f190.p001교정66R:11–1466L:1–2伯耆守平長房は平將軍貞盛十代の孫伯耆守光平が後胤なり、長房が祖父十郞兵衞尉家利が祖父の世より、尾張の國の住人とは成てけり、家利一男二女を設く、嫡男七郞左衞門尉家次は、伯耆守長房が父なりけり、姉は淺野又右衞門尉長勝が妻、一說に妹なりといふ長勝は彈正大弼長政が父なりけり妹は杉原入道道松が妻にて、豐臣太閤家政所の御母公なり、家次所緣に就て秀吉の家に親しかりしかば、彼家に仕へて天正十一年九月九日五十四歲にて死す、
f190.p004교정66L:7–11一說に長房十三歲にて、播磨の西代尻池といふ所を賜ひ、十六歲にて叙爵し、豊後の臼杵但馬の豊岡播磨の三木の城等を賜り、移りて父が家を繼くと云ふ、慶長五年の秋東西の軍一時に起り、但馬の國の人々は丹後の國に向ふ、細川が領なり長房も其催促に隨ひて寄手にぞ候ひける、關が原の戰終てのち、天下悉く德川殿に從ひまゐらす、長房元より東國に心を通じければ本領を安堵す、
f190.p005교정66L:12–14政所の御所緣の人にて淺野長政が婚たりし故にや一說に明る慶長六年、常陸國新治郡小栗の庄五千石を加へ賜ふと云ふ、又其後豊後國杵築の城を賜りしとも云ふ、悉しき事いまだ聞かず、
f190.p006교정67R:1–4大坂の軍に從ひ首十九きつて献る、五十六歲にして寛永六年二月四日に卒す、男伯耆守重長父に繼ぎ寛永七年に叙爵す、初名は吉兵衛正保元年十月三日に卒して子なければ、竹中左京亮重常が男は、外甥なるに因つて世嗣として、帶刀重元と申す、承應二年十月十四日重元十七歲にて、世を早うし世嗣なければ家絕えたり、