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久留嶋

第十上 · 단락 7 · 780525 28코마 L부터

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이 가문에 자주 나오는 인물·지명

인물 7 3 3 3 3 2 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1

지명 4 4 2 2 2 2 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1

右衞門佐源康親は、累代の先祖河野が家の被官として、伊豫國の住人なり、土佐國の住人長曾我部が起るに及て、土佐守元親、阿波讃岐を徇へて天正四年伊豫國に發向し、戰ふ事凡そ七年、同き十年に至て、河野通春1を始として三十一人の國人等皆長曾我部に降る、來嶋得居兄弟ばかり、これに隨はず同き十三年の秋、元親も亦豐臣家に降る、本領なれば土佐の國をば賜りて、阿波讃岐伊豫の國をば收公せらる、元親に降りし國人等、悉くに本國を追却せられ、來嶋兄弟には本領を賜て、其武勇を賞せらる、來島助兵衞に一万四千石得居太郞左衞門に三千石を賜ひき
  1. — 지면 그대로. 天正 연간 長宗我部와 맞선 河野氏 당주는 河野通直(牛福丸)이고, 通春은 그 앞 세대 인물이다
世に此家を越智氏と云へども、武家補任に隨て源氏とす、此家の系譜を見ねば、すべて詳なる事をば知らず、又武家補任には來嶋もとは村上たりと記せり、豫章記を見るに、朱雀天皇の御時、天慶二年に伊豫國の住人越智押領使好方、藤原純友追討の宜旨を承る、爰に村上と云ひし者、當國新居の郡大嶋に流されて年久し、彼れ海路の案內を知れる人なれば、好方朝家に申し乞ひ、具して發向すと云ふ、其後貞治の頃は、河野が家に能嶋の村上三郞左衞門尉義弘、同長門守など云ふ者あり、此等の村上、昔好方が乞に因て、勅勘ゆるされし村上が後にして、來嶋が先祖たるにや、覺束なし、
文祿の初朝鮮征伐の事起るに及て、來嶋兄弟海路の先陣賜て、彼國に押渡り是處彼處の戰に高名を顯す、
太閤記には來嶋兄弟とあり、豐臣家譜には來嶋助兵衛とあり、宇佐美定祐が重撰朝鮮征伐記と云ふには來嶋出雲守通泰、文祿二年六月廿三日、朝鮮の元均と戰て、討死せし事を精しく記せり、大河內秀元が記を見るに、慶長二年大明の和親破れて後、再び軍起りしに來嶋出雲守、海路の先陣承て八月十五日南原の城を攻め落せし時、來嶋が手に首四百六十一を切りし由、詳かに記しぬ、然れば文祿二年に出雲守が討死せしと云ふこと覺束なし、若し朝鮮の船軍に打死せしが一定ならんには、慶長三年本朝1の人、朝鮮の李舜臣と珍嶋に戰ひし時か、又順天海口にて陳隣等と戰ひし時の事にや、すべて此家の事いまだ詳にせねば、傳聞の及ふ所其大略を記しぬ、
  1. — 지면 그대로. 来島出雲守(来島通総)는 慶長2年(1597) 9月 鳴梁 해전에서 전사했다는 것이 통설로, 본문이 추정한 慶長3年 珍島·順天 해전과 다르다
關が原の諸記に、來嶋九鬼と兵船を泛べ、東海の津々浦々に押入て、兵粮秣等奪ひ取り、上方の城々に入れしと云ふ、然らんには如何に申し開きて、本領安堵せしにや、いかさまにも故あるべし、
明る慶長六年二月、豐後國日田玖珠速見三郡の地にて所領賜ひ、森と云ふ所に移る、其子丹波守通春、幼くして父に繼き、大坂の軍起りし時馳せ向ふ、兩御陣供奉記に右衞門市と記す再ひ軍起るには、鎭西の人々は參るに及はず、明曆元年二月十日四十九歲にて卒す、通春が時に至りて來嶋と云ふ字、改めて久留嶋とは書いてけり、其嫡子信濃守通淸、父に繼く、一万二千五百石舍弟等に所領分ちけり、半八某に千石、權三郞某に五百石