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○備前國福岡城合戰福井小次郞歌を遺して討死の事

卷之五 第28話 · 段落 5 · NDL 1078984 114コマ L

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備前は元赤松氏世々領せしに、嘉吉元年赤松滿祐滅亡の後、備前をば赤松相摸守敎之に賜はり、敎之が代官小鴨大和守備前に有り。應仁の亂の後、備前津高郡金川村玉松の城主松田左近將監元成を細川勝元相語らひしかば、元成兵を集め小鴨を攻めんとするにより、赤松が家人散り〱になりし者共元成に與し、小鴨を攻め落しぬ。赤松兵部少輔政則元成を賞して伊福の鄕に置きぬ。山名宗全細川勝元共に病死の後、京都は少靜かなれども諸國は彌大に亂れ、松田が一族共備前西郡の中數多押領す。政則は將軍家より功を賞せられ、播磨、備前、美作を返し賜りぬ。山名右衞門督政豐之を怒り、文明十一年九月京都を出て但馬の國に馳せ下る。斯れば政則も播磨に馳せ著けて、此次手に備前の松田が恣に攻め取りたる所を治め正さんとせり。元成此由を聞き兵粮用意の爲にしたる所は返すべけれ共、伊福の鄕に於ては、軍功に依りて賜はりたる處なれば返すべからず。是は事に托して我を打亡さんの謀ならん、とて金川に城を構ふ。此城は麓には大川流れ峯高く、四方嶮にて要害よき地なり。然れども後卷の手段を謀り、備後國山名俊豐に告げて備前を切取り進らす可し、と言ひければ、俊豐是を悅べり。政則備前に赴き、松田が押て己が地にしたる所々を取り返しければ、文明十五年九月、山名も備後の尾道を出て同國國分寺に著き、三千餘を驅催し、十一月七日備前の國に打入りしかば、松田が一族相集り、邑久郡福岡の城の西北の山に陣取りたり。福岡の城は東西に大川流れ、中に島山有るを城に據りて政則の守護代浦上喜三郞則國を始として二千餘人立籠り、川上の瀨は長船右京亮等に野伏を添へて陣取りたり。十一月二十一日押寄せて合戰あり。浦上が家人に楢村與三兵衞、同又四郞とて兄弟あり。是より前に元成に奉公しける因有りしかば、密に語らひて十一月二十三日夜半風烈しき便に陣屋に火をかけたり。寄手內通に力を得て軈て攻め寄せたりしに、城中嚴しう支へ戰ひて追返す。其後事顯れて楢村兄弟を搦め捕り、之を誅しぬ。寄手其後相謀りて、十二月十三日に又富岡といふ小山に兵を出す。城よりも打つて出で散々に相戰ふ。寄手も城兵も討るゝ者多し。
福井小次郞は元京都の人なりしが、四歲の比、父源左衞門當國の在番の時連れ下り、城中に在りしが、玆年二十一歲なるが、其日の軍に父子の間を敵味方に押隔てられ、父は城中に入りたると思ひ、走り入りて尋ぬるに見得ざれば、又城外に打出で、寄手に向ひて福井小次郞と名乘り、縱さま橫さまに切つて廻りしが、餘りに戰ひ疲れしを、家人肩に掛けて城中に引入れしに、淺手深手二十六所被りければ終に死にたり。父城に歸りて小次郞が手箱を開きて見るに、數多書き置きたる其中に、母の方へ幼少より別れ參らせて、此儘に討死せば御歎有らんこそ心に懸り候へ。暫時此世に殘り給ふとも終には逢ひ奉るべきにて候へば、思し召し分けて慰ませ候へ、と細々と書きて、奧に、
生れにし親子の契りいかなれば同じ世にだに隔てはつらん
と書きたりしに依りて、思ひ定めたる討死なり、と人皆惜みけるとぞ。