福島左衞門大夫正則の內伊藤伊右衞門は、武田勝賴を討奉りし士なり。伊右衞門が咄とて津田幸庵語られけるは、甲州滅亡の時勝賴御父子のしれず、瀧川左近一益先手にて國中を尋ぬる。田野の奧天目山の麓に、落人の男女五六十人隱れ有㆑之由にて、押寄せたるに、皆々兵粮に飢ゑ、働く事不自由なり。何の手も無く討取る。然る所へ瀧川旗本より早飛脚有㆑之、勝賴公信州高遠へ取籠め候間、早々その本より罷歸るべし、と告ぐる故、是まで來たる證據に首共を馬に附け歸るべし。府中へ歸りたれば、勝賴高遠へ籠りたるも風說にて沙汰なし。田野にて取りたる首共は、皆溝堀へ捨つる。然る所に地下の夫共、其溝の前にて皆頭巾を取り、頭を地に附け一禮して通る。皆々見て、己らは溝堀へ何とていんぎんにするや、と笑ふ。百姓共申候は、あの堀中に屋形勝賴公御父子の御首御座候。數十代の御主と存禮仕り候、とて泣く。皆々驚きて其首共を取上げ、勝賴公御首と云ふを、城介殿御座の間の床かんなかけに載せ置き、殘の首共は庭に置き、城介殿宣ひけるは、勝賴の首を瀧川內にては誰か取りつらん。同くは一益が甥瀧川義太夫が取りたるならば、其聞えも可㆑然と仰せられ、まづ瀧川義太夫を召し、奧の口へ召され、勝賴の首を御見せ、是は汝が取りたる首か、と御尋、義太夫よく見て、是は拙者取り候首にては無㆑之、と申す。則ち庭へ召され四十許の首を御見せ候へば、其內首一つ義太夫取出し、是は私の取り候首、とて撰り出す。則ち土屋惣藏が首なり。義太夫を御戾しなされ、伊藤伊右衞門を召して庭の首共を御見せ、此內に汝が取候首は有るか、と御尋、伊右衞門、則ち殘らず見て申上候は、此內には私取り候首は無㆑之、と申上る。御座の間へ召し、勝賴の首を御見せ候へば、伊右衞門見て、私取り候は此首、と申す。城介殿、汝が取りたる證據は如何に、と御尋。首の切口に、私乘り候馬栗毛粕毛の毛血まじりとり附有㆑之候。田野より鹽手に括り附、道にてすれ候に附如㆑此、と申上る。御覽候。實も栗毛の馬の毛附きたり。其時城介殿御意には、汝は冥加に叶ひたり。勝賴の首を取りたり、と被㆑仰となり。近年の書物どもを見るに、事々しく働きて討死し給ふ樣に書きたるもあれども、我其時は小平治とて瀧川方に居て、伊藤伊右衞門とは傍輩なれば、まのあたり見たるに、左樣にてなし。勝賴は鎧櫃に腰をかけ太刀にて防戰ひ給へども、飢疲れ給ひ何の働もなく、伊右衞門が討ち奉る、と板倉周防守重宗宅にて津田幸庵物語なり。