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秋月
이 가문에 자주 나오는 인물·지명
인물 原田種直 23秋月種実 21大蔵春実 11阿智王 8秋月文種 8後漢霊帝 6秋月晴種 4豊臣秀吉 4秋月種長 3後漢献帝 3孝徳天皇 3劉邦 3藤原純友 3原田種成 3秋月種雄 3高橋鑑種 3筑紫広門 3阿多倍王 2堯 2藤原慶幸 2大蔵種材 2大蔵種資 2山鹿秀遠 2大友義鎮 2
지명 筑前秋月城 6九州 5豊後国 3豊前国 3筑前大隈城 3伊予国 2筑前国太宰府 2筑前国岩戸 2安芸国 2筑前宝満城 2豊前岩石城 2摂津国大坂 2播磨国明石 1播磨国大蔵谷 1筑前国博多 1筑前国御笠郡 1筑前国原田 1筑前国 1西海道 1相模国鎌倉 1豊前国柳ヶ浦 1筑前国芦屋 1薩摩国 1肥後国 1
按ずるに九州記には後漢獻帝の後阿多倍王、本朝三十六代の帝孝德天皇大化年中に歸化す、王の第二の子貴重王、是れ大藏姓の祖也と云へり、系圖の記す所に異なり、新撰姓氏錄には大藏朝臣姓の事漏れぬ、春實が時に賜ひし由、大友記に見えしかど定かならず、凡そ本朝に漢家の帝孫少からず、高祖の御子齊の悼惠王の後三姓、光武帝の御後三姓、章帝の御後一姓、靈帝の御後十六姓、獻帝の御後四姓あり、其中靈帝三世の御孫阿智王の後四姓あり、所謂木津忌寸、火撫直、栗栖直、高安忌寸是なり大藏朝臣の姓、賜ひしは此四姓の後なるべし、阿智王又阿智使主とも記し、又靈帝四世の孫とも記せり、獻帝の御後四姓の中に、阿多倍王と云ふは見えず、九州記の說、誤れるなるべし、〇又按ずるに後漢靈帝崩し給ひし中平五年は、我朝人皇十三代成務天皇五十九年にや當りぬらん、三十七代孝德天皇の大化元年に至て、四百五十餘年に及ふ、然れば靈帝三四世の御孫阿智王と申せしが我朝に來り給ひしにはあらじ、されども姓氏錄の記せる所は、阿智王の來り給ひし樣に見ゆ、阿智王の來り給ふならんには、孝德天皇の御時と云ひ傳るは覺束なし、阿智王の後の來りしと云はんは、さもありなん、抑も漢高祖は遠く帝堯の御末と承る、我朝に唐堯漢高の帝冑、斯く今に至りて郡邑をも知てあるべしとは、彼國の人思ふべしや、これ本朝の一美事なり、
系圖に種直又種成とも云ふ、太宰の大監たり、岩戶權守又岩戶少卿とも稱すと見えたり、太宰大監たりと云ふは誤れるか、太宰少貳の唐名を都督少卿と云ふ時は太宰少貳たること疑ふべからず、此種直世に傳ふる原田の大夫なり平家物語に岩戶の諸卿と云ふも誤れり少卿と云ふべきにや、○按ずるに九州記に是より先、春實が孫種資が時に岩戸に移ると云ふ、系圖を見るに種資と云ふは、春實四代の孫にて長門守たり、春實が孫にはあらず、又九州記には原田の種直は平家の方人たりしに因て、源氏の世となつて後所領を失ふ、種直が第四の男四郞種成、再び家を興すの由を載せたり、此說によらば系圖に岩戸の少卿種成、又は種直と云ふとあるは誤れるにや、岩戶の少卿は種直にて、其子原田の四郞は種成なり、まして平家物語にも種直と記せる上は疑ふべからず
壽永二年の秋、平家の一門、木曾義仲が爲に都を落され、安德天皇の供奉し奉り、西海に趣き給ひし時、種直二千餘騎にて御供に參る、平家は太宰府に着き給ひて後、九州二島の者共、源氏に心を通はして、召せども參る者一人も無し、種直ばかり昔の契を違へずして、己が宿所をしつらうて皇居となし、善きにかしつき奉る、豐後の國の住人緒方三郞惟義、心變りせしに因て、平家こゝをも落ち給へば、種直又御供に參る、斯る所に山鹿の兵庫頭秀遠、數千騎にて平家の御迎に參る、種直秀遠日ころ以の外不和なりければ、惡しかりぬと思ひて、種直は道よりこそ歸りけれ、平家旣に滅び源氏の世となつて、種直鎌倉に召し下され、平山武者所季重に預けらる、十三年の後、罪免されて本國には歸てけり、種直が子種雄が時、始て同國秋月の城を構へ住みしより、秋月の三郞と名乘る、是れ秋月が家の先祖とぞ聞えける、種雄十五代の孫秋月太郞晴種が時に至て、豊後國大友左衞門督義鎭が爲に秋月が家滅さる
晴種が男筑前守種實、幼より大友が國中に忍ひ居て、如何にもして父祖の仇をも報い、我家をも起さばやと窺ふ、永祿十年の夏の頃、高橋三河守鑑種、大友に背き種實と相語らひ、安藝の毛利に謀を合せて、軍起さんとす、種實大に悅ひ安藝國に渡て陸奥守元就に加勢乞て、二千餘人を引具し、豐前國柳が浦に打上て、豐前路を一日一夜に打て秋月の城に立籠る、累代の家子郞等、此處彼處より馳せ集り、頓て勢こり出來たれ、高橋同く寳滿の城に閉籠る、大友大に驚き急き討手を向くべしとて、二万餘騎を差向く種實先づ城より討て出て、要害一箇所搆て、寄手を待つ、同八月十四日敵の多勢押寄て、入替〱に攻めし程に、明れば十五日終に此をば落されて、秋月の城に引籠る、敵續て押寄せたり、去程に毛利が多勢秋月高橋助けんとて兵船を揃へ押渡ると聞えしかば、寄手爰をば引返し毛利が勢と戰はんとせし所に、九月三日の夜に入て、種實究竟の兵を引具し、敵の陣に夜討す、寄手散々に討なされて、本國指て引退く、明れば十一年八月十四日當國葦屋の合戰、毛利が軍利を失ひ、敵又寄せ來ると聞えければ、種實暫く大友に隨て本領を安堵せり、天正七年の春、筑紫左馬介廣門と後には上總介心を合せて、種實再ひ大友と軍起る、種實年頃弓矢を取て、九州に名譽を得たりし上に、本國は云ふに及はず、豐前國の侍、彼が手に屬しければ、大友に背きし近國の國人等、種實に與みする者こそ多かりけれ、其後筑紫も大友が爲に破られて、義鎭入道に隨ふと聞えしかば、種實さらば嶋津に與みして、我家亡ひさらん樣をも計らんとて、明れば天正十四年四月薩摩の國に使立つ、斯て嶋津が軍勢、肥後筑後の勢を催して、豐後の國に攻め入る、豐臣家の御使仙石長曾我部を先として、大友が勢を打破る、關白此由を聞召し、明る十五年の春、畿內山陰山陽南海の軍勢三十万騎を引具して、筑紫の地に向ひ給ふと聞ゆ、種實先づ豐前國岩石の城に軍勢を籠め、其身は筑前國大隈の城に立籠る、關白の御勢豐前國に亂れ入り手合せに先づ岩石の城を攻落す、種實大隈の城にも溜りかね、秋月の城に引籠る、古所山の城とも云ふ時に軍勢二万五千人と云ふ關白頓て大隈に御陣を移さる、嶋津が勢も、是處彼處の戰に悉く利を失ふ、種實斯ては此城にも怺へつべうも覺えねば、子息三郞種長と共に剃髮染衣の身となつて、首を延て降人に參る、關白其罪を宥められ、對面を許し給ひしかば、累代の重寶楢柴と云ふ茶入獻て見參に入る、秋月寳滿岩屋寶森赤司等の城々、悉くにさけ渡す、頓て日向國財部の城賜て移さる、三万石〇種實宗誾入道と號すと云ふ、一說に是よりさき入道せしとも申す也、三郞種長、此後叙爵して長門守に任す、朝鮮の軍起て彼國に押渡りて、是處彼處に戰ふこと凡七年、慶長五年の秋大坂の催促に隨て、軍勢を引具し美濃國大柿の城を守る、相良高橋相謀て、城中の大將を討て德川殿に降りしかば、本領を賜て安堵す、大坂の軍起りし時、馳せ向て城を攻め、再ひ軍起りしには鎭西の人々は參るに及はず、其子長門守種春、生年十四歲慶長十八年十二月、關東に參て兩御所の見參に入る、父卒して家を繼き、万治二年十月十五日六十歲にて卒す、其子佐渡守種信家を繼き、寛文九年に卒す、其子出羽守種恒家を繼く、