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鳥居

第四中 · 段落 10 · 780521 19コマ Lから

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この家によく出る人物・地名

人物 42 31 18 15 15 11 11 10 10 10 8 7 6 6 4 4 3 3 2 2 2 2 2 2

地名 7 5 5 3 3 3 3 2 2 2 2 2 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1

左京亮平忠政は、伊賀守忠吉が孫、彥右衞門元忠が嫡子なり、紀伊國熊野庄の地頭鳥居法眼が後胤、重氏が男忠氏、父子聊不快の事有て、三河國に下り住む、子孫終に德川殿累代譜代の御家人とは成たるなり、忠氏が十六代の孫伊賀守忠吉、安祥殿に仕へまゐらせ、岡崎殿の代に及び、天文十六年の九月當國渡理の戰に、嫡子源七郞忠宗討死す、此度の戰ひに打取たまひし地を分ちて、忠吉に賞せらる、すなはち渡理の地東條の城降りし時、彼城を守らせらる、斯て岡崎殿失せ玉ひ、德川殿、駿河の國府に渡り玉ひし程、今川義元の下知に依て、岡崎の城には、安部大藏石川右近二人を留守として、駿河遠江の軍兵を込置き伊賀守忠吉松平次郞左衞門重吉して、御領の事を奉行させ、其年貢租稅悉くに押領せらる、弘治二年正月十五日德川殿御年十五にして、岡崎城に入らせ玉ひ、暫く御滯留の事ありし時、忠吉密かに連れ參らせ、おのが家の藏共、押開き、米穀資財一々に見せ參らせ、抑君は今わびしく渡らせ玉ふとも、當國の兵等、多は譜代の御家人たり、頓て彼等を召集らるゝ御事候はんに、御資貧うしては叶ふべからず、されば、其御時の料のため、忠吉年ころ个程までには御支度して候なり、忠吉既に年老て候へば、明日の命、計るべからず、君はめでたう成人あつて、此國に歸り入らせ玉ひ、此物共を分て、御家人等に充行はるべう候と語り慰め參らす、幾程なくて義元討たれ玉ひ、岡崎の城に歸らせ玉ひしに、軍糧資用、事足らせ玉ひしは、忠吉が功これ多し、又德川殿最初御官途の事を以て、公家に申させ給ひし時、如何にも叶ふまじきよし聞えしに、忠吉當家の任例によりて、近衞殿下に申旨ありしにぞ、頓て宣下はなされける、德川殿御官途の事、忠吉がはからひし事は、その時の關白前久公の御書の中に見えたり、彥右衞門元忠は、忠吉が二男なり、德川殿十歲の御時、元忠が十三の年より、駿河國に參らせて、御側に侍らはしむ、御軍始ありし日より、元忠常に御陣に從ひ、一生の高名、又數を知らず、その中、永祿十二年三月遠江國懸塚の湊にて、今川の勢を打破り、元龜元年六月姉川の合戰に先を懸け、同三年十月三方が原の戰に御方敗れて引返す、元忠一勢取て返し散々に戰ひ、信玄の陣より射ける矢に疵かうむる、敵既に濱松の城に進み來る、元忠又城中より切て出て、多くの敵を追拂ふ、天正三年の夏、長篠の合戰に先懸し、同き秋又諏訪原の城攻められし時、元忠仰を蒙り、城の有樣伺ふとて、城中より放つ鐵砲に、左りの股に疵蒙る是より懸け引き自在ならず、同八年の冬高天神の城を攻め、九年の春城落しに、討取所の首十九、此年の夏、駿河國持舟の敵を打破り、同十年二月甲斐國に入給ひし時、駿河國を過玉ふに、敵田中の城より出づ、元忠等仰を承て敵を打破り、此年武田四郞亡び、元忠等仰を承り、古府中に陣を取る、北條左京大夫氏直、武田が國を爭うて、甲斐國に向ふ、元忠三宅惣左衞門康俊1等と、御方わづかに六百餘人の勢を以て、左衞門大夫氏勝が北條一萬餘騎と戰ひ、首五百餘切て、新府の御陣に參らす、氏勝既に負軍しつと見て、氏直以ての外に驚き、美濃守氏規北條して和睦の事を申て、引返す、元忠が功其の賞これ輕かるべからず、汝取り得し所なればとて、甲州郡內の地を下し給ひて當國を鎭めらる、同十二年小牧の軍ありし時、元忠留まりて甲斐を守り、嫡子新太郞忠政を御陣に參らす、忠政此年十九歲にして軍始し、みづから敵の首取つて獻ず、明くれば十三年閏八月、御方の人々、信濃國上田の城を攻めて利を失ふ、元忠は後陣を打たりしが、敵また戶倉城2より出て戰ふ、鳥居が軍すでに危く見ゐたりしが、巨海孫七郞を始として、宗徒の郞從等、敵陣に切て入り、さん〱に戰ひ、究竟の者共廿九人まで打死す、敵も敢て進み得ず、元忠加賀川3を打渡り、吉田の臺に旗を打立て、御方を待つ、御方の勢、爰かしこより馳せ集て、敵を待つ敵もまた川を渡りて戰ふに及ばず、明る日御方筑摩川を渡て、八重原に打上るに、敵また打て出づ、御方の人々進み戰はんと、はやりしを、元忠制して戰はず、十八年五月關白殿北條を討れし時、元忠相模國築井の城を攻破りて、又武藏國岩槻の城に向ひ、上方の軍勢と互ひに先を爭ひ進む、元忠搦手に向て、外城を攻め破る、城の兵、つめの城を破られじと、鋒を揃へて切て出づ、元忠が郞等安藤寺田小田切一宮などいふ、一人當千の兵三十三人、同じ枕に戰死す、疵を蒙る者七十餘人、本多忠勝父子、大手の門を攻破り、大手搦手、一手に成て攻めし程に、城兵こらへず、元忠に就て降人に成て出づ、今年關東へ移らせ玉ひしかば、下總國矢作の庄を給て領す、四万石是より先き關白殿元忠を召して、叙爵せさせんと宣ふ、元忠承て、元より無骨の田舍人、身も亦かたはに相成て候へば、殿下に出仕すべき事叶べからず、あはれ御免を蒙るべしと辭し申す、其後又關白殿、元忠が嫡子新太郞忠政を以て、羽柴下總守雄利が女に配させて、其養子となし、召仕るべしとありしにも愚息を以て、下總守が女に配せられんには、其仰に隨ひ候べし、殿下に召仕るべきの條は、御免を蒙り候べし、元忠が曩祖以來德川譜代相傳の家從の者に候へば、子孫に相傳て他家に奉公仕るべき者に候はずと申、秀吉鳥居が申所、其謂ありとて、雄利が女を以て、新太郞が妻と成さる、初め元忠が若き時、德川殿御筆を染られて、其戰功を賞せらるべき由を仰られしに、君既に某が勞を知り給へり、某又いづれの人に向て、御感狀を證として、其功に誇り候べきと申て辭し申しけり、慶長五年六月十七日、德川殿上杉中納言を御退治あるべきにて、奧に向はせ玉ふ時、元忠を始めて、宗徒の御家人を撰ばれ、伏見の城に留めらる、かゝる所に上方また一時に兵起て、秀賴の御使、伏見の城に來り、其城速に開き渡すべき由を下知す、元忠其由を聞て、德川殿の御家人等、此城に殘り留りし事、かゝらん時の料に侍る、參らする事叶ふべからず、猶も參らせよと候はんには、只攻め破てこそ取り玉ふべけれと答へて、城下の人家焚拂て、寄來る敵を待つ、元忠人々を本城に集て、多からぬ御方、爰かしこ助け合はん事叶ふべからず、只各が固めたらん所を能く防きて、他の勢を賴み玉ふべからず、今生の見參、唯今を限りとす、いざ最期の名殘惜まんとて、酒宴してこそ遊びけれ、斯て七月晦日の夜より、上方の軍勢都合九万三千七百人、城の四面に押寄せ、城内には思ひ切たる究竟の兵、籠りたれば、容易う落つべしとも見えず、明れば八月朔日、城中忽に返忠の者出來て、本城に火かゝり、敵こゝかしこに入る、元忠が手のもの百三十七人戰死し、殘る所僅に四十七八人、家子郞從、はや御自害あるべしと勸む、元忠あざ笑て、いや〱思ふ子細あり、自害はすべからず、かけ引き自在ならねども、いでさらば、最期の軍して、汝等に見せんずるぞとて、城中より切て出で、思ふ樣に戰ひ、年積て六十二歲、秀賴の足輕大將雜賀孫市重次4が爲に討れけり、大坂の奉行等、物始よしと悅び、大將の首なればとて、鳥居が首をば京橋口に懸く、爰に都の商人に佐野四郞右衞門といふ者、元忠が許に往來し、年來の情け深かりしかば、窃かに彼首盜取て、知恩院の內なる長源院にて葬りけり、子息新太郞忠政久五郞成次等は、宇都宮の御陣に侍ひしを、忠政をば此所に留めて景勝が兵を防かせられ、成次をば上方の御陣に召具せらる、東西盡く平きしに至て、忠政父が遺領を給ひ、四万石叙爵して、左京亮になされ、同七年多くの地を附けて、奧州岩城の城を給る、十万石斯て忠政その父の爲に、一寺を新恩の地に建立して、長源寺と號す、是は元忠が法名に取れりといふ、德川殿、元忠が事忘るべからずと宣ひて、香花の地を寄附せらる、御朱印をなされて、百石の地を附せらる、其後又上遠野竹貫の地を加へ玉ふ、二万石を加へて賜り都て十二万石あり、大坂前後の戰に、當家譜代の大名には、忠政獨り關東に留められ、若君を守護しまゐらせ、宇都宮會津の軍勢、彼の下知に隨ふべきよし、御敎書をなされたり、元和八年陸奧出羽等の守護として、出羽の國最上の城に移さる、二十四万石〇此時酒井宮內少輔5、戶澤右京亮、松平丹後守等、奧羽の地に移さる、これは皆忠政が親族たるが故なり、一說に、寛永三年羽州寒河江二万石の地を加賜て、凡廿四万石を領すと云されば、始は廿二万石を給りしにや、寛永三年從四位下にあげられ、五年九月五日六十三歲にして卒す、
  1. — 底本のまま。天正10年黒駒合戦で元忠とともに戦った三宅氏は通説では三宅惣右衛門康貞。未確認
  2. — 底本のまま。天正13年上田合戦の該当する城は通説では戸石城(砥石城)
  3. — 底本のまま。天正13年上田合戦の川は通説では神川
  4. — 底本のまま。伏見城で元忠を討取った人物は通説では鈴木孫三郎重朝(雑賀孫市)
  5. — 底本のまま。元和8年出羽庄内へ移った酒井忠勝の官名は通説では宮内大輔
むかし忠政が父元忠を打たりし雜賀孫市重次は其後水戶中納言家にぞ侍らひげる、ある時、重次中だちをもて、忠政が許へ云ひ送りけるは、重次むかし元忠の御最期に參りあひ其時の御物具を家に傳へ訖んぬ、先考の御形見に御覽せんために返し參らせたくこそ存ずれといふ、忠政大きに悅び、なからん父が形見、これに過べからず、給て一目見候ばやと答ふ、重次みづから携て、彼館に向ふ、忠政門外に出迎て、重次を奧の居間へ請ず、亡父に再ひ對面の心地し侍るとて、淚を流し、ありし甲胃太刀、押板の上にかきすゑて、是を拜す、斯て今日重次を饗せしやう、誠に善盡し美盡しけり、明日重次がもとに使者を立て、昨日の見參を禮謝す、また重次が御芳志に依て、父が最期に帶せし物具、再ひ見て侍る事、返す返すも悅び候ひぬ忠政が家に傳へし、父が形見に見るべき者猶少からず、見苦うは候へども、此物具重次の御家に留て、御名譽と共に、御子孫に傳へられん事、弓矢取ての道に候、能き御遺誠にもや候べきとて、甲胃太刀刀悉く返しぬ、夫より後、每年の冬、綿厚く入たる衣四五領、使者にて持たせ、遙々と常陸國に送り遣し、音信を通ずる事、忠政一期の程、終に怠らず、水戶殿此由を聞召大に感じ玉ひ、年毎に忠政が使者の來るべき期に臨ては、必す道梁をも修理せさせ、重次にも、客の、まうけすべき魚鳥やうのもの給ひけり、何れも〱年々に止む事なき事に候ひけるよし、鳥居が家の古き侍の申せしを承りぬ、
又世に傳る所、石田が捕はれし時、忠政がためには、父の敵なりとて、忠政に預け下さる、三成いたはる事ありしに、忠政よきに勞り、小袖したゝめ着せ、藥餌等おこたらず、三日を過てのち、三成を預げ下さるゝ1事、領掌既に畢んぬ、抑父にて候ふ元忠、君の御爲に一命を奉りし上は、三成が事、强ちに、父が讎とも申すべからず、同しくは返し奉るべしと申ければ、年若き者心付の程、神妙なりと御感ありしが、此後忠政頻りに御恩加へられ大名とは成されし云ふ此說誤りあり三成を預け給ひしは元忠が二男土佐守成次、其頃は久五郞と申せしに預けられしを、斯は申けるなり、此時忠政は宇都宮に留められ、上方へはまゐらず、其嫡子左京亮忠恒、二男戶澤越中守某、戶澤右京亮政盛伯母聟にて子なけれは、養子とせしなり、三男主膳正忠春、左京亮忠恒父に繼く、身多病にして、其家繼くべき子とてもなく、寛永十三年に卒しけれは、家絕えぬ、忠恒子なく、舍弟忠春尙幼なければ、戶澤が養子となせし越中守を召歸して、家讓らんと云ひし故に、家絕えしともいふ、又鳥居が家の古き士の申せしは、忠恒子なかりしかば、弟の忠春して家繼がせんと思ふ、忠春が母は、父の妾なりけれど、忠恒わが母既に失せ玉ひぬ、忠春が母は我が爲にも母なりとて、常に仕ふること實の母の如し、然るにこの母さるかしましき人にて、忠恒が上に申して、忠春を世嗣に定むる事、遲し〱と待わびて、天德寺に走り入り住持の僧を賴みて、此よし將軍家に訴へんとす、忠恒大に驚き、みづから彼寺に趣き、色々に云ひ宥め、ゐて歸る、さすが面に現れて怨む色はなけれども、心のうちには情なき事とや思ひけん、此後は、我が世つき定めんともせず、家の老ども、此事を勸む、我に子なし、忠春よつぎたらん事勿論なり、君我が父祖の忠を思召さば、たとひ此由を望み申さずとも、我家絕させ玉ふ事有べからず、忠恒が身の病ありて、出て仕ふる事だになくて、いかに憚りなく、我後の事まで望み申べきといひけり、終には病愈る事なくて卒す、將軍家鳥居が累代の功を思召れて、忠春を世嗣として、所領の地元の如く賜るへしと仰せられしに、井伊掃部頭直孝、强ちに止め申けるは、彼が父祖累代の功を思召されば、忠春が奉公の勞に隨て、此後は如何程の御恩をも賜るべし、兄忠恒が世嗣となさん事は然るべからず、そのゆゑは、忠恒身を終るまで、出て仕ふる事もなきだにあるを、父祖の功を恃み世嗣の事をも望み請申さゞる條、憲法を背きて、上をなみし奉るに似たり、是は已が身の不孝なる事を顧みず、曾て繼母を恨るが故に、終に弟ある事を御聞にも達せず、彼れといひ、是れといひ、斯の如き輩は、懲されずんば、向後不忠不孝の御家人等、何を以て戒めんやと申ければ、忠恒が家絕たりき、○又掃部頭が斯く强ちに止め申せし事は、舊き恨ありての故なりけり、忠政が娘は、掃部頭が兄の兵部少輔直之が妻なりき、直之天性愚がなる2人なりしかば、或とき戯れに刀をぬき、妻の面に疵を付けたり、忠政大に怒て、直之がおろかなるは、天下の人知れる所なれば、日比は、とてもかくてもありなん、かゝる仕業こそ安からねと、彼妻を奪ひ返へす、直之は如何なる事とも思はざりしかど、弟の直孝憤りて、又取返りさん3とせしに、忠政是を返へさず、此事以ての外の騷きとなる、大相國家大に驚き思召す、井伊鳥居の兩家は、殊に當時の重臣なれば、忝けなくも、色々に和け仰せ下さるれども、忠政申す旨ありて、敢て仰にも隨はず、此上はとて、事止みぬ、是よりして、兩家互に不快なりしが、今此時に至て、恨を報ひられたりとなり、按ずるに、直孝はさしも當代の名臣なり、如何で私の舊き恨を以て、公儀をば廢すべき、直孝が止め申旨、ことわりなくば、將軍家また用ゐさせ玉ふまじ直孝の斯く世の疑ひ請けしは、不幸とやいふべき、又さもありしも知られず
  1. — 底本のまま。「預け」の濁点の誤植の可能性がある
  2. — 底本のまま。「愚かなる」の濁点の誤植の可能性がある
  3. — 底本のまま。「取返さん」に「り」が余分に入った底本誤植の可能性
忠春兄の家の絕えたるにつけて、其母を深く恨みしは、さしも左京亮殿は孝行におはしませしに、なんぞ我母の濫かはしく、筋なき事を仕出し給ひし、されば身の終り玉ふまで、御恨深かりしも、ひがことにはおはさず、忠恆我が心を知り玉へば、さこそは思ひ玉はねども、世の人は忠春此事母にも訴へければ、女心にて斯くはありけんなど、思れん事の耻しさよ、怨めしき母の御心やとて、其事ありし比より母の許には、まゐらず、母がいまはの時にも、深く歎き悲めども、終に對面には及ばざりしと聞えき、
寛文三年八月朔日、大坂の城守る番に上りて、いまだ城には入らで、旅館に有しが、召仕ふ醫師のために弑せられて死す、四十歲とぞ聞えし、祖父元忠が伏見の城守りて討死したりし月も日も、けふにて、又元忠が首盗出して葬たりし、都の商人佐野が子も、今日忠春迎んとて、此所に來り、彼の醫師が忠春を刺す所を押し隔つるとて、痛手負うて死したりけるぞ不思議なる、
はじめ、忠政かの四郞右衞門男が志を深く悅び、所領くれん、士になさんといひしかど、御恩の程は有難し、去ながら、我等もと商人なり、知らぬ弓矢の道にたつさはり、恥がましき義も侍らば、我が身の事はさて置きぬ、君を人の嘲り申さん事、願ふ所にあらず、只此儘にて候べしといひしなり、此度其子又手負て死せしが、子なかりしかば、弟の僧にてあるを還俗させ、家繼せんといひしかど、此年まで出家して、今更還俗せん事も然るべからずとて、僧にて終りけると聞えき、されど如何に續がせけん、佐野が家、今に絕えずと承る、
土佐守平成次は、彥右衞門元忠が二男、若き時より將軍家に仕へ奉る、關が原の御時、山道の御供し、此時石田三成を預け給はりし事、忠政が傳に見ゆ、大坂前後の軍に、先陣を給り、首切る事二百八、甲斐國都留の郡を領して、三万八千石餘駿河大納言家に附られたり、其嫡子淡路守成行が時、駿河殿の御事に依て、出羽國最上郡に流されて、從弟の左京亮忠恒に預られけり、
駿河殿常の御行ひ、あら〱しくまし〱、大相國家の御心にも叶はせ給はぬ御事、多かりしかば、土佐守成次、日夜に心を苦しめ、或時は色を和らけ敎へ導き參らする事もあり、又ある時は顏を犯して諫め爭ひ奉る事もあり、寛永二年正月十一日靑山大藏大輔幸成、大相國家の御使として、駿河殿の御館に行向ひ、駿河遠江を賜ひ、本領甲斐を合せて三箇國を領し玉ふべき旨を述べしに、駿河殿悅せ玉ふ御氣色もなく、又答へさせ玉ふ旨もなし、幸成は事がら惡しとや思ひけん、成次が方に向ひ、大國二つ參せらるゝのみにあらず、甲斐の國をも其儘に合せ領し玉ふべきとの事、返す〱も、めで度御事に候と賀し申ければ、殿忽に御氣色損じ、やあ大藏大輔、甲斐國元の儘に領する事、忠長が分に過ぬと思ふや、たま〱天下の主の子弟と生れたらん身の、是程の國領せん事、何程の事あらんと、以の外に怒り玉ふを、成次よきに申直して、幸成をば返したり、其後御前に參りて、抑本朝は小國なれば、五畿七道を合せて、僅に六十餘州に分たれたり、君は相國の御子、將軍の御弟にてましませばこそ、それが廿分の一をば參らせたんまれ、なんぽう勇々しき御果報にては、ましまさずや、夫に斯く少しも悅せ玉はぬ御事は、如何なる御心にて、わたらせ給ひ候ぞや、其上既に人臣に列ならせ玉ふ上は、相國の御家人は、皆御同僚にてこそ候へ、殊に大藏大輔は、天下の政務を掌つて、時の重臣にて侍る人の、君父の御使に參りたらんを、かく恥がましく仰候ひし事、且は不忠不孝、且は無禮不義とも申べしと、なく〱諫め參らせ、頓て御供して、悅申の御出仕をなさせ參らせたり、同き八年成次甲斐國にて病にふす、あした夕へを期し難しと聞ゆ、大相國家より大納言殿に御暇を賜り、駿河國に入部あるべしと仰らる、殿殊の外に悅び玉ひ、成次が存命たらん內に、此事聞せて悅せよとて、近く召仕るゝ人を御使として、早馬打たせて遣はさる、成次御使と聞て、助けおこされて對面し、御使の旨を聞もあへず、頻りに涙に咽ぶを、御使の人、成次が死すべき程遠からぬかは、氣勞れ心よわりて、嬉しきにもかく泣くにこそと、哀れに成て、是も同しく涙を流して、成次きかば悅ひなん、さらば醫療の助けとも成ぬべしとて、參れとの仰を承て候ひき、されば斯く悅びに堪へ給はぬを見るにも、上も下も深き御契にとこそ存ずれと、泣く〱、申ければ、成次苦しげなる息をつき、御使に向ひ、年老い身病で、迚も死すべき此身の、つれなく今日迄永らへて、かゝる口惜き事を承る事、返〱も不幸なり、君は此度御暇賜て御國に趣せ玉ふ事を、よに嬉しとや思召す、其御心故にこそ、かゝる御身とはなり玉ひけれ、大相國旣に御齡も傾かせ玉ひ、此日比は、御身もいたはらせ玉ふ所、少からず、唯二人まします御子にて、將軍家の御固めなれば、片時も御側を離れさせ玉ふまじき御事を、今何の故にか、斯く遠ざけさせ玉ふべき、一度御傍を離れさせ玉ひて後、再ひ大相國へも、將軍家へも、御對面の事、叶はせたまふべからず、成次生てだに世に候はゞ、如何にも申直す事も候ひなん、成次斯なり侍れば、其事また叶ふべからず、成次又かくなり侍らずば、如何で御情なく、遠ざけさせ玉ふべき、此上は一時も早う命終りたくこそ存ずれとて、打臥したりしが、頓て空敷なりにけり、其明る春、大相國家かくれさせ玉ひ、其秋駿河殿罪蒙らせ給ひたり、成次常に諫め參らせしは、如何なる事をや申けん、外樣の人知るべき事にもあらず、此二つは、皆人聞ける事なれば、古き人の物語を承り候ひき、