關ヶ原の亂の時越後に一揆起り、堀左衞門督秀治が臣小倉主膳が下倉の城を攻むる。堀監物が子丹後守直寄、坂戶の城にて斯と聞き、後卷に駈向ふを、敵引違へて坂戶を攻めば如何あらん、と云ふ者有り。直寄未だ下倉を救はず。敵此城に攻め來らずば、敵の旗先をだに見ず口惜かるべし、と言ふより早く打出でて下倉に向へば、小倉も門を開きて切つて出づ。直寄後より一文字に突懸り、一揆の長田丸右京を打取りたり。此告を坂戶にて書かする時、勝利を得候、と書かせしかば、如何あらん、といふに直寄嘲笑ひ、打負けば戰場の土とならんに、と云ひて出でられけり。一揆柿崎、齋藤已下五千許猶山に據り、前に平田を當てて陣しければ、直寄、昔太閤の前にて、允長老の孫子を讀みしを聞きたるに、兵は以て㆑正を合ひ以て㆑奇を勝つといへり。吾今日奇を以て軍すべし、とて、山中數馬、速水織部に馬印を渡し、直寄は六百許引分けて林の中に待ち居たり。一揆馬印を見て進み來る時、林の中より㗢と駈出で、直寄眞先に進みて思ひも寄らぬ不意を討つ。一揆二百餘討取つて切崩したり。東照宮御感狀を賜りぬ。此年二十四歲とかや、後に十萬石を賜りけり。
○越後國一揆堀直寄武功の事附千利休が事
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直寄は秀政の長臣堀監物直政の次男なり。十三歲にて陪臣なれ共太閤の小姓に召出され、左右を離れざる寵臣なり。初三十郞といひけるが後丹後守と稱す。太閤或時茶室に入りて火を點し炭を入るゝ時、千利休が幽靈現れ來て黑き頭巾を冠り、爐の傍に座し居たるが、眼の中より光生じ息に火を吐く。左右に有りける侍女恐れ合へるに、太閤炭を入れ終りて、無禮なり、とてはたと睨まれしかば、利休が形退きて坐す。太閤常の居間に出で、丹後守を呼んで、化物數奇屋に有り。叱り來れ、と言はれけり。直寄今年十五歲なり。卽ち行く時、廊下の窓戶皆閉ぢて、偖數奇屋に入りて見れども何も無し。歸りて斯くといへば羽織を與へらる、1利休は茶の湯を好みて世に名あり。天正十八年、秀吉南禪寺より黑谷へ出でらるゝ山際の道にて、女房の下部に破籠持せ、山々の花を眺めて靜に來りしが、秀吉の先拂の者を見て、花の木蔭に立隱れたるが、言ふ許無く美麗なりしを、問はるゝに、利休が女にて鵙屋に嫁し、今は獨住なる由聞きて、宮仕へさせよ、と强ひて呼び出されしに、夫に別れし後悲しみの淚乾かず、とて從はず。利休に强ひられしに、女を商したりとて人に言はれんが口惜し、とて出さず。秀吉利休を憎まれしに、利休木像を作り大德寺の山門に置きたり。太閤、山門は天子を始として通らせ給ふ、頭上に然する事無禮なり。且茶の器の價に就て私有りと聞く、とて天正十九年二月、利休を誅せられけり。利休小座敷に茶の湯をしかけ、弟子の宗巖と常の如く茶の湯終りて、夫々に形見を分ち遣りて後自害しけるとぞ。
- 誤植與へらる、 — 底本は文末を「、」で終える。「。」の誤りか(次の列は別の話題)。
直寄幼少の時、紙手兒、土手兒、雛樣の物を玩びて、人の贈るにも他の物は悅ばず。されば人每に贈りける程に、大なる簏に入れて有りしを、人々怪み思ひけるに、常に人無き所に彼の手兒を並べ、武者押陣取をして戲れ悅びしとぞ。