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佐野

第十二下 · 段落 3 · 780526 89コマ Lから

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地名 4 3 2 2 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1

按ずるに秀鄕將軍の五男千常、その子公脩その子兼光その子賴行、五代相繼いて鎭守府將軍たり、賴行が二男兼行、淵名大夫といふ、兼行が二男足利大夫成行、その子足利太郞成綱その子家綱、祖父成行が家を繼き、足利孫太郞と名のる、家綱四人の男あり嫡子足利太郞俊綱、是れ治承の頃生年十七歲にて、宇治川の先陣せし又太郞忠綱が父なり、二男山上五郞高綱、山上の祖なりけり、三男足利庄司成俊、四男足利七郞有綱といふ、有綱が嫡男を佐野太郞基綱といふ、是れ佐野の家の祖とす、修理大夫政綱が家の系譜を見ねば、基綱より政綱に至る迄の世嗣を詳かにせさ
佐野小太郞昌綱が男修理亮宗綱が時に至て、天正十一年十二月晦日の夜、同國舘林の住人長尾顯長が爲に、彥間の城を襲ひ取らる、明れば十二年正月元日1の朝、宗綱この由を聞て、安からぬ事かな時刻移して惡かりなんず、速に其城取返さんずるものを、馬强からん若者共、つゞけやつゞけと云ふまゝに、鎧取つてなげかけ馬牽よせ打乘て、佐野の城を打て出で、鞭鐙を合せて馳せたりけり、俄の事にはありけり、家子郞等は馬物の具よと犇く程に、繼く味方いまだ一騎もなく、馬副粟田の何某一人ぞ追付きたる、大將宗綱只一騎彥間の城の城戶口に押寄せ、馬打立て味方を待つ、城中の敵やぐらの上に集りて差詰め引詰め散々に射る、矢一つ來て宗綱が射向の板より脇楯のはづれまで、矢ぶり白うぞ射込んたる、大事の手なれば宗綱暫しもたまり得ず、馬より下にどうと落つ、粟田馳せ寄つて昇き乘せ、馬の口とつて引き返す、城の兵あますな漏らすな射とめよと城戶押開き打て出づ、二町ばかりが程にて追詰め、遂に首をぞ取つたりける、宗綱が家子郞等大に驚き、各集りて主の跡の事詮議す、宗綱女子のみありて男子はなし、さらば相摸の北條は當時關東に威を奮つて、八箇國の侍悉く其手に属す、彼が一族を申し乞て宗綱の姫君にめあはせて、家繼がせ參らせんと議定しぬ、宗綱が弟の僧になりて、佐野の庄天德寺に住しけるを、この和尙一人は常陸の佐竹が子を迎へて、家繼がせんと議す、大貫、越中竹澤源三郞山上美濃飯塚兵部等を始として、宗徒の者共敢て此議に隨はず、各連署の起請文かいて北條に參らせ、一族賜て佐野の家繼がせんと望む、左京大夫氏政悅ふこと斜ならず、舍弟左衞門佐氏忠して彼の家つがせけり、和尙大に怒つて忽ち寺を去てけり、同き十八年の春豐臣關白、北條を追討のため關東に發向あり、宗綱が弟の僧このほど都に上り黑谷の邊にありけるを、關白御使給つて東國の案內者に召具せられ、相摸國に攻め入り給ひて後、彼僧を御使となされ佐野の城に差向けられ、彼が父祖累代の家人等速に御勢に馳せ加るべきよしを仰せ下さる、城中の兵悉く和尙の旨に隨ふ、左衞門佐氏忠は小田原の城に在り、大貫越中守一人この議に同ぜず、我等初め和尙の仰に隨ひ參らせず、左衞門佐殿を主となし奉る、既に一度主となり從者となりたらん者、今事の切なるに臨みて忽に心を變ぜん事、是れ勇士の本意にあらず、某に於ては氏忠の御爲に討死仕るべきにて候とて、詰の城に閉ぢ籠る、殘る所の家子郞等、天德寺の和尙を大將として押寄す大貫櫓の上に上り大音あげ某かゝる小勢にて如何で戰ふには及ぶべき、命は義に因て輕しとこそ承れ、これ見たまへ人々とて首かき落し死してけり、幾く程なくて北條も亡びぬ、和尙頓て關白の御家人富田左近將監が二男乞ひ受て、父祖の家つがせ修理大夫信吉とぞ名のりける、慶長五年の秋東西の軍起りし時、信吉東國の御方として、おのが城に留りて奧の敵を防く、同き十九年三月大久保相摸守忠隣が緣坐に依て、江戶の城に召し戒められ佐野の城を破却せられ、同六月廿八日信濃國松本に流されて、小笠原兵部大輔秀政に預けられ、佐野の累代の家は絕えてけり、所領は三万九千石といふ信吉程なく死し息男二人召返さる今の吉之丞某は其跡なりと云ふ
  1. — 底本のまま。佐野宗綱の戦死は天正13年正月元日が通説で、前の「天正十一年十二月晦日」とともに1年早い