家康公駿府に於て御伽衆の中より、大坂御陣以後、去る五月七日若江村に於て、井伊掃部頭家來三人にて敵一人を討取り、三人相討と有㆑之に附、掃部頭委細に吟味相遂げ候へば、相討に極り、今一人の申口相違に附、掃部頭不㆑思、被㆑致㆓仕置㆒候へ、と申附け候由申上げられ候へば、其義には兎角の仰もなく、何も聞えし。惣じて物ごとに餘計と言ふこと無く、切つめたる如くなるは宜しからず。就中武邊等の義は餘計の有り候が能なり。子細は織田信長未だ小身の節、佐々成政と前田利長と兩人にて敵一人を突倒し、成政、利長に向ひ、其方敵を追著き倒されたる義なれば、首上げられ候へ、となり。利長、我等は敵を突倒したるといふ迄にて、鎗合の義は御自分なれば、首を其方揚げられよ、と互に辭退仕り候處へ、柴田權六も馳著き、左樣に兩人辭退の首ならば、中にて我申受くべし、とて首を上げ、我等高名の證據の爲め兩人にも來り被㆑申よ、とて、三人同道にて信長の前へ出て權六申候は、此兩人にて敵を突倒し、首を取れ取るまじきとて、吟味合候所へ參りかゝり、首を某取て參り候、と申候へば、信長公御聞なされ、三人共大に賞美致され候由なり。右三人共に武邊に餘計有る故なり、と仰せられ候なり。