左京亮平忠政は、伊賀守忠吉が孫、彥右衞門元忠が嫡子なり、紀伊國熊野庄の地頭鳥居法眼が後胤、重氏が男忠氏、父子聊不快の事有て、三河國に下り住む、子孫終に德川殿累代譜代の御家人とは成たるなり、忠氏が十六代の孫伊賀守忠吉、安祥殿に仕へまゐらせ、岡崎殿の代に及び、天文十六年の九月當國渡理の戰に、嫡子源七郞忠宗討死す、此度の戰ひに打取たまひし地を分ちて、忠吉に賞せらる、すなはち渡理の地東條の城降りし時、彼城を守らせらる、斯て岡崎殿失せ玉ひ、德川殿、駿河の國府に渡り玉ひし程、今川義元の下知に依て、岡崎の城には、安部大藏石川右近二人を留守として、駿河遠江の軍兵を込置き伊賀守忠吉松平次郞左衞門重吉して、御領の事を奉行させ、其年貢租稅悉くに押領せらる、弘治二年正月十五日德川殿御年十五にして、岡崎城に入らせ玉ひ、暫く御滯留の事ありし時、忠吉密かに連れ參らせ、おのが家の藏共、押開き、米穀資財一々に見せ參らせ、抑君は今わびしく渡らせ玉ふとも、當國の兵等、多は譜代の御家人たり、頓て彼等を召集らるゝ御事候はんに、御資貧うしては叶ふべからず、されば、其御時の料のため、忠吉年ころ个程までには御支度して候なり、忠吉既に年老て候へば、明日の命、計るべからず、君はめでたう成人あつて、此國に歸り入らせ玉ひ、此物共を分て、御家人等に充行はるべう候と語り慰め參らす、幾程なくて義元討たれ玉ひ、岡崎の城に歸らせ玉ひしに、軍糧資用、事足らせ玉ひしは、忠吉が功これ多し、又德川殿最初御官途の事を以て、公家に申させ給ひし時、如何にも叶ふまじきよし聞えしに、忠吉當家の任例によりて、近衞殿下に申旨ありしにぞ、頓て宣下はなされける、德川殿御官途の事、忠吉がはからひし事は、その時の關白前久公の御書の中に見えたり、彥右衞門元忠は、忠吉が二男なり、德川殿十歲の御時、元忠が十三の年より、駿河國に參らせて、御側に侍らはしむ、御軍始ありし日より、元忠常に御陣に從ひ、一生の高名、又數を知らず、その中、永祿十二年三月遠江國懸塚の湊にて、今川の勢を打破り、元龜元年六月姉川の合戰に先を懸け、同三年十月三方が原の戰に御方敗れて引返す、元忠一勢取て返し散々に戰ひ、信玄の陣より射ける矢に疵かうむる、敵既に濱松の城に進み來る、元忠又城中より切て出て、多くの敵を追拂ふ、天正三年の夏、長篠の合戰に先懸し、同き秋又諏訪原の城攻められし時、元忠仰を蒙り、城の有樣伺ふとて、城中より放つ鐵砲に、左りの股に疵蒙る是より懸け引き自在ならず、同八年の冬高天神の城を攻め、九年の春城落しに、討取所の首十九、此年の夏、駿河國持舟の敵を打破り、同十年二月甲斐國に入給ひし時、駿河國を過玉ふに、敵田中の城より出づ、元忠等仰を承て敵を打破り、此年武田四郞亡び、元忠等仰を承り、古府中に陣を取る、北條左京大夫氏直、武田が國を爭うて、甲斐國に向ふ、元忠三宅惣左衞門康俊1等と、御方わづかに六百餘人の勢を以て、左衞門大夫氏勝が北條一萬餘騎と戰ひ、首五百餘切て、新府の御陣に參らす、氏勝既に負軍しつと見て、氏直以ての外に驚き、美濃守氏規北條して和睦の事を申て、引返す、元忠が功其の賞これ輕かるべからず、汝取り得し所なればとて、甲州郡內の地を下し給ひて當國を鎭めらる、同十二年小牧の軍ありし時、元忠留まりて甲斐を守り、嫡子新太郞忠政を御陣に參らす、忠政此年十九歲にして軍始し、みづから敵の首取つて獻ず、明くれば十三年閏八月、御方の人々、信濃國上田の城を攻めて利を失ふ、元忠は後陣を打たりしが、敵また戶倉城2より出て戰ふ、鳥居が軍すでに危く見ゐたりしが、巨海孫七郞を始として、宗徒の郞從等、敵陣に切て入り、さん〱に戰ひ、究竟の者共廿九人まで打死す、敵も敢て進み得ず、元忠加賀川3を打渡り、吉田の臺に旗を打立て、御方を待つ、御方の勢、爰かしこより馳せ集て、敵を待つ敵もまた川を渡りて戰ふに及ばず、明る日御方筑摩川を渡て、八重原に打上るに、敵また打て出づ、御方の人々進み戰はんと、はやりしを、元忠制して戰はず、十八年五月關白殿北條を討れし時、元忠相模國築井の城を攻破りて、又武藏國岩槻の城に向ひ、上方の軍勢と互ひに先を爭ひ進む、元忠搦手に向て、外城を攻め破る、城の兵、つめの城を破られじと、鋒を揃へて切て出づ、元忠が郞等安藤寺田小田切一宮などいふ、一人當千の兵三十三人、同じ枕に戰死す、疵を蒙る者七十餘人、本多忠勝父子、大手の門を攻破り、大手搦手、一手に成て攻めし程に、城兵こらへず、元忠に就て降人に成て出づ、今年關東へ移らせ玉ひしかば、下總國矢作の庄を給て領す、四万石是より先き關白殿元忠を召して、叙爵せさせんと宣ふ、元忠承て、元より無骨の田舍人、身も亦かたはに相成て候へば、殿下に出仕すべき事叶べからず、あはれ御免を蒙るべしと辭し申す、其後又關白殿、元忠が嫡子新太郞忠政を以て、羽柴下總守雄利が女に配させて、其養子となし、召仕るべしとありしにも愚息を以て、下總守が女に配せられんには、其仰に隨ひ候べし、殿下に召仕るべきの條は、御免を蒙り候べし、元忠が曩祖以來德川譜代相傳の家從の者に候へば、子孫に相傳て他家に奉公仕るべき者に候はずと申、秀吉鳥居が申所、其謂ありとて、雄利が女を以て、新太郞が妻と成さる、初め元忠が若き時、德川殿御筆を染られて、其戰功を賞せらるべき由を仰られしに、君既に某が勞を知り給へり、某又いづれの人に向て、御感狀を證として、其功に誇り候べきと申て辭し申しけり、慶長五年六月十七日、德川殿上杉中納言を御退治あるべきにて、奧に向はせ玉ふ時、元忠を始めて、宗徒の御家人を撰ばれ、伏見の城に留めらる、かゝる所に上方また一時に兵起て、秀賴の御使、伏見の城に來り、其城速に開き渡すべき由を下知す、元忠其由を聞て、德川殿の御家人等、此城に殘り留りし事、かゝらん時の料に侍る、參らする事叶ふべからず、猶も參らせよと候はんには、只攻め破てこそ取り玉ふべけれと答へて、城下の人家焚拂て、寄來る敵を待つ、元忠人々を本城に集て、多からぬ御方、爰かしこ助け合はん事叶ふべからず、只各が固めたらん所を能く防きて、他の勢を賴み玉ふべからず、今生の見參、唯今を限りとす、いざ最期の名殘惜まんとて、酒宴してこそ遊びけれ、斯て七月晦日の夜より、上方の軍勢都合九万三千七百人、城の四面に押寄せ、城内には思ひ切たる究竟の兵、籠りたれば、容易う落つべしとも見えず、明れば八月朔日、城中忽に返忠の者出來て、本城に火かゝり、敵こゝかしこに入る、元忠が手のもの百三十七人戰死し、殘る所僅に四十七八人、家子郞從、はや御自害あるべしと勸む、元忠あざ笑て、いや〱思ふ子細あり、自害はすべからず、かけ引き自在ならねども、いでさらば、最期の軍して、汝等に見せんずるぞとて、城中より切て出で、思ふ樣に戰ひ、年積て六十二歲、秀賴の足輕大將雜賀孫市重次4が爲に討れけり、大坂の奉行等、物始よしと悅び、大將の首なればとて、鳥居が首をば京橋口に懸く、爰に都の商人に佐野四郞右衞門といふ者、元忠が許に往來し、年來の情け深かりしかば、窃かに彼首盜取て、知恩院の內なる長源院にて葬りけり、子息新太郞忠政久五郞成次等は、宇都宮の御陣に侍ひしを、忠政をば此所に留めて景勝が兵を防かせられ、成次をば上方の御陣に召具せらる、東西盡く平きしに至て、忠政父が遺領を給ひ、四万石叙爵して、左京亮になされ、同七年多くの地を附けて、奧州岩城の城を給る、十万石斯て忠政その父の爲に、一寺を新恩の地に建立して、長源寺と號す、是は元忠が法名に取れりといふ、德川殿、元忠が事忘るべからずと宣ひて、香花の地を寄附せらる、御朱印をなされて、百石の地を附せらる、其後又上遠野竹貫の地を加へ玉ふ、二万石を加へて賜り都て十二万石あり、大坂前後の戰に、當家譜代の大名には、忠政獨り關東に留められ、若君を守護しまゐらせ、宇都宮會津の軍勢、彼の下知に隨ふべきよし、御敎書をなされたり、元和八年陸奧出羽等の守護として、出羽の國最上の城に移さる、二十四万石〇此時酒井宮內少輔5、戶澤右京亮、松平丹後守等、奧羽の地に移さる、これは皆忠政が親族たるが故なり、一說に、寛永三年羽州寒河江二万石の地を加賜て、凡廿四万石を領すと云されば、始は廿二万石を給りしにや、寛永三年從四位下にあげられ、五年九月五日六十三歲にして卒す、
- 三宅惣左衞門康俊 — 지면 그대로. 天正10年 黒駒 합전에서 元忠와 함께 싸운 三宅氏는 통설 三宅惣右衛門康貞. 미확인
- 戶倉城 — 지면 그대로. 天正13年 上田 합전의 해당 성은 통설 戸石城(砥石城)
- 加賀川 — 지면 그대로. 天正13年 上田 합전의 강은 통설 神川
- 雜賀孫市重次 — 지면 그대로. 伏見城에서 元忠를 討取한 인물은 통설 鈴木孫三郎重朝(雑賀孫市)
- 酒井宮內少輔 — 지면 그대로. 元和8年 出羽 庄内로 옮긴 酒井忠勝의 관명은 통설 宮内大輔