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朽木

第六 · 段落 5 · 780522 76コマ Rから

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この家によく出る人物・地名

人物 8 8 8 7 6 5 4 2 2 2 2 2 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1

地名 4 3 3 2 2 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1

民部少輔源種綱は、宇多天皇の御裔、近江國の源氏、佐々木源三秀義が孫近江守信綱、始て當國朽木の庄の地頭職に補せられ、末流の子孫朽木とは名乘けり、信綱十代の孫民部少輔植綱が時に當て、亨祿1元年九月、義晴將軍、京都の亂を避けて、近江國に趣き、朽木谷に入らせ給ひしに、植綱おのが館しつらうて御座所となし、好きに仕へ奉りければ、將軍家此土地に御逗留、程を經て御歸洛の後、植綱を賴もしき者に思召し、常に御劍の役に候せしめ、申次七人の其一に選れたり、天文八年六月、將軍御父子また兵亂を避けて、八瀨の里に移らせ玉ひしにも、植綱御供し奉る、同しき十九年義晴將軍、當國穴太の山中に薨し玉ひしにも、植綱御跡の事能く吊ひ奉る、されば治る時に當ては、君臣の禮、植綱が如きもの誠に珍しからず、時の管領職事などいふ人を初めて、諸國の大名高家等、君をも臣をも知らず、たゞ地を爭ひ兵を戰はしめ、己が家たてんとのみ振舞ひし世に、かゝる禮をも節をも盡したる者の、類ひなくこそ聞えけれ、其子宮内大輔貞綱、其子河內守元綱、これ民部少輔種綱が父なりけり、元綱が時、織田上總介殿、三好が亂を鎭めて、義昭將軍を都に歸し入れ奉り、元龜元年の春、越前の國に發向し玉ひしに、近江國にて、淺井心變じけりと聞て、大に驚き、御方の軍勢をも捨でゝ、朽木谷にかゝつて迯け歸り玉ふに、此時信長德川殿の御加勢を乞れしに依て向はせ玉ひしに、德川殿をも捨てゝ逃げかへられしに、御軍以の外に大事に及ひしかど、自から御手をおろされ、敵を打破て御歸ありき、世に德川殿金が崎の退口と申傳へしは此時の御事なり、河内守元綱急ぎ軍兵を催し、御迎の爲に出て向ふ、信長これも又心變じてけりと恐れて進み得ず、松永彈正少弼久秀これを見て、久秀まかり向て元綱が心を引く見候べし、若し心變じたりと見たらんには久秀まづ刺違へて死し候ひなんずとて行向ひ、事の由を述ふ、元綱頓て甲を脫捨て手の軍兵をも退けて、迎へ申ければ、信長是より都へ上り玉ひぬ、
  1. — 底本のまま。元号「享祿」の誤植の可能性がある
按するに此のち信長德川殿の御前に、松永を召出し、此老人は日本無雙の男、故將軍家を弑し奉り、主の三好を滅し、また南都の佛殿に火を懸く、松永彈正これなり、よく〱見させ玉へと宣ひしに、德川殿歸らせ玉ひ、近く召仕るゝ人に、松永が事、信長の宣ふまでもなし、世の知れる所なり、さりながら、彼は一度信長の爲に命を捨てんとしたりし者なるをと、ばかり仰せられしは、此朽木谷にての松永がふるまひを仰せられしとなり、
かくて信長に從ひ、秀吉に仕へて、慶長の初に及ひて、關が原の軍起りし時、德川殿に心を寄せしかども、關より西悉く御敵となりしかば、力なく軍勢の催促に從ひ、北國に向ふ、志の程をば、かねてより關東に告け申けり、九月十四日、松尾の山の麓に陣取て、明る十五日、關が原の戰ひ始ると見えしに、松尾の人々と同しく、敵に切て入る前後の敵を防きかね上方の軍忽に敗れてけり、此後德川殿に仕へ、三人の男子、皆召仕はる、大坂の兵起し時、元綱父子、永井右近大夫直勝が手に屬す、再ひ兵起りし時、仰を承て久良伽利を守らせらる、大御所かくれ玉ひし時に入道して牧齋と號し、年八十四歲にして寛永九年に終りけり、望み請ひし如くに、所領子息等に分ち賜ふ、嫡子兵部少輔宣綱、二男與五郞友綱、三男民部少輔種綱なり、種綱十四才の時、元和四年九月十一日、左大臣家に召仕れ、同九年八月四日叙爵し、寛永十年正月十一日、御書院番頭になされ、同き十二年寄騎同心を屬られ、十三年十月、御簇本の事を司る、
同十一月御小性組番頭を兼ぬ、慶安二年二月十八日、常陸國土浦の城を賜ひ五千石を加賜ひて三万石を領せしなり、前職を免されて、御奏者の事を承り、兼て御鷹の事を掌る、萬治三年十二月十三日、五十七歲にして卒す、嫡子伊豫守秀綱家を繼く、二万七千石二男和泉守則綱、所領分ち賜ふ、三千石伊豫守秀綱、寛文七年八月十五日、御奏者番の事を奉り、同き九年六月八日、丹波國福智山の城に移る、三万二千石