○信忠慧林寺を燒かるゝ事
人物地名家(氏)官職日付索引へ
又禪僧の語り傳へしには、快川濃州に在りし時、信長招待すれ共肯はず。今川の家に行きて今川家を輔佐したりければ、信長憎まれしに、甲州に往きて慧林寺の住持たり。信玄の死を深く祕しければ、信長愈怒りて、種々に探り聞かせられしに、快川の方より泄さざれば、信長怒りに堪へ兼ねられしが、武田の亡びし故遂に焚殺されしとなり。又其の時樓下に鎗先を揃へて剩さじと爲たりしに、快川弟子の南華に、法の絕えなん事口惜。とても逃る可きにあらね共、樓より飛びて死候へ、と云ひしかば、南華飛びたりしに、群りたる士卒の鎗ぶすまを作りたる者共鎗を伏せたりしかば、南華助かる事を得て、後豐後月溪寺に在りと言へり。續いて飛びたる者十六人有りと雖も、其の名傳はらずとかや。