主殿頭源忠利は、和泉入道殿の御子、源藏人殿の親忠主の御事御弟、大炊助忠景四代の孫也、世に傳ふる松平系圖には、和泉入道信光第八の御子、外記元芳、元芳の二男忠景としるしぬ、家忠日記增補追加發題のしるす所、本文の如し、忠景の子大炊助忠定、參河國岩津に在て、同國小美の米津と戰ふこと度々にて、終に小美村を攻取、また深溝の城を攻め、城の大將大塲を打ち、深溝に移り住みしより、世に深溝の松平とは申けり、世には深津に作り、彼日記には深海に作る、亨祿四年六月九日に忠定卒し、嫡子大炊助好景繼き、德川殿に仕ふ、弘治三年の春同國中嶋城を責破り、板倉彈正を打取る、其賞として、中嶋長良西鄕等の地を下し給ふ、永祿四年東條の吉良義昭が叛きしに、好景吉良と戰ふ事度々にて、此年四月好景が嫡子伊忠、上野の城を攻む、其隙を窺て義昭、伊忠が中嶋城を襲ふと聞き、好景深溝より馳來りて、義昭が勢を打破り、逃るかたきを追て、善明の堤より出る土呂の敵に行き逢うて、多勢の中に取籠られ主從三十餘人、枕を並べ討死す、好景時に四十四歲とぞ聞えける、其子主殿助伊忠、父に繼く永祿六年一向專修の門徒等、德川殿に叛きまゐらす、伊忠御方に有て、額田の郡野羽の古城を攻破る、其後長澤の城を守て、武田が兵を防く、高名度々に及びて後、長篠の合戰の時、鳶巢の要害を攻めて討死す、其年三十九歲なり、其子主殿助家忠家を繼く、天正三年吉田の城下の合戰より、同き十八年小田原を攻められしに至て、度々の高名、數を知らず、此年關東に移り給ひし後、武藏國忍の城をたまひ、文祿元年三月十九日、下總國上代の城に移り、また同國小美川の城に移る一万石慶長五年八月朔日、伏見の城を守りて、上方の多勢と戰ひ、年四十六歲にて家子郞等八拾五人、同じ枕に打死す、主殿頭忠利は、この家忠が嫡子なり、父が討死せし時は、いまだ又八郞と申て、關東の御陣に從て、小美川城を守る、明る慶長六年二月、深溝を給ひて、再ひ累代相傳の地を領す、一万石同九年の夏、叙爵し、十七年十一月十六日、吉田の城を賜、三万石忠利が弟を庄九郞忠一といふ、將軍家に仕ふ、大坂兵亂再ひ起りし時、同僚共に申けるは、此度の軍事終らば、天下再ひ兵革の事あるべからず、忠一、將軍家の先陣に從ひまゐらせしこそ幸ひなれ、必ず先懸けして、父祖の忠死に次くものぞといひけるが、五月七日の戰に、申しゝに違はず、最先かけ、生年廿六歲にて討死をぞ遂けにける、好景より忠一に至る迄、父子相續て四代迄、德川殿の御爲に、皆討死をぞしたりける、類ひ少くなき次第なり、主殿頭忠利寛永九年五月五日に卒し、其子主殿頭忠房繼き此年七月十一日刈屋の城に移り、三万石慶安二年二月廿八日、丹波國福智山の城に移り、四万五千石寛文九年六月八日、肥前國嶋原の城に移る、六万五千九百石七斗八升八合同十二年八月五日、長崎表下知狀を下し賜りぬ、此家傳は、其家の日記世に行はるれは、事多く畧して大綱をわくる所也、
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松平(深溝)
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인물 松平好景 6松平忠利 5吉良義昭 4松平伊忠 4松平忠景 3徳川家康 3松平忠一 3松平信光 2松平親忠 2松平元芳 2松平忠定 2松平家忠 2徳川秀忠 2深溝城主大場 1今川家臣板倉弾正 1松平忠房 1
지명 三河国深溝 3三河国小美 2三河中島城 2三河吉田城 2関東 2下総小見川城 2三河国岩津 1三河深溝城 1三河国中島 1三河国長良 1三河国西郷 1三河国東条 1三河上野城 1三河国善明 1三河国土呂 1三河野羽城 1三河長沢城 1三河国長篠 1三河鳶ノ巣山砦 1相模国小田原 1武蔵忍城 1下総上代城 1山城伏見城 1上方 1