○土方三九郞武功の事
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賞功薄かりしかば土方、岡本彌一右衞門、渡邊佐左衞門、上田丹波と言合せ出奔しけり。土方が養母を百姓の許に隱し置きたるを、豐氏番人を附けて守らしめられしかば、三九郞歸りて、養母を人質に召捕られし上は、兎角の事を申すに及ばず腹を切らん、といふ。豐氏、尤なり、とて許されて元の如く仕へ居しかども、同じく立去りしものの思ふ所も有り、とて養母を打具して又出奔し、加藤淸正に五百石にて仕ふ。豐氏かまはれしかば落ぶれて年月を經る所に、外舅中內惣左衞門といふ者、豐後に有りて招き寄せたり。中內は長曾我部が長臣なり。大坂の事起るに及びて、長曾我部と共に大坂に籠りしかば、三九郞も打具したり。元親旗を二つに分け、國澤掃部と土方に預く。三九郞此時六左衞門と言ひけり。五月六日に矢尾の堤森有る所に東に向きて押しける時、朝霧深く物色定かならず。森の南より紺地に白もち附けたる旗を押立て敵寄來る。堤狹ければ旗を引下して立つる處に、敵は藤堂の先陣にて旗を堤の下に押下すを見て、敵は逃ぐる、と言ひて馬より飛び下り突いて懸るを、元親大音あげ、鎗を橫に持ち引附けて突崩し候へ。一人も猥に懸る可からず、と下知し、十分に敵を引受け一同に㗢と起立ちて、切崩し追討にしける所に、渡邊勘兵衞押來る。六左衞門散々に戰ひ鎗も歪みけるが、後には敵の鎗を奪ひて働きけり。斯る所に元親先陣敗北し、掃部も討たれ、大坂の諸陣皆破れしかば、三里許が間援くべき味方も無く、元親も久寶寺を指して引退きけるに、勘兵衞慕ひ來り、鐵炮を搏懸くる。三里が間にて旗竿過半打折りけれども、旗帛は一つも捨てず、皆絞らせて城に持たせ歸りけり。落城の日元親僅に士十二人打具し、八幡の方に落ちたりしを、六左衞門も從ひしに、元親、汝等疾く是より思ひ思ひに落ちよ、と言へ共、何地までも附添ひ申さん、と言ひけるを、元親、志はさる事なれども、遂に我爲によからざる間落ちよ、と言ひしかば、中內一人1留りて其餘は落行きけり。六左衞門、其子孫今池田の家に仕へてあり。
- 誤植內一人 — 底本は「一」の活字を横倒しに組む(縦線に見える)。