天正元年將軍義昭、織田信長と不和の事出來て、和田伊賀守惟政、將軍の味方して攝津の國に陣す。信長和田を始として、誰某が首取りたらん者には云々賞す可し、と書記して札を立てられたり。中川瀨兵衞重秀、此時は荒木村重に屬したりけるが、此の札を打見筆執りて、和田が名に點を掛け、自姓名を記し家に歸り、妻に向ひ事の由を語りて、萬一生て歸りなば又こそ見參すべけれ、と言ひしに、妻、聊患ふる色無く、然らば軍の門出祝ひ給へ、とて羹進め酒取り出したり。其の夜子の刻許に、伊賀守が首取つて來りけり。村重大に驚き、如何で斯く手易う和田をば討ち得たるぞ、と言ふ。重秀、然ん候。明日必ず戰を決すべし。然れば討たるゝ者少かる可からず。同じく死なん命を此夜の中に捨てなんには、和田が首取り得つべし。敵も明日の合戰を大事に思ひ淀河の淺深を踏み見んに、惟政然る大將なり、物見を賴む可からず。自ら來らんは必定なり、天晴討ち取らんず物を。若し又討死せば多くの敵の中に入りて、大將の首取らんとて討死したりと人言はん。去ば武名は朽ちじと思ひ定め、水を涉り彼方の岸の柳蔭に伏し隱れて待つ。案の如く和田二陣に控へて出で來るを紛れ入り、終に討ち取りて、水中に飛び入り遁れ得て歸りぬ、と申しければ、人々感じ合へる事大方ならず。