民部少輔源種綱は、宇多天皇の御裔、近江國の源氏、佐々木源三秀義が孫近江守信綱、始て當國朽木の庄の地頭職に補せられ、末流の子孫朽木とは名乘けり、信綱十代の孫民部少輔植綱が時に當て、亨祿1元年九月、義晴將軍、京都の亂を避けて、近江國に趣き、朽木谷に入らせ給ひしに、植綱おのが館しつらうて御座所となし、好きに仕へ奉りければ、將軍家此土地に御逗留、程を經て御歸洛の後、植綱を賴もしき者に思召し、常に御劍の役に候せしめ、申次七人の其一に選れたり、天文八年六月、將軍御父子また兵亂を避けて、八瀨の里に移らせ玉ひしにも、植綱御供し奉る、同しき十九年義晴將軍、當國穴太の山中に薨し玉ひしにも、植綱御跡の事能く吊ひ奉る、されば治る時に當ては、君臣の禮、植綱が如きもの誠に珍しからず、時の管領職事などいふ人を初めて、諸國の大名高家等、君をも臣をも知らず、たゞ地を爭ひ兵を戰はしめ、己が家たてんとのみ振舞ひし世に、かゝる禮をも節をも盡したる者の、類ひなくこそ聞えけれ、其子宮内大輔貞綱、其子河內守元綱、これ民部少輔種綱が父なりけり、元綱が時、織田上總介殿、三好が亂を鎭めて、義昭將軍を都に歸し入れ奉り、元龜元年の春、越前の國に發向し玉ひしに、近江國にて、淺井心變じけりと聞て、大に驚き、御方の軍勢をも捨でゝ、朽木谷にかゝつて迯け歸り玉ふに、此時信長德川殿の御加勢を乞れしに依て向はせ玉ひしに、德川殿をも捨てゝ逃げかへられしに、御軍以の外に大事に及ひしかど、自から御手をおろされ、敵を打破て御歸ありき、世に德川殿金が崎の退口と申傳へしは此時の御事なり、河内守元綱急ぎ軍兵を催し、御迎の爲に出て向ふ、信長これも又心變じてけりと恐れて進み得ず、松永彈正少弼久秀これを見て、久秀まかり向て元綱が心を引く見候べし、若し心變じたりと見たらんには久秀まづ刺違へて死し候ひなんずとて行向ひ、事の由を述ふ、元綱頓て甲を脫捨て手の軍兵をも退けて、迎へ申ければ、信長是より都へ上り玉ひぬ、
- 亨祿 — 底本のまま。元号「享祿」の誤植の可能性がある