左近將監源成重は、加賀守乘元の後胤なり、乘元の男乘正の二男、荻生の傳藏親淸、其子五左衞門近正と云、和泉守家乘が家子たるにや天正十二年德川殿、北畠殿信雄を援たまひ、秀吉と戰ひ給ひし時、源二郞家乘いまだ幼なりしかば、近正彼の代官として、軍勢を卒て、蟹江の城を責破る、明れば十三年十一月、石川伯耆守數正、岡崎の城を去て、秀吉へ參りし時、近正が許へ使たて、大野又右エ門といふ者なり打連て參らん事を勸む、近正あへて從はず、いそぎ嫡子新三郞一生に家乘が侍二人附て、德川殿へ參らせ此由を告申、一生をば直に濱松の城に留めらるべき由を申す、是れ近正が二心なき旨を顯はし、質として子息を獻る所なり、德川殿、近正が志に深く感じたまひ、御刀を一生にぞ賜りける、其後關東に移り玉ひし時、近正上野國三の倉の地を給ふ、五千石慶長五年の秋、伏見の城に留りて討死す、年五十四歲とぞ聞えたる、近正男子二人、嫡子若狹守一生、二男五郞左衞門正吉、これ將監成重が父なりけり、一生父に繼ぎ、五左衞門と申す、慶長七年五月、佐竹が秋田に移されし時、一生水戶の城を守る、本國に落留たる佐竹が家人等、謀反を企て、此城を襲ひ取らんとす七月十日に、一生が番の兵あやしき者一人を搦捕て、拷問に及ふ、彼謀反の事盡く顯る、此夜亥の刻ばかりに、凶徒忽に襲ひ來る、一生を始として城を守る人々待まうけたる事なれば、互に先を爭て防き戰ふ、凶徒等散々に打なされて、引退く、群馬丹波馬塲和泉等の張本人、所々にて生捕られ、一々に誅せられけり、明れば八年大御所將軍の宣旨を蒙らせ給ひし時、一生叙爵して、若狹守に任す、十一年五月一生罪有て、所領を收公せらる、いかなる事にや詳なる事を知らず、また父につぎて後いかほど給ひしも知らず、是にて嫡流は絕しなり、五郞左衞門正吉別に所領を賜ふ、下野國板橋正吉死して、其子左近將監成重父に繼く、慶長十二年に叙爵し大坂の戰に首十二切て獻る、元和三年參河國西尾の城を賜ふ、一万三千石、〇今迄いか程領せしにや知らず、同き七年、丹波國龜山の城に移る、三万三千石を領す同十一年成重卒1して、子息太郞忠昭幼なかりしかば、豐後國鶴崎の地を賜て移る、本領の儘成人の後、叙爵して左近將監に任し、萬治元年同國府內の城を給る、本領の儘延寶四年三月廿七日、致仕入道して、如圓と號す、其子筑前守昭重、後に對馬守になる、父が讓を受く、二万二千二百石領舍弟主計頭昭利千五百石仁右衞門昭政、千石各所領を給ふ、父領の內開發の田
- 同十一年成重卒 — 지면 그대로. 앞의 「元和三年」「同き七年」에 이어져 元和十一年으로 읽히나, 元和는 10년(1624)까지라 연차가 성립하지 않는다. 松平成重의 실제 몰년 미확인