天正十八年秀吉卿北條家を退治として、小田原へ發向の前方、家康公も頓て御出陣の前、駿府近邊花盛の候を御覽遊す由、御城中御矢倉の諸方能見え候所へ御上りなされ、御老中御供にて、御菓子御酒等下され、其後御咄の次でに、各へいつぞ尋候はんと存じながら取紛候。先年長久手一戰の時、晝の合戰には我ら勝にて小牧の要害へ取入り居候處、秀吉は二重堀の陣場より一戰の心掛にて馳來られ候へ共、日暮に及び、小牧城攻は明日の義と有りて、其夜龍泉寺川原に野陣を張り居られ候處を、夜軍仕かけ候はば然るべき由、各勸められ候へども、我等不㆑用して其夜中に小牧の陣所へ引取り候。其夜仕かけ候はば、太閤を必打留め申べきと有る心にて候か。左樣候はば勝利は疑なしと存ぜられ候や、と御尋につき、忠勝申上げられ候は、直政、康政は晝御一戰にも逢ひ候へども、私は小牧の御留主に居申し、一入夜軍望しく存候。太閤を打留め候處までは心附申さず、と申上げらる。井伊、榊原も申され候は、龍泉寺表へ差遣し候伊賀、甲賀の罷歸り、上方勢の夜守、夜合戰の備もなく、無法の陣取と申候に附、御仕掛候はば御勝利と存奉り候。秀吉を是非打取り候處までは考へ申さず由申上げられ候。權現樣御聞き遊され、各左樣有るべくと兼て存ずる事なり。其節夜軍にかゝらば必ず勝つべしとは思ひ候。然ながら太閤を打漏し候はば、散々のこと候と思ひ、右趣を川ひざる1なり。其子細は、秀吉は一度天下一統の大功を立てんと含まれ候。然るに長久手十萬の勢、味方織田合せても僅三萬に不㆑及。これにて戰陣も譽なるに、晝の一戰勝つこと十分の仕合なり。又夜軍に勝つて秀吉を打洩し候はば、至極の負を憤り、天下の望より先德川家を潰すなりとの所存出で候はば、無益の義なりと存ぜらる。其心入故此度も北條を押たふし、夫より出羽奧州まで手に入れ、天下一統の功立つべくとの心掛と相見え候、と仰せられ候。何れも感心奉りしとなり。
- 誤植趣を川ひざる — 底本「川」。「用」の誤植か(「用」の横画欠け)。