越後浪人大井田監物は、後越前黃門秀康公に御使番にて奉公仕る。其仁の筆記に曰く、越後國は代々上杉家領し候處に、永正十年六月二十日、上杉顯定と家老長尾爲景と妻有庄長森原にて一戰候。顯定討死し、爲景則ち上杉庶流上條の上杉定實を婿にとり、我子長尾六郞を定實の養子分にして、顯定の跡に立て上杉を繼がする。爲景八男猿王長尾景虎後號謙信其性尋常に替り、利根聰明にして大膽なる故、爲景氣に違ひ、出家にせん、とて下越後掾原淨安寺へ遣す。後見金津新兵衞供して、下越後へ赴く。米山越なり。米山は上り四里下り四里なり。猿王纔に八歲なれば、步侍の脊に負はれて山を上る。米山の峠に草蒿堂あり、米山寺といふ。其の堂の椽に休みて破籠取り出し、猿王にも進らせ、供の侍共中食する。乳母夫の本條美作守も供なり。猿王幼ければ堂の椽に廻り遊び居られし。米山は大山にて、峠の藥師堂よりは頭城府內を目の下に見下す所なり。猿王は故鄕府內の方を眺め、淚ぐみて、繼母の讒言にて、浪人する事無念なり。成人して本望を遂げば、此筋にて一戰すべし。殊に此山は府內を目の下に見おろし、能き陣場なり、と宣ふ。本庄美作守、金津新兵衞舌を振ひ、感淚を流し、其言を忘れ給ふな、と悅ぶこと限りなし。是則天文六年五月、猿王八歲の時なり。九年の間猿王淨安寺にて學問せられけれども、出家の心無し。天文十四年四月、長尾爲景、宇佐美駿河守定行兩旗にて越中へ取り懸られ候。松倉城主唐人兵庫、山下左馬介籠り候を、宇佐美駿河守三千にて取詰め攻落し、山下左馬介其外二百餘人討果し、松倉城を乘取り、直に其城に罷りあり候。爲景は八千餘にて、放生津の城へ取り懸り候。此城には德大寺大納言實規卿其外公家衆九人籠られ候。其の子細は、其頃京都大亂にて諸公家衆、皆模寄々々に國々に落ちらるゝ。德大寺殿は越中國畠山尾張守尙慶の外孫故、其便にて越中へ御越し候。四月九日爲景は城を攻落し、德大寺實規を始め公家九人、上下七百餘討果し、城を乘取り候處へ、畠山留主居、推名、神保、遊佐、郡須等加州の一揆共を謀らひ後卷に出候加州は一向宗一揆にて候。僞つて降參仕ると申し、道を作り陷穽を構へ引入れ候。爲景加州へ押し候時、推名、神保、遊佐等加州へ揆起り合ひ候。爲景人數陷穽にかゝり大方討たれ、爲景も討死、惣敗軍にて士卒散々になり、越後へ引退き候。宇佐美駿河守定行は、十一日踏止まり、敗軍を集め、堅固に板倉1を引拂ひ、越後へ歸陣する。越中勢後を附けんと存候へども、宇佐美が武勇に怖れて一人も附けず、爲景討死なれども、其子上杉六郞國を治めて、別條無し。此年猿王は十六歲なり。爲景討死と聞き、忌中の追善懇に沙汰し、三年過ぎて義兵を擧げ、越後を打平らぐべきと工夫を廻らし、宇佐美駿河守を謀らひ候に、駿河守も、猿王の器量只者に無きを見受け、一味仕り候。天文十六年猿王十八歲、元服して長尾平三景虎と名乘り、同四月九日三年忌を弔ひ終つて、義兵を擧げ、椽尾2城に楯籠る。宇佐美駿河守、本條美作守馳加はり候。兄上杉六郞これを聞きて、妹聟長尾越前守政宗3に七千餘附けて、椽尾4の城へ取懸り候。景虎矢倉に上り寄手を遠見して、今宵寄手は引取るべき物色なり。其退口へ突きて出でん、と申され候。宇佐美駿河守申候は、長途を寄せ來り候敵、爭で空く引取るべく候哉。突出で候處如何、と異見する。景虎の白晝より寄手を見るに、軍兵計にて小荷駄無し。長陣の敵にてなしと思ふなり。突いて出よ、とて夜半に切つて出る。景虎の積の如く政景退口へ切つて懸り候間、政景勢總敗軍になり候。景虎勝に乘りて追討にして國中へ討つて出づる。宇佐美、本條も押續いて打て出で、柿崎の下濱に陣を取る。是により兄上杉六郞八千にて、米山を越えて出向ひ候。景虎一戰を取組み候時、坂織部後號鬼小島度々介、吉江織部を始め、散々に戰ひ候處へ、宇佐美駿河守麾を執り橫入に懸り、本條美作守は備なりに靜々と懸り候時、六郞打負け敗軍仕り、米山へかゝり府內へ退き申候。景虎靜々眞先に追討に進み申さる。米山東坂本にて景虎申され候は、何と致し候や。殊の外に睡く候間、暫く休み打立つべく、と小家へ入りて睡り申され候。駿河守これを見て、これは如何なる御事にて候や。今敵を追立て候事は、竹を破るが如く、其勢失ふべからず。米山を追越し候はば、頭城郡へ打出で、府內の城を乘取るべく候。早や打立んと催し候へども、景虎は眠りしとて、高鼾かいて臥し申され候。駿河守樣々異見すれども、不㆑聞臥し申され候故、了簡も無し。運の極の、と云ふ。扨景虎は上杉六郞人數米山峠を三分二ほど越えたると思ふ時分、早貝を吹かせ、景虎打立ち、米山へ追上り候。如㆑案六郞は下り坂に赴き候處追附、六郞人數龜破坂より追落され、死する者數を不㆑知。後に宇佐美諸人に向つて、今日景虎米山坂にて逃ぐるを不㆑追して、眠り候を、各合點致され候や、と尋ね、皆々、合點仕らず、と云ふ。宇佐美の曰く、府內勢米山へ逃上る時是を追うて、若し敵に返され候時は、上手に敵を受けて進みせば、返す事必定なり。景虎其の段を積り眠る眞似して、登坂を敵に登せ濟し、下りに赴き候時、追討ち給ふ。我若年より數十度の事に逢ひしかども、其積り無きに、景虎十八歲にてこの智惠は、軍神の化身かと存候、と申候。景虎は府內城を攻め陷し、六郞に腹切らせ、其後申され候は、主君の跡を嗣ぎたる兄を殺し候上は、國を取る望なし、とて、府內を出で高野山へ赴き申され候。關の山迄出候時、上杉家老その談合して曰く、景虎無くば、越後に重りなく我儘になり、他人の手へ越後を取〓るべく、とて追駈け引留むる。景虎居給はずば、越後は誰か治むべく候や。上杉代々の骨折水になり候はん事心外なり、と達て異見する。景虎、さらば以來共我ら下知を背くまじくと、起請文を宿老中いたされ候はば歸るべし、と云ふ。其時上杉家臣二十六人、已來ともに御意次第に仕るべく、と起請文を書く。そこにて立歸り、春日山の城に入り、上杉宣實5の上條に居給ふと申合せ、越後を治められ、長尾越前守政景を引附け、上州平井の城に、管領上杉憲政へ隨ひ申さるに附。扨年頃不義ある者、野心多き頭を上る者、大身共十六人、林泉寺にて切腹申附くる。然れども前の起請文有る故に、餘人とかく言ふ事ならず。景虎越後を踏靜め、これ皆宇佐美駿河守に相談して如㆑此。謙信は、上杉を繼ぎたる兄を殺し、子孫を立つる事、天道に背く、とて十八歲に出家して、不識庵心光謙信と號す。二十二歲にて上杉憲政の讓を請け、上杉政虎と號す。永祿三年五月上洛して、公方光源院義輝公より一字拜領し、輝虎と改む。菊桐澤潟瓜の紋の幕、網代の輿、文の裏書御免にて、關東管領になり、越後、佐渡、東上野、越中、能登、飛驒、加賀迄手をかけられ候事、凡人にては有るべからずと云々。
- 誤植板倉 — 底本「板倉」。前文の「松倉城」から「松倉」の誤植か。
- 誤植椽尾 — 底本「椽尾」(振り仮名「えんを」)。「橡尾」(栃尾)の誤植か(続帝国文庫本は「橡尾」)。
- 誤植長尾越前守政宗 — 底本「政宗」。同じ頁12列・394頁左8列では「政景」。「長尾政景」の誤りか。
- 誤植椽尾 — 底本「椽尾」。「橡尾」(栃尾)の誤植か(前の列と同じ)。
- 誤植上杉宣實 — 底本「宣實」(振り仮名「のぶざね」)。同じ話の前段では「定實」。「定實」の誤植か。