、
侍從兼美濃守藤原忠政は、忠勝が嫡男なり、天正十八年夏德川殿の御勢、秀吉の軍勢と打交り、岩槻の城を攻む、父忠勝、淺野彈正少弼長政等と追手より向ひ、鳥居彥右衞門元忠、平岩主計頭親吉は搦手に向ひたり、敵の兵、城より打て出つ、德川殿の御勢、上方の人々と、互に先を爭て進む、敵さん〱に防き戰へば、御方忽ちに手負ふもの七十餘人、忠勝が兵、事ともせず、眞先に進み戰ふ、敵は怺へず引退く、息をもくれず追詰て、追手の門を攻破る、城の大將妹尾下總守蹈止つて、防き戰ふ、忠政年十六歲、太刀を拔てわたしあひ、終に妹尾が首取て、城中に向ひ、おめいて懸く、城中より、差しつめ引きつめ放つ矢の、忠政が乘たる鞍の前輪に、くつ卷きせめて、はつしと立つ、忠政ちつとも撓らはず、尙城中に攻入る、搦手をも既に攻め破つて、元忠親吉一手になり、一所に馬を立ならべ、手の者、下知して戰はせ、父忠勝が大旗を本城の內に押立たり、妹尾は既にうたれたり、敵力盡て降人となつて出てけり、八王子筑井鉢形等を攻しとき、父忠勝に隨ひて、名をあらはす、慶長三年に叙爵す、關が原の戰には、中納言殿の御供して、山道より上りければ、軍にはあはず、同十四年父の所領を讓らる、大坂の兵起りし時、先陣承て、伊勢國の軍勢、引き具して馳せ向ひ、再ひ兵起しにも、又伊勢の軍勢を卒し、大坂に向ひ戰て、首二百五十二を獻る、元和三年播磨國姫路の城に移る、五万石を加へられて、合て十五万石を領す、同八年八月十日五十二歲2にて卒す、忠政岡崎三郞殿の御娘に添ひ參らせ、男子三人、女子二人まうけたり、是皆大御所の御外曾孫とぞ聞へし、嫡子中務少輔忠刻、初名は平八郞、大坂の軍に從て向ひぬ、これも將軍家の姫君に天樹院殿の御事そひ奉り、女子一人をまうく、備前少將光政の室是なり、忠刻三十一歲にて父に先だち、元和五年五月七日1に卒す、はしめ姫君の御化粧田として、十万石をつけて、忠刻に玉ひしと云、忠刻卒して男なければ、彼の十万石は收公せられしなり、
  1. — 底本のまま。本多忠刻の没年月日は通説では寛永3年(1626) 5月 7日(31歳)で、年号が合わない
  2. — 底本のまま。前の「元和三年」に続いて元和8年と読めるが、本多忠政の没年月日は通説では寛永8年(1631) 8月 10日、享年57である
侍從兼甲斐守藤原政朝、忠政の二男なり、大坂の戰に父と一所に軍しけり、叔父出雲守忠朝討死して、其男入道丸わづか二歲なりしかば、叔父忠朝が世嗣となる、大多喜五万石を領す兄中務少輔忠刻世を早うして後、元和八年政朝1また父の家を繼ぐ、姫路十五万石我今まで領せしは、叔父忠朝に賜ひし處なり、入道丸やうやく人と爲り、內記政勝と申、彼父が遺領なればとて讓る、政朝四十一歲にして、寛永十五年十二月七日卒す、其時二人の男、猶幼なければ、嫡子十五歲に及ばん頃、我所領返し與へよといひて、又我家の事をも政勝に讓る、內記政勝、初め寛永八年播磨國にて、別に所領を玉ひ、四万石同九年に叙爵し、同十五年に政朝が跡をつき、明れば十六年の冬、大和國郡山の城に移り、政勝が本領をば、其嫡子八郞兵衞勝行に賜ふ、大和にて四万石同十七年に政勝四品し、寛文三年侍從に任ず、甲斐守政朝が嫡子政長、既に成人して、中務少輔に任し、二男政信監物に任す、かゝれども、政勝は彼等が父の遺領をも返し與へず、政勝一たびは彼等が父の遺領かへし與へんと申けれとも、御許しなかりしといふ、承應二年十月九日に至て、僅かの地わかちて政長政信に與ふ、政長に三万石、政信に一万石、思ふに政勝が嫡男勝行世をはやうせし後、かれが領せし四万石をわかちしにや、監物政信寛文二年四月廿日に卒し、子なかりしかば、政勝又我三男して其嗣とす、肥前守忠英是なり、同き十一年十月政勝卒する時に及て、政長が本領をば、十五万石也盡くには與へず、我拼せ領せし地十九万石三つが二つを政長に、十二万石也其一つを我子出雲守政利にぞ讓りける、六万石也政長は政勝が讓りを請て、大和國郡山の城に住し、幾程なく、延寶七年四月廿四日に卒す、四十七歲、是も子なければ、侍從源賴元朝臣水戶の松平刑部大輔の御事なり、二男を以て嗣とす、平八郞政武と云、按するに美濃守忠政の娘小笠原右近將監忠貞に嫁2したり、忠貞の娘は松平刑部大輔殿の室なり然れば政武は、美濃守が外曾孫なりしが故にや、同年六月廿六日陸奧國信夫の郡福嶋に移され、所領をも加へられしかば、此時初て政朝昔領せし程の地をば領しけり、十五万石政武此年叙爵して、中務少輔に任ず、
  1. — 底本のまま。本多政朝が姫路の本家を継いだのは父忠政が死んだ寛永8年(1631)である。同じ段落の後にも政勝が「寛永八年」に別に所領を受けたと記す
  2. — 底本のまま(この割注に「忠貞」2か所)。本多忠政の娘を迎えた小笠原 右近将監の実名は通説では忠真であり、本書f062.p004も「忠眞」と記す。「眞」と「貞」の字形の混同とみられる
出雲守藤原忠朝は、中務少輔忠勝が二男、生年十九歲にて、父と同じく關が原の合戰に、嶋津が陣に向ひ、自ら首二つを切る、德川殿の御感斜ならず、明れば慶長六年春、忠勝桑名の城を賜て、父が領せし大多喜を忠朝に給ふ、五万石是去年の勳賞とぞ聞えたる、大坂の兵起り、將軍家の先陣を承て馳向ひ、再ひ軍起りしにも、又先陣を承る、手の軍兵をば能く下知して戰はせ、我身は獨り百里といふ馬に打乘り、步武者廿餘人を引具し、敵の陣を懸破り〱、思ふさまに戰ひ、年三十四歲にて打死す、忠朝がかく打死せし事は、去年大坂の城を攻られしに、忠朝が仰を承て向ひし所、川前に流れて水深く、城をせむるに便り宜しからず、忠朝此由を申、大御所御氣色損して、汝が父の軍せし事、山をも川をも嫌はざりきと仰あり、忠朝口をしき事に思ひ打死せんと思ひ定む、程なく東西御和睦ありければ、安からぬ事と思ひたり、明年の夏再ひ兵起りしかば、此度こそ、本意をば遂くべけれと思ひ、かくは戰ひ死せしとなり、忠朝が郞等、主の死骸をかきて、大御所の御馬の前を過ぐるを御覽して、御淚をながさせ給ひしといふなり
其子二人、娘は甥の甲斐守政朝が妻なり、男子は侍從政勝なり、內記政勝は父が討死のとき幼なかりしかば、甲斐守政朝、父が家をつきて、政勝は政朝が許に、ひとゝなれり、寛永八年父が遺領政朝が許より讓らる、明れば十六年1十二月、大和國の郡山の城に移り、十五万石みづからの所領をば、嫡子八郞兵衞勝行に賜る、四万石勝行程なく世をはやうす、勝行は十六歲にて、慶安三年六月十一日に死す、勝行世嗣たえしなり、所領は政勝合せ領せしか、寛文十一年十月朔日、政勝五十八歲にて卒す、二男出雲守政利、父が領せし地をわかち賜ひ、六万石延寶七年播磨國明石の地を給る、
  1. — 底本のまま。「寛永八年」の翌年ではない。f020.p012によれば政勝は寛永15年に政朝の跡を継ぎ翌16年に大和郡山へ移ったので、その間の叙述が抜けているとみられる
能登守藤原忠義は美濃守忠政が二男なり、十三歲にて父に從ひ、大坂の軍に向ひしとも云あり、大相國の仰として、寛永四年播磨にて初て所領の地を賜ふ、四万石同き八年加恩の事あり、一万石左大臣家の御時、寛永十六年十二月遠江國掛川の城を賜ふ、七万石正保元年正月十一日越後村上の城に移り、十万石慶安三年六月九日陸奧國白川の城に移る、十二万石、其後開發の田、一万五千石を加へ領す、寛文二年十一月所領を子息等に分ち讓り、入道して鈍齋と號し、延寶四年九月廿六日に卒す、七十五歲とぞ聞えし、嫡子下野守忠平家をつぐ、十万石を領す、二男三男の事、下に見ゆ、四男吉左衞門忠晴五男造酒允忠尙二人共に、二千五百石つゝをゆづらる、忠尙後に忠晴が所領をあはせ領す、