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渡邊

第四中 · 段落 1 · 780521 39コマ Lから

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地名 3 2 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1

丹後守源吉綱は、忠右衛門守綱が孫、忠右衞門重綱が子、德川譜代の御家人なり、守綱初め半藏と申して、永祿四年長澤の城を攻められし時、先懸して小原藤十郞を打取る、明れば五年九月廿九日、赤坂の戰、御方の先陣、忽に利を失ふ、半藏一人取つて返し、戰ふ事凡そ十度、中にも高名の鎗三度に及ひ、御方終に勝軍し、敵の大將板倉彈正、討れ死す、搶半藏と呼れしは、此時よりの事なりけり、此とき首ども御實撿のとき、先陣破れて一方は五六十騎を失ふ、一方は恙なし、是れ半藏一人が力にて、數十人を助けしと仰せ下されき、小坂井兩度の戰ひ、先を懸けて高名し、今年一向專修の門徒等、叛き參らせしに守綱父子また其門徒なれば、同じく針崎に楯籠る、明れば永祿七年正月十七日の戰ひに、其父源五左衞門高綱矢に中りて死しぬ、四十二才なり其後守綱罪免されて召れし日、父の遺領給はりて、程なく又新恩の地を加へらる、父の遺領百貫なり三十貫を加へらる、これ年頃の武勇を賞せられし所なり、その後遠州懸塜、越前の金が崎、近江の姉川、此ほか一言坂、三方が原、田中、天方、大井の城の戰ひ、凡そ一生の高名數ふるに暇あらず、中にも元龜三年十二月廿二日、武田入道信玄、遠江國に發向し、三方が原に至る、德川殿、守綱を召されて、敵のやうを見せらる、守綱先陣の人々に向ひて、敵さすがに多勢なり、今日の戰ひ然るべからずと申止めしに、御方爭ひ進みて、既に戰ふと見えしかば、守綱石川伯耆守康昌が陣に馬を馳て先を懸く此日石川の手の一番鎗、外山小作なり、半藏またこれに次くといふ、手合の戰、御方勝軍しつと見えしかど、守綱が申せし如く、敵の多勢、入替へ〱戰へば、御方終に打負て、散々に成て引かへす、守綱伯耆守康昌と只二騎になつて、大谷の道に懸り、濱松の城に入り、城門をこそ固めけれ敵追すがりて寄せ來る、守綱舍弟半十郞秀綱等と門おし開き打て出て、終に敵を打ち破る、軍散して此度の勸賞に、所領の地加へ賜ふ、濱名豐田二郡にて百貫の地長湫の戰には、足輕の大將を承り、御方の先陣危しと見てければ、御陣に使を參らせて、急ぎ御馬を寄せらるべきにと申し捨て、先陣に馳加り、敵の勢を打破り、逃げ行く敵七騎まで突落し、足輕共に首とらせ、鎗つき折て、太刀をぬき、また一人を切て、御前に參る、守綱、大久保治右衞門と二人仰を蒙りて、此日御方の人々の軍せし剛臆を定めらる、小田原の御陣の時、當家足輕大將二十人の隨一に選ばれ、關東に移り玉ひし時、武藏國松山の地にて所領を賜ふ、三千石の地なり、此時に足輕三十人を增して五十人を屬せらるといふ、九戶名護屋等の御陣に從ひ、奧の上杉追討のとき、足輕の兵百人を屬せらる、此時南蠻の鎧を給はり、足輕五十人を增して、屬せられしといふ、關が原の御陣には海道の御供し、其後新恩の地加へられ、江州坂田郡千石の地なり、また寄騎の侍三十騎の所領を充行はる、遠州榛原の地慶長十五年守綱嫡子半藏重綱と共に、尾張殿に屬せられて、尾張三河の國にて所領の地を加給ひ、三州賀茂郡にて五千石、尾張にて八千石武州江州の所領は元の如く、すべて一万四千石、足輕を屬せらる事元の如し、大坂前後の戰に、守綱尾張殿の先陣し、元和六年四月九日、守綱七十九歲にして、尾張國に死す、丹後守吉綱は重綱第四の男、始め重綱が二男忠七郞忠綱、將軍家に召仕る、重綱所領の內武藏國比企郡の地を以て、忠綱に讓り與ふ、三千石忠綱元和九年七月廿二日、年廿歲にて世を早うす、彼の所領の地を以て、重綱に返し與へる、重綱承て、忠綱が舍弟吉綱に、半之丞と申しき下し給はん事を望しかば、其請ふに任せらる、吉綱十三歲にして、舍兄忠綱が遺領を賜て、將軍家に仕へ奉り、寛永十九年十月、御書院番頭になされ、敍爵し、慶安三年九月、御扈從組の番頭に移る、承應三年七月又御書院番の頭に移り、万治二年留守居職を蒙り、御留守居衆と世にいひしなり、寛文元年十一月八日大坂の城番と成て、所領を加へらる、和泉國姨寺1の地一万三千石を領せり、同き八年六月十九日卒す、六十歲、子息越中守正綱2つぐ、
  1. — 底本のまま。渡辺吉綱の領地は通説では和泉国大鳥郡大庭寺
  2. — 底本のまま(頭注は「マサツナ」と読む)。吉綱の後を継いだ子は通説では渡辺方綱