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津輕

第九下 · 段落 5 · 780524 63コマ Rから

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この家によく出る人物・地名

人物 9 3 2 2 1 1 1

地名 3 2 2 2 1 1 1 1 1 1

世に傳ふる所は近衞殿の庶流と云ふ、何れの時にか、津輕の地に流されさせ給ひし人の、此處にて設けられし息男の後なりと云ふ、
爲信が時に至りて、南部が外戚に付て親しかりしに、南部が外甥なりとも、又爲信が妻は、南部が姪女なりとも云ふ南部が家、やゝ衰へければ、爲信が武威日々に强くして、津輕の地悉くに討ち從へ、弘前の城に住む1、天正十八年、豐臣關白、北條を亡さんとて、相摸の國に陣し給ひし時、奧方の大名、未だ參らざる先に、爲信御陣に馳せ參る、殿下の御感、淺からず、本領安堵の御敎書をなし下さる、明れば十九年、九戶の賊、起りしかば、馳せ向て、攻め戰ふ、朝鮮の軍起りしに、其催促に隨ひ、軍勢を引具し、筑紫の名護屋に參りけり、慶長五年の秋、關が原の合戰の時、爲信東國の先陣に馳せ加り、美濃國大垣の城を攻め落す、
  1. — 底本のまま。(前の列末「弘」と続く)弘前城は子の信枚の代、慶長16(1611)の完成なので、為信の居城(大浦城·堀越城)としては時代が合わない
此事關が原大條志と云ふ書にのみ見えて、其餘の諸記に、いまだ見る所なし、最上記を按ずるに、此時南部秋田を先として、奧方の人々、悉く最上の郡に馳せ集りき、其軍勢の着到にも、津輕が事見えず、然れば、此時津輕は國にあらず、東國の先陣せしと云ふ事、さもあるべきにや、猶能く尋ぬべし、又爲信が卒せし年月日、未た知らず、