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內藤
この家によく出る人物・地名
人物 内藤信成 16徳川家康 8内藤清長 6内藤信政 4内藤家長 3内藤信良 3島田景信 2松平広忠 2内藤信照 2内藤信広 2島田平蔵 1島田九郎左衛門(平蔵男) 1内藤政長 1大久保忠世 1大久保忠佐 1菅沼忠久 1石川康通 1内藤三左衛門(信良弟) 1内藤弌信 1内藤信充 1
地名 美濃国関ヶ原 3駿河国府中 2摂津大坂城 2三河国 1三河国矢作 1三河国長篠 1遠江高天神城 1遠江国国安 1尾張小牧山 1尾張清洲城 1相模国小田原 1伊豆韮山城 1関東 1駿河沼津城 1美濃岩村城 1近江国長浜 1近江国 1美濃国 1飛騨国 1近江佐和山城 1摂津国大坂 1西国 1摂津尼崎城 1畿内 1
信成が母は、岡崎贈大納言家の寵女にて懷妊せしを、嶋田久左衞門景信に給ひ、三月を過て信成をうむ、是れ天正十四年1の事なり、清長岡崎殿の御子と知てければ、むつきの內より取て養ひ、弘治三年信成十三才の時、德川殿に見參させければ、御身近く召仕れ、三左衞門信成と召されき、正しく德川殿同父異母の御弟なりと云ふ、一說に、三河國矢作の住人嶋田平藏、德川殿と戰て打る、嫡子九郞左衞門、二男某と共に城を逃れ出づ、三男は民家に養はれ居たりしを家長とりて子とし、後に政長を設けしかば、別に所領を給ひしといふ、○按するに、前說は淸長が子とし、後說は淸長の男家長が子とす、其家の系圖を見るに、淸長が子たり、又家長が德川殿に討れし人の子孫を御身近く參らせしといふも、覺束なし、前說に從ふべしや、
- 是れ天正十四年 — 底本のまま。弘治3年に13歳なら天文14年生まれで、f030.p005割注も「天文十四年」。「天文」の底本の誤記とみられる
永祿六年一向專修の門徒等、悉く背き參らせし時、信成一族等、共に御方にあつて、爰かしこに戰ひ、長篠の合戰に、大久保兄弟と同しく進て、敵の多勢を打破る、高天神の城、落ちぬべう見えし時、打漏されたる敵、一定國安にや落行かん、汝等かしこに行向ふべしと仰ければ、信成菅沼治郞右衞門と同しく、彼處に向て陣をとる、敵案の如く、此所に落來るを出向ひ戰て、首切てまゐらす、小牧の陣に淸洲の本城に止められ、小田原の軍には、伊豆國韮山の城を下す、今年關東に移給ひしかば、此城を信成に賜ふ、一万石關が原の戰には、駿河國沼津の城を守り、一說に關が原にて御脇備なりと不審、軍終て後、美濃國岩村の城を守る、明れば慶長六年の二月駿河國府を賜て移る、十一年、大御所駿河の國府を御座所となさるべきに依て、四月三日近江の長濱に移され、近江美濃飛彈三箇國の役夫差遣し、城築て給はる、五万石十七年七月信成卒す六十四歲、按ずるに、天文十四年に生れたらんには、六十八歲にあらずや、其子紀伊守信政、生年十九歲にて、大番の頭となされ、天正十三年所々の軍に從ひ、關が原の合戰に、石川長門守康通等と佐和山の城を請取、父に繼て後、大坂の兵起りし時、馳向て城を攻め、再ひ兵起しには、西國通路の要害なればとて、尼が崎の城に信政を込めらる、元和五年、大坂の城、修せられて後、信政に仰て、此所を守らせ、畿內山陽山陰南海西海數十州の鎭となされたり、是大坂の御城代始、寛永三年行年五十九歲にて卒す、其子豐前守信照父に繼く、寬永五年陸奧棚倉の城に移る、五万石慶安二年十月廿五日大坂の城を守る、御城代なり、承應元年五月職を辞し、寛文五年正月十九日七十四歲にて卒す、其子攝津守信良父に繼て、豐前守となる、寛文十一年九月廿三日信良が請に依て、舍弟三左衞門某に、新墾田五千石を賜ひしなり、延寶二年十一月十六日致仕す、その子紀伊守信勝1實は石見守信廣が孫伊勢守信充が嫡子、信良が世嗣とす、信廣は、紀伊守信政の二男、豐前守信照の舍弟なり、
- 紀伊守信勝 — 底本のまま。内藤信良の跡を継いだ人物は通説では内藤弌信。初名かどうか未確認