左馬助藤原政長は、彌二右衞門家長が男、家長は右京進義淸が孫、故の彌二右衛門淸長が子なりけり、淸長初め岡崎贈大納言家に屬ひ、參河國上野の城にあり、天文十一年十二月廿四日尾張國の軍勢襲ひ來り、旣に外郭を打破りて、第二の城に攻入、淸長一族郞等切て出で、防ぎ戰ひし程に、寄手さん〱になつて引返す、岡崎殿感じ玉ふ事斜ならず、淸長が姪四郞左衞門正成に所領を賜ひしは、此時の賞とぞ聞えける、家長强弓の手利にて、度々の高名を顯しける中にも、天正三年五月廿一日長篠の合戰に、御方いまだ陣の行も成さゞるに、武田が物見の者と見えて、武者三騎、引かけ〱出來り、馬の鼻を並て、此方に向て打立つ、家長叔父甚五左衞門善敎と二人、御方の陣より進み出、各中指一筋つゝ拔出し、よつ引て放つ、矢でろ少し遠ければ、中るまでこそなけれども、弓勢の程にや恐れけん、引返してぞ迯散たる今年六月二日二俣の城を攻めらる、城兵打て出、兩陣小川を隔てゝ支へたり、敵の方より朝比奈彌兵衞尉と名乘て出、松平彥九郞が首取て引返す、家長彥九郞と外戚に就て、親しければ當の敵、逃さじと、おつ懸て放つ矢、朝比奈が鎧の後より前へ、ぐつと射貫きしかば、などかは少しも、たまるべき、うつ伏に臥て死す、弟の彌藏是を見て、兄が首取らさじと、押隔たゝりて切て掛る、家長又取て番ひ、しばし固めて放つ矢に、まつ直中を射通されて、是も同じく倒れ死す、敵朝比奈兄弟打るゝを見て、水をさつと渡して、家長を目掛け切て懸る、御方內藤を打たすな、續けやとておめき叫びて馳寄る、敵かなはじとや思ひけん、民家に火を懸けて、烟に紛れて引て行く、明れば三日、城の大將依田右衛門佐信蕃、石川日向守家成が陣に、使者を立、誰人の御矢に候ぞ、御弓勢の程、驚入て候とて、家長がきのふの矢をぞ贈りける、德川殿此由を聞召て、家長を御前にめされ、御鎧の上に召されたる道服、脫がせ玉ひてぞ賜はりける、同き八年五月田中の城の邊にて、麥刈らせて歸り玉ふ時、敵持舟の城より打て出、御跡を襲はんとす、家長宗徒の人々と同しく取て返し、首餘多切て引返す、家長持舟の城際に追詰て、敵二騎突落す、石川が同心板倉源十郞石川三郞左衞門に首取せしといふ、同き十年、甲斐の國に入て、大野の要害を守る、松平玄蕃允淸宗等と北條の勢と戰ひ、首二十七打取る、同十二年小牧の軍に隨ひ、此年蟹江の城を攻め、十三年石川伯耆守數正、岡崎の城を去りし後、石川が寄騎の侍八十人、家長が手に屬せらる、十八年小田原の先陣を承る、今年關東に移玉ひしに、上總國佐貫の城を下し賜ふ、二万石慶長五年の秋、鳥居彥右衛門尉元忠と同じく、伏見の城に留る、上方の軍勢、寄すると聞て、二男小一郞を倶して西城にぞ籠りける、八月朔日城中に返り忠の者有て、本城忽に燒出、猛火殿屋に燃上る、元忠內藤と一所に成らんとて、西城の大門にて、家長に打向ひ、本城既にかくの如し、猛火の中に燒死んより、わどのと一所に戰て討死せんと思ふは如何にと云ひければ、家長いや〱、わ殿は本城を守る大將なり、如何なる事ありとても、かしこにてこそ死すべきなれ、敵隔らぬ其內に、とく〱歸れといひしかば、元忠爰より取て返し、筑紫勢と思ふさまに戰て、本城に討死す、家長大門を押開き、矢束解て押亂し、近づく敵を待かけて、差詰め引つめ、散〱に射る、死生は知らず矢庭に射落さるゝ者少からず、我身も矢疵負ひ、手の軍兵も多く討る、家長安藤治右衞門に向て、家長が自害せんほど、わどの小一郞と同じく敵防ぎて玉ふべしといひ置て、城中に取て返し、鐘樓の中に坐して、文一通書て、原田といふ郞等を呼び、汝いかにもして、敵にまぎれ出、關東に下り、此文を殿に奉り、左馬助にも我が最期のやうを能く語れ、家長何とか死したりといはれん事口惜し、汝もし遁れ出たらんには、最期の供して死せんより、忠功は百倍すべし、とく火懸けよとて、腹かき切て死す、二男小一郞生年十六歲、安藤と共に切て出る事七八度、敵の多勢を追ひ拂ひ、十六か所まで手負ひぬ、父と一所に自害せんと引返すに、猛火天に燃上り、黑煙地に渦卷きて、行方更に見えざれば、腹切て、炎の中に飛入てけり、原田終に敵の中に紛れ出て、關東に下りて、家長が文を奉り、事のやう委敷申ければ、家長父子が最期の躰、神妙なりと感じ玉ふ、慶元通鑑に出つ、家長の戰死の事、世に傳ふる事希なる故に、こゝにしるす、嫡子左馬助政長生年十六歲、長湫の時父家長と共に、多くの敵を射殺し、太刀打に成て、敵の首取て獻る、天正十七年三月十五日叙爵し、慶長五年東西の軍起りし時、政長は宇都宮の御陣にあり、關が原の戰にも、猶宇都宮に留めらる、此年父家長が遺領を賜り、同七年十一月廿二日新恩の地加へられ、一万石大坂の軍には關東に留めらる、元和八年奧州岩城の城に移りて、所領の地加へ賜り、二万五千石を加らる、寛永九年十二月廿八日從四位下に叙し、同十一年十一月十七日六十七歲にして卒す、嫡子帶刀忠興は慶長十年四月十六日叙爵す、大坂の軍に父子關東に留めらる、忠興窃かに馳上りて、本多佐渡守正信に附て其由を申す、井上主計頭正就が手に屬せらる、明れば元和元年三月廿五日、父が所領上總國佐貫の地にして、一万石を給る、大坂の兵、再ひ起りしかば、酒井左衞門尉忠次1が手に屬して、森豐前守と戰ひ、首四つを切て獻る、同八年父が所領を移されし時、忠興又岩城の地を加へ賜て移る、一万石を加られて、合て二万石、父卒して後家を繼く、忠興と稱する事は、思ふに將軍家の御諱字を賜ひしならん、承應元年五月十六日忠興水野出羽守忠職松平丹波守光重と同く仰を承り、三人輪番して、大坂の城を守る事、今年に萬治三年に至れり、世に權の御城代といふ、寛文十年十二月三日に致仕し、延寶二年十月十三日卒しぬ、嫡子左京亮義槪父の讓を受く、義槪が嫡子下野守義英
- 酒井左衞門尉忠次 — 底本のまま。酒井忠次は慶長元年(1596)没。大坂の陣の際の左衛門尉は子の酒井家次