光秀信長を弑する時、秀吉備中より引返さる。此時備前の浮田八郞秀家幼少なれ共、長臣老將の面々如何なる謀あるや料り難ければ、先使を岡山の城に遣りて、一刻も疾く馳せ上り、弔軍を志候。岡山にて相謀べし、と云はせられける。浮田は固より光秀に心を通じければ、秀吉の歸路を塞ぐべきや如何せん、といふ處に、斯く告げ來れば、然らば城中にて討ち取るべし。願ふ處の幸なり、と窃に悅び合うて、其謀をぞ相議しける。秀吉六月七日の明がたに高松より引き返し、午の刻計に宮內に著きて、軈て岡山に赴くべし、と言ひ振らしけるが、俄に霍亂したりとて打臥しければ、秀家の使來りたるに、近習の者共出で逢ひて、只今霍亂にて吐瀉せしが、腹の痛み少し止みて寢入り候、と遇ひて時を移す。其間に秀吉は奧州驪といふ名馬に乘り雜卒に雜はり、吉井川を渡り片上を過ぎ、宇根に馳著けたれば馬疲れたり。偖て使を岡山に遣りて、急ぐ事の候て脇道を通りて過ぎ候ひぬ、と言はせられしかば、浮田の人々皆呆れけるとぞ。