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柳生

第六 · 段落 5 · 780522 78コマ Rから

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但馬守菅原宗矩は、聖廟の御末、故但馬守宗嚴が二男なり、昔し宇治の攝政賴通公、春日の社に、大和の國四箇の庄を寄せらる、大膳亮菅原永家、小柳生の庄の地頭として、神領の事を奉行す、後醍醐天皇の御時に及ひて、永家が末孫兄は播磨守永珍、弟は笠置寺の衆徒中坊といふものなり、世遙に隔りて、永珍既に累代の所領を失ふ、元弘の戰、帝笠置に臨幸なりし時、中坊則ち官兵に駈せ加る、楠正成をすゝめしは此中坊なりともいふ、其後再ひ帝位を履せ給ひし時、彼の中坊を召されて、勳賞を行はれ、累代の所領なればとて、小柳生の庄を賜る、總領なれば永珍に讓る、是より再ひ永珍が子孫に傳へ、美作守家嚴に至て、三好修理大夫長慶に屬す、其子但馬守宗嚴其子宗矩なり、永珍より十八代の由、宗矩の申せしとなり、松永彈正久秀と共に三好に從ひ、其後織田殿に召されて、宗嚴を案内者とし、大和の國を打隨んとて、柴田瀧川佐久間等の大將を差向らる、宗嚴後に身煩ふ事ありて、入道し柳生の庄に引こもり、慶長五年關が原の戰の後に、大御所に召出され、同き十一年八十歲にして卒しぬ、
織田殿の時、宗嚴大和の守護筒井入道順慶に屬して、所々の高名ありき、關白秀吉、天下を知召して、當國を悉く御弟秀長大納言に參らせられしに、柳生の譜代の郞等、松田といふ者告申せし旨ありて、柳生の庄隱田の科に處せられて、累代の所領沒収せらる、宗嚴口をしき事に思ひ、三人の息に如何にもして汝等本領を安堵し、松田が首切て、我にたむけよといひしが、宗矩再ひ此地領する事を得て、松田を搦取て、莊田といひし郞等して首を刎ねしむとなり、
初め慶長五年の秋、德川殿奥の上杉御追討のため、御下向あつて、下野の小山に出馬し給ふ時、上方また軍起りぬと聞ゆ、但馬守宗矩、此時はいまだ浪人にて又右衞門と申し、密かに此御陣に從ふ、德川殿此よし聞召し宗矩を召して、汝急き本國に歸り、父と共に國人等を催し、上方にして、兵を起すべき由仰せ下され、父宗嚴に御書を賜る、宗矩畏つて仰せ承り、引返して本國に馳せ上る、關が原の軍終て後、始て御家人になされて、柳生谷正木坂の地を給ふ、大相國家時御の恩1加へらる、一千石を賜ふ、左大臣家御代を知召されし初め所領倍し給ふ、此時旗本の人々一同に所領一倍の御加恩あり、寛永九年九月朔日、軍の御使たるべき由を仰せ下され、五文字の幟御免あり、同き十月三日、所領加へ給ふ、三千石十二月十七日、始て總目付といふ職置かれて、宗矩水野河內守、秋山修理亮、井上筑後守其職に任す、是れ今世の大目付なり、其後御恩度々に及ひて、所領餘多知行す、一万二千五百石に至れり、宗矩が父故但馬守宗嚴、兵法の達者にて、力を擊つ事を我朝にて兵法といふ、異國にいふ兵法にはあらず、また世に劒術と云ふは、ひが事にや、男子三人いづれも其業を繼く、新二郞嚴勝は終に仕ふる事なくて死す、二男は但馬守宗矩なり、三男五郞左衞門某、慶長九年十二月廿四2日伯耆國の守護中村伯耆守忠一が館山の城3を攻めし時、五郞左衞門城中に籠つて防き戰ふ、彼が鋒にまはる程の者、疵を蒙り、命を落さずといふ者なし、事は中村が傳に詳なり、柳生は藤井助兵衛と云ものに討れぬ是よりして柳生が兵法、天下に顯はる、左大臣家、御年若くましませしより、此事を好ませ給ひ、宗矩、御師範に召さる、年頃たゆみなく學ばせ給ふ程に、凡其法の有る所悉く傳はらせ給へども、宗矩には及ばせ給はず、常に御心を勞させ給ひけり、或時、宗矩古の人も、父が得る所、子に傳へ難しとこそ申て候ひつれ、此上はたゞ御心におのづから得させ給ふより外はあるべからず、さりながら宗矩もむかし或師に附て、禪に參せし事の候ひしに、聊得る所あつて、我が術少し進み候ひき、不言の妙に至ては、禪を假りて術をさとし候には若くべからずやと申す、左大臣家、大に悅ばせ給ひ、抑汝が學ひし師をば誰といふ、我また誰に附て學ぶべき、汝すゝめ申せと仰せられしかば、臨濟の一派宗峯の遠孫澤庵宗彭を進む、頓て關東に請し給ひ、宗矩此僧と共に一家の書撰みて獻り、悉く禪を假りて術をさとす、忽に其妙を得させ給ふとあつて、澤庵同しく御歸依の僧と成にけり、宗矩初め此術に依て身を起しければ、世の人は只此事にて柳生御信敬の程、淺からずとのみ思ひけり、此人さる古兵、凡天下の大勢を能く知つて、禪をかりては術をさとし、術を假りては政事をさとす、左大臣家、常に御傍の人々に、天下の務、宗矩に學ひてこそ、其大體を得つれと宣ひしとぞ聞えける、さればにや、宗矩年七十六歲にて、正保三年の春病日々に重かりしに、忝も彼が家に成らせ給ひ、同しき三月廿六日、終に空しくなりぬれば、當時例なき贈位の事執し仰せられ、從四位の下にあげられて、彼の黃泉の冥朦を照されたり、是れ偏に年比の彼が輔導の功に感じさせ給ふ所にやと、有難かりし惠みなり、
  1. — 底本のまま。「大相國家御時の恩」で字順が入れ替わった底本誤植とみられる
  2. — 底本のまま。中村忠一が家老横田村詮を殺しその一党を討った米子城騒動は通説では慶長8.11(1603)。柳生宗章もこのとき戦死
  3. — 底本のまま。米子城騒動の際に横田方が籠城した所は通説では飯山(米子城の傍ら)のため、「飯山」の底本の誤植の可能性。未確認
宗矩が卒せし後も、事につれては宗矩生て世に在らば、此事をば尋ね問ふべき者をなど、深く慕ひ仰せ下されしは、日比如何なる事をや尋ねさせ給ひ、また答へ奉りたりけん、誰かは又知るべき、それは人の知れる事なし、たゞ寛永十四年、筑紫にて、逆徒起りし時、宗矩かねて申せし旨に事違はざりし事のみぞ聞きは傳ふる、此年十一月十日、有馬玄蕃頭豐氏の家に散樂ありて、人々多く集り見る、宗矩もこゝに行向つて、酒宴半なるに、日既に未の終り斗りになつて、宗矩が郞等來り、主を呼出して、君はいまだ知しめされずや、肥前國高來の郡の土民百姓等、悉くに耶蘇の門徒にて、守護松倉殿に叛き、有馬の古城に立籠るよし、筑紫より早馬來て告け申に依て、板倉內膳正殿、追討の御使を蒙り玉ひ、はや御發向候ひぬと申す、宗矩聞て、さらぬ體にて、座に歸て、亭主豐氏に向ひ、急きて宿所に歸るべき事出來て候、足ばやき馬借し給へといへば、鞍置て引つ立つ、急き打乘て、西を指して馳せ行き、品川に至て板倉は過しやと問ふ、今は遙かに延びさせ玉ふらんと答ふ、鞍鐙を合て馳せ行き、川崎に至て、たま問へば、板倉殿は今は二三里も隔らせ玉ふべしと答ふ、日は既に暮れなんとす、せん方なくて引返し、城に登る、日はとく暮れてけり、近く侍ふ人を以て、宗矩申すべき事あつて伺公しぬと申ければ、頓て御前に召されて、何事にや參りしと尋ねさせ玉ふ、宗矩畏つて今日さる人の許に酒もりし候に、筑紫にて逆徒起り、内膳正追討の御使を承り馳せ向ふと承りし程に、仰の旨と稱し止めばやと存じ、馬を走せて追かくれど、追付かず、日暮れ候故に、此由を申さんとて參りて候と申す何に因てか、重昌を止めんと、いたしけるぞと仰せ下されしかば、君は只管の土民百姓等、反逆せしと思召さるればこそ、追討の御使かく輕く候ひつれ、すべて宗門に付て起る軍は、大事の者に候、此定にては、重昌必討死仕るべし、如何にも謀て止めばやと存じ候ひしと申す、以の外に御氣色損し御座を立せ給ふ、宗矩次の間に伺公して、夜更れども、罷り出てず此由を聞召て、重て御座に出させ玉ひ、宗矩を召す、重昌死すべきとは何故かくは申すぞとありし時、宗矩さん候、夫兵の道は勇を以て旨と仕る勇士は必死を懼れす、三軍の士をして盡くに死を懼れざらしめん事は、古の能く兵を用ゐる者も及び難しと承りぬ、凡そ下愚の人、法を深く信し候者は、我法を固く守りて、死するを以て身の悅とす、是れ百千の衆、悉く期せずして、必死の勇士と變ずるの術にて候、遠くためしを引くまでも候はず、織田殿兵威を以て、伊勢の長島を攻めて、多くの大將を討たせ、諸卒を失ひ、年を重てやう〱に城を落さる、攝津國大坂の城をば、終に落し得ず、天子の勅命をかりて中直りして、軍は終りて候、三河國の一揆は、近く御家の事に候、去りし大坂の軍に、重昌いまだ年若く候時たにも、數十萬騎の中に只一人選み出されて、大事の使、承つたる者なれば、是等の凶徒を亡さんに、何事かあるべき、且は當時御使承る上は、誰か其下知に背くべきなど思召されなば、事の違ひ候はんか、重昌か今少し位も高く、祿も厚く、また年頃重き職をも司つて、常に世にも人にも、恐れ敬れて候はんには、誠に能き御使にこそ候べけれ、今の重昌の身にて、西國の大名等の軍勢を催して城を攻めんに、一度は御使を承たるに恐れて、其下知に隨はんが、思ふにも似ず攻めあぐみて候はんには重昌如何に思ふとも、心に任すべからず、其時に至りなば、御一門の人々か、さらずは宿老の中を擇みて、重て御使に遣さるゝよりの外あるべからず、さらんに因つては、重昌何の面目あつてか、生て再ひ關東に還へりて見參には入り候べき、あつたらしき御家人を失ひ候はん事、誠に惜く候べとも、猶夫よりも御使を承たる者を、土民百姓の爲に討せて候といふ事は、永き天下の御恥辱にこそ存ずれ、あはれ宗矩御許を蒙らば、追付て能くこしらへて、召具して參候べしと、憚る所なく申ければ、御後悔の色見えさせ玉ひしかど、更に夫も叶ひ難くや思召されけん、夜いたく更けたり、罷り歸て休み候へと、御暇給て、御前を退出す、後に思ひ合するに、宗矩が申せし所、掌を指すよりも明らかにぞ候ひける、此事宗矩密かに我師にて候者に語りて悔みしと、我師また密に某に語りて、今思ふに宗門に附て起る軍は大事なりといひしは、人の心付なき事なりけりと、感し候ひき、
宗矩男子三人、嫡子十兵衞宗三、二男飛驒守宗冬、三男刑部少輔某、右大臣家の御小姓父卒して宗三八千石宗冬四千石に所領を分ち給ふ、宗三慶安三年正月廿一日に死して、子なければ、宗三に賜ふ所を、宗冬に給ひ、宗冬が領せし所を、刑部少輔に給ひしに、刑部少輔も、程なくまた卒し、是も嗣なくて家絕えぬ、宗冬右大臣家の御師範と成て、兵法を傳へ奉りしかば、所領を加へ給る、一万石を領す宗冬男子二人、嫡男大膳宗春、二男又右衞門宗在、延寳三年二月四日、嫡男宗春父に先立て死す、死する時、父と弟とに向て、我家世々兵法を以て業とし、將軍家の御師範となさる、されば此業未練の者の、我家を繼く事叶ふべからず、我死したらんには、舍弟宗在世嗣として、我二人の息をば、將軍家御連枝の御家人となすべき由、いひて死す、此年九月廿九日、飛驒守宗冬も卒し、宗春が申せしに隨て、二男宗在を以て嗣とす、同十二月廿六日、宗在對馬守に任す、