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가문 목록 › 第四中 › f030

內藤

第四中 · 단락 5 · 780521 30코마 L부터

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이 가문에 자주 나오는 인물·지명

인물 16 8 6 4 3 3 2 2 2 2 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1

지명 3 2 2 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1

信成が母は、岡崎贈大納言家の寵女にて懷妊せしを、嶋田久左衞門景信に給ひ、三月を過て信成をうむ、是れ天正十四年1の事なり、清長岡崎殿の御子と知てければ、むつきの內より取て養ひ、弘治三年信成十三才の時、德川殿に見參させければ、御身近く召仕れ、三左衞門信成と召されき、正しく德川殿同父異母の御弟なりと云ふ、一說に、三河國矢作の住人嶋田平藏、德川殿と戰て打る、嫡子九郞左衞門、二男某と共に城を逃れ出づ、三男は民家に養はれ居たりしを家長とりて子とし、後に政長を設けしかば、別に所領を給ひしといふ、○按するに、前說は淸長が子とし、後說は淸長の男家長が子とす、其家の系圖を見るに、淸長が子たり、又家長が德川殿に討れし人の子孫を御身近く參らせしといふも、覺束なし、前說に從ふべしや、
  1. — 지면 그대로. 弘治3年에 13세라면 天文14年 출생으로, f030.p005 할주도 「天文十四年」. 「天文」의 저본 오기로 보임
信成若かりし時、或人の馬の、勝れて力あつて、あたりを拂ひ、人を喰ふが、放れ出て走り來り、信成に行あひ、人の如くに立て、信成を無手と抱きて、ひたぐひに喰ふ、信成さるしたゝか者にて、いかにも組伏てくれんと思ひけれども、叶ふべからず、旣に喰殺されんとする時に至りて是非なく差添刀引拔き、馬の喉ぶえかき切て捨つ、信成辛き命、生きけれど、馬にあうて、力及ばで切たるを口をしき事に思ひ、且は人の馬、殺しければ、腹切んとするを、人ゝ押止む、德川殿聞召し尋常の馬牛の頭、斬つたるなどゝは品大きに變れり、何か苦しき、自害に及ぶべからずと、制し給ひしを、隣國の人、傳へ聞て、御裁斷の程を感ぜしといふ事、甲陽軍鑑に出づ
永祿六年一向專修の門徒等、悉く背き參らせし時、信成一族等、共に御方にあつて、爰かしこに戰ひ、長篠の合戰に、大久保兄弟と同しく進て、敵の多勢を打破る、高天神の城、落ちぬべう見えし時、打漏されたる敵、一定國安にや落行かん、汝等かしこに行向ふべしと仰ければ、信成菅沼治郞右衞門と同しく、彼處に向て陣をとる、敵案の如く、此所に落來るを出向ひ戰て、首切てまゐらす、小牧の陣に淸洲の本城に止められ、小田原の軍には、伊豆國韮山の城を下す、今年關東に移給ひしかば、此城を信成に賜ふ、一万石關が原の戰には、駿河國沼津の城を守り、一說に關が原にて御脇備なりと不審、軍終て後、美濃國岩村の城を守る、明れば慶長六年の二月駿河國府を賜て移る、十一年、大御所駿河の國府を御座所となさるべきに依て、四月三日近江の長濱に移され、近江美濃飛彈三箇國の役夫差遣し、城築て給はる、五万石十七年七月信成卒す六十四歲、按ずるに、天文十四年に生れたらんには、六十八歲にあらずや、其子紀伊守信政、生年十九歲にて、大番の頭となされ、天正十三年所々の軍に從ひ、關が原の合戰に、石川長門守康通等と佐和山の城を請取、父に繼て後、大坂の兵起りし時、馳向て城を攻め、再ひ兵起しには、西國通路の要害なればとて、尼が崎の城に信政を込めらる、元和五年、大坂の城、修せられて後、信政に仰て、此所を守らせ、畿內山陽山陰南海西海數十州の鎭となされたり、是大坂の御城代始、寛永三年行年五十九歲にて卒す、其子豐前守信照父に繼く、寬永五年陸奧棚倉の城に移る、五万石慶安二年十月廿五日大坂の城を守る、御城代なり、承應元年五月職を辞し、寛文五年正月十九日七十四歲にて卒す、其子攝津守信良父に繼て、豐前守となる、寛文十一年九月廿三日信良が請に依て、舍弟三左衞門某に、新墾田五千石を賜ひしなり、延寶二年十一月十六日致仕す、その子紀伊守信勝1實は石見守信廣が孫伊勢守信充が嫡子、信良が世嗣とす、信廣は、紀伊守信政の二男、豐前守信照の舍弟なり、
  1. — 지면 그대로. 内藤信良의 뒤를 이은 인물은 통설 内藤弌信. 초명 여부 미확인