攝津守安部信盛は、大藏元眞が孫、彌一郞信勝が男なり、元眞が父をば刑部大輔信眞とぞ申ける、父祖代々駿河國の住人にて、今川が家に屬す、上總介氏眞の代に及び、外舅の武田が爲に、駿河國を犯されて、府の城をば岡部次郞右衞門尉正綱、安倍彌一郞信勝をとゝめ守らせ、氏眞遠江國懸川の城に遁る、武田入道信玄、密に元眞が許に使して、御方に參るべき由を云送る、元眞返事にも及はずして、城に籠らんこと叶ふべらず1と、所領安部谷に引籠る、信玄安からぬ事に思ひ、伊川七村の內に廻文して、安部父子討て進らせん者には、其賞請ふに依るべしと下知しければ、田代河內の者共、心替して、安部が許に夜討す、散々に戰て、敵數人を打つ、其隙に郞從等主の妻子引負うて、遠江國に落行く、斯て安部父子德川殿に召れて、彼の夜討せし奴原、速かに追討すべき由、仰下され、御勢三十騎を差副られ、元眞信勝、田代河內の地に馳向ひ、彼の奴原悉く誅戮す、斯て信玄駿河國を攻取て、要害五箇所を搆て、遠江國をも併せんとす、安倍口津渡野村、藁科口水見色、時川根の山王山、遠目の後花澤、遠州金谷の上諏訪の原父子又御勢八十騎を差そへられて、永井善右衞門等を差加へられしと云、彼要害を盡くに攻おとす、此中、諏訪原をば安部谷の金堀共、呼迎へ、堀より第二の城迄をはらせ夜討し火をかけて迯るを追て、首餘多を取て參らす、德川殿御感斜ならず、父子に仰て、遠江國伯耆が塚の要害に歸りて、駿河國の境を守らせらる、頓て八向山の要害に押寄て、攻め落し、進て八向山を守る、敵樽井山に要害かまへしをも、又攻め落して、陣を移す、斯て武田が大將三浦右馬助、樽井山に寄せ來るを、父子戰て打破る、此時御書をなされき、其御書には、天正五年九月十一日としるされたり其後また遠江國光明の城を守りし時、寄手攻あぐみて、信玄みづから2寄來らんとするに、德川殿御後卷あるべしと聞えしかば、寄手頓て引返す、此後元眞年老て、家事を以て信勝に讓り、天正十五年十月十日七十五歲にして死しぬ、信勝父に繼きし後、又甲斐國本巢の要害を攻落し、小牧の御陣には、尾張國平の城を守り、長湫の戰に隨ひ參らせて高名し、蟹江の城を攻られしに、石川伯耆守數正と二人馳向ひ、信勝水の手を取切て攻戰ひ、郞從等餘多討せけれども、城中既に水盡きぬれば、城落ちぬ前田の城を攻玉ひし時に、數正信勝が功を賞せらる、慶長五年正月二日、大坂に在て、信勝四十九歲にて死したり、子息信盛幼なかりしを大坂に召れて、父が跡を繼がせらる、此年奧の上杉を御退治のとき、本多佐渡守正信が手に屬して馳向ふ、其後信盛、將軍家に召仕はれ、慶長十九年御扈從組番頭となる、大坂前後の戰に供奉し、其後御徒頭を兼ね、元和九年大番頭に至り、慶安元年三月七日、若君の御手に附られ、西城に伺候す、組の衆共に附られたり、同き二年十一月廿五日、大坂の城番となされ、所領加へ給ふ、此時一万石を加へ玉ひ、三河國榛原郡3二万二千石を領すといふ、さらば是より先一万二千石を領せしなり、かしこを守る事凡そ十二年、萬治三年の冬、請に依て免るされ、寛文二年三月六日致仕入道し、延寳元年十一月廿七日九十歲にして卒す、其子丹波守信之父に繼て、寛文八年八月十八日、大坂の城番となされ、かしこを守る事延寶五年に至る、其子攝津守信友なり、
- 叶ふべらず — 底本のまま。「叶ふべからず」から「か」が抜けた底本の誤植とみられる
- 信玄みづから — 底本のまま。前の割注の天正5年の記事に続くが、信玄は元亀4年(1573)没。勝頼の誤りか、記事順の誤りとみられる
- 三河國榛原郡 — 底本のまま。三河に榛原郡はない。安部信盛の領地(岡部)は通説では武蔵国榛沢郡