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○參河國伊田合戰の事

卷之一 第3話 · 段落 1 · NDL 1078984 25コマ L

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善德公御諱淸康安祥二郞三郞殿と世に稱し申す士卒を憐み、勇材御座しませしかば、人々其德に靡き從ひ奉れり。尾張國に向はせ給ひ、森山に陣せさせ給ひしに、不慮の事出來て、安部彌七郞弑し奉りける。植村出羽守、未だ新太郞一說新六郞と申せしが、十六歲にて御側に有合せ、彌七郞をば立處に誅してけり。御家人馳集りて唯呆れ居たり。植村人々に向ひて、御敵をば旣に切つて棄て候。思ひ置く事もなし。腹切て御供可㆑仕といふ。人々、主君の敵たらん者を立所に討ちし其功いふに及ばず。是に候ふ者共、御側にだに候はば誰か御身に劣るべき。御身一人幸に御側に有し事、之神明の冥助とや言ふべき。されば腹切つて冥途の御供申さん事、又誰かは御身に劣るべき。されば各其處存の如くに振舞ひて然る可し。我等は必死近きにあり。今日徒に腹切らんとも存ぜず、と答ふ。植村聞きて、其必死は如何と問ふ。其時、抑我等必死は僅十日を過すべからず。殿斯ならせ給ひぬと敵の方に聞えなば、彈正忠信秀軍勢を率ゐて岡崎に攻來らん。我等爰にて腹切らば、誰か若君の御爲に矢の一筋もはか〲しく射出すべき。然れば我々が討死は此時に有りと覺ゆ。同じく死せん命、遲速は十日を隔つまじ。御身が切腹を强て止めんとにも非ず、といへば、植村聞きて、實に理かな。然らば人々と倶に同じく討死をせん、とて岡崎に引返す。案に違はず織田信秀、八千の兵を引率して三河の國に打入り、大樹寺に陣とりたり。此時內膳正信安も背き參らせ、上野の城に在りて兵をも出さず。昨日まで屬せし國人ども、多く心變してけり。引返したる御家人等僅に八百人、若君に御暇乞して、一同にどつと泣叫びてこそ打出でけれ。二手に分ちて伊田の彼方に打て出づ。此人々の義心を神明感じ給ひけん、此所に見え給ひし八幡宮の鳥居の、敵の方に向ひて六尺餘り自ら動きけるこそ、不思議といふも餘りあれ。人々大に力を得て、寄せ來る敵を待つ程に、此所は、上は霜枯の野路遙に、下は賤が田の面に通ふ道一筋あり。織田家の軍も同じく二手に成りて、上道下道此方に向ひて寄せ來たる。八幡の寶殿の方よりして白羽の矢降り來り、敵の上に落ちかゝると見物の人の目には見えてけり。上に向ひし味方、野は廣し、眞中に取籠られ、一人も殘らず討死す。植村下道より向ひて眞先を駈く。味方僅に四百人、四千の敵を打破り、又上道に押し向ふ。野路の敵も散々に亂れ立ち、信秀辛き命生きて尾張國に引返す。これ伊田の合戰とて、十倍の敵に勝ちし事例少なし。況して大將座しまさぬ軍して、幼なき君を立てしこと、古今に比類有るべからず、と義臣の節操を語り傳へて美談とせり。