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德永

第十二下 · 段落 2 · 780526 53コマ Rから

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この家によく出る人物・地名

人物 17 7 6 6 6 5 3 3 2 2 1 1 1 1

地名 3 3 2 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1

石見入道壽昌は初め越前の守護柴田修理亮勝家が猶子伊賀守勝豐が家の老なり、勝豐は勝家が甥にて養子たり勝家勝豐年ころ其間快からず、羽柴柴田の軍起るに及で、秀吉石見守等を召て其主人伊賀守が許に使として、味方に與みすべきよしを云ひ送らる、勝豐頓て養父勝家に背きて秀吉に心を通す、天正十一年四月勝豐病甚しく醫療を加へんとて、おのが守る本山の要害を去て都に登る、石見守等勝豐が軍勢引具し秀吉の陣に馳せ加る、志津が嶽の合戰敗れて後、勝家終に亡びにけり、石見守この後秀吉の御家人になされ、入道ののち式部卿法印になされ、美濃國松木の城を領してけり、二万石又三万石とも云慶長五年の秋德川殿に隨て奧に向ふ、上方の軍起りぬと聞えて、東國下向の大名悉く德川殿小山の御陣に馳せ集り、福嶋左衞門大夫正則最初に御方に組し參らす可きよし申すにぞ、入道遙かの末座より進み出て、人その數にはあらねども入道も正則の議に同じく侍ると云ひしにぞ、人々皆一同に組みしてける、かくて先陣の人々と同じく海道を打て上り、おのが城に至て先づ同國高洲の城の住人高木十郞左衞門尉が許に使を立て、高木一万石を領し二百餘人にて立籠れり東國の味方に參るべき由を云はせければ、高木聞て入道の御芳志悅ひ入りぬ、某わづかなる勢を以て此城に籠り、東國の多勢と戰はんこと叶ふべからず、さりながら原隱岐守、大坂の仰を承て某に力を合せんとて、太田中島に陣取りぬ、只此儘に降人に參らん事、彼が返り聞かんも餘りに穩便にや候べき、一攻せめて御覽あれとぞ答へける、入道聞て仰せ承りぬ、さらば入道その城に押寄せ、攻め厭みたる樣にて引返し、重て福嶋が加勢乞うて押寄せん時に、城をば下けて渡さるべうもや候ふ、互に放たん鐵砲に鉛彈をば込めで候べきとぞ約したる、入道古兵にて若し此事かねてより味方に知らせたらんには、敵の方に漏れ聞ゆる事もこそあれと思ひしかば、家子郞等にも深く隱し、八月十九日に追手搦手二手に分れて高洲の城に向ふ、入道味方に向て聊か思ふ所あれば、けふは遠攻にせんずるなり、敵うち出づる事ありとも、入道が下知なからんには、戰を决すべからずと掟す、早雄の若者共かほどの城攻め落さんに、何條遠攻にすと云ふ事やあるべき、たゞ平攻めに攻め破れと云ふまゝに、互に先を爭ひて進む、高木は追手の櫓に上つて、寄手の有樣かねての定に相違しぬと見て、誰かある敵のやう屹と見て來れと下知す、承りぬとて武者二騎打出づるを寄手馳せ合せて眞中に取込めて一騎を討つ一騎深手おうて引返す、西の城戶に向ひたる寄手、既に城中に攻め入る、高木大音揚けて、につくし入道めにたばかられぬるこそ安からね、一人も洩さず討ち取れと云ふまゝに、矢頃は無碍に近かりけり、差詰め引詰め射る程に、矢庭に討たるゝもの少からず、城の兵切先を揃へて切て出づ、寄手散々に戰なつて引返す、入道大に怒て鞭鐙を合せ馳せ來り、敵味方を制し互に戰をぞ止めける、城中にも侍二十騎雜兵は四十餘人討たれしかば、高木も今は是迄なりと川舟に取乘て落ち行けば、城をば入道取てけり、德川殿美濃國に攻め入らせ給ひしかば、入道市橋下總守横井兄弟等と尾張の國の住人子孫今に尾張家にあり多藝口に出で陣を取る、九月十六日昨日關が原の戰終りぬと聞て、德川殿に追附きまゐらせんと馬を馳す、討ち漏されたる敵、多羅尾山に分け入らんとするに、行き逢うて長曾我部安國寺等押寄せて戰ひ、武者二騎雜兵六十三人が首きつて、摺針峠に出向つて德川殿に見參す、此年十一月勸賞行はれて、高洲の城に地餘多付けて賜はりぬ、二万石加へられ五万石餘を領す年積て六十四歲、同き十七年十二月十九日に卒してけり、其男左馬助藤原昌重、父に繼ぎ大坂前後の戰に從ひ首七十二切て參らす、元和五年諸國の大名に仰せ下されて、大坂の城修し築かれ、明れば六年功なりぬ、昌重も彼役に從ひて侍ひしが、彼處の商人訴へ申す旨あつて罪蒙り、子息下總守昌勝と共に流刑にぞ處せられける、
淫亂の事に依つて訟起りしと云ふ、精しき事をば知らず、左馬助死してのち慶安元年六月三日、大御所の御遠忌に依つて息男下總守召返されて、祿米二千俵を賜はり承應三年九月廿七日五十歲にして卒し、其子賴母父に繼ぎしなり、