家一覧 › 第五 › f052
板倉
この家によく出る人物・地名
人物 板倉勝重 28板倉重宗 16徳川家康 10板倉好重 5徳川秀忠 4板倉重昌 4板倉重矩 4板倉重良 4松平好景 3渋川義顕 2松平伊忠 2板倉定重 2徳川家臣永井善右衛門 2加藤正次 2牧野親成 2板倉重郷 2板倉重形 2板倉重種 2板倉重宣 2板倉重直 2源義家 1足利泰氏 1吉良義昭 1板倉忠重 1
地名 関東 3京都 3摂津国大坂 3三河国夏山 2下総関宿城 2三河国小美 1遠江高天神城 1駿河国府中 1京都六条 1本願寺 1美濃国関ヶ原 1上野国安中 1伊勢亀山城 1江戸城西丸 1肥前国島原 1西国 1九州 1摂津大坂城 1摂津大坂城京橋口 1下野烏山城 1
- 天正十六年德川殿 — 底本のまま。家康の駿府移住は通説では天正14年
初め勝重を召され、此職の事仰せ下されしが、其任に堪ざるよしを固く辭し申けれども更に御許しなく、勝重さらば宿所に罷り歸り、妻にて候ものと謀りてこそ、御返事をば申べけれと申す、德川殿笑はせ玉ひて、さもありなん罷り歸りて相謀れと仰せ下さる、妻は勝重が歸るを迎へて悅ふべき事ありと告知らす人あり、如何なる幸や候と云ひけるに、勝重物をも云はず、ほくそゑみて、衣裳ぬき棄て、坐になほり、妻に打向ひ、されば今日召されし事、餘の義にあらず、此度御座所を移さるゝに依て、彼の町の奉行たるべきよしを仰せ下さる、如何にも叶ふべからざる旨を辭し申せども、御許なし、さらば我家にかへり、妻に謀り候はんと申て罷歸りぬ、さて御事は如何にや思ふといふ、妻は大に驚きて、あな淺まし、わたくしでとなどならば、夫婦はかるといふ事もこそあれ、公にて、かゝる事や、のたまふべき、まして是は仰せ下さるゝ所なり、殊に其職に堪へ堪へじは、御心にこそあるべげれ、みづから如何で知り候べきといへば、勝重いや〱、我この職に堪へ堪へじは、我心一つのみにあらず、御身の心による事にて侍るぞ、まづ心を沈めてよく聞き玉へ、古より今に至り、異國にも本朝にも、奉行頭人などと云るゝ者の、其身を失ひ、其家を亡さぬは稀なり、或は內緣に就て、訴を斷る事おほやけならず、或は賄賂に因て、理を判つ事わたくし多し、これらの災は婦人より起る所あり、我れ若し此職奉らん後は、親しき人の云ひよらん事なりとも、訴訟の事、執り玉ふまじきか、僅の贈もの參らせて候事ありとも、苞苴のもの受たまふまじきか、これらの事を初として、おことは勝重の身の上、如何なる不思議の事ありとも、さし出て、もののたまふまじきよし、固く誓ひ給はざらんには、勝重此職に任ずる事は、如何にも叶ふべからず、さればこそ、御身と謀るべしとは申たれといふ、妻つく〲うち聞て、誠にのたまふ所ことわりにこそ侍れ、みづからは、如何なる誓ひをも立てなん、とく參りて、畏まらせ玉へといふ、勝重大に悅ひて、神にかけ佛にかけて、かたき誓ひたてさせて、此上は思ひ置く事なし、さらば參らんとて、衣裳ひきつくろうて出づ、袴の後腰をもぢりて着たり、妻うしろざまに見て、はかまのうしろあしう候というて、立寄てなほさんとす、勝重聞きもあへず、さればこそ、我が妻に謀らんと申せしは誤たざりけれ、勝重が身の上の事如何なる不思義ありとも、さし出て物いはじと誓ひしは、今の程ぞかし、早くも忘れ給へりな、この定ならんには、勝重職うけ給る事、叶ふべからずとて、また衣裳ぬき捨てんとす、妻大に驚き悔て、さま〱の怠狀まゐらす、さらばその言葉、いつまでも忘れたまふなといひて、御前に參る、德川殿如何に汝が妻は何とか云ひしと仰せければ、妻にて候ものが、愼みて承れと申侍ると申す、さこそはあらめとて、大に笑はせ玉ひしとなり、
天正十八年關東へ移り玉ひても、職元の如く、慶長六年の春、京都に所司代を置き玉ふべきにて、勝重幷に加藤喜左衞門を擇ひて上せらる、加藤は六條にして、本願寺の寺地を賜ふ時に私の事ありとて、罪蒙る、其後は勝重一人職に在り、同き八年二月大御所、將軍宣旨を御拜賀の時、從五位下に叙し、伊賀守に任ず、此頃は關が原合戰の後、天下草創の初めにて、士も民も威にのみ服して、いまだ德に懷かず、まして、豐臣家、京近き程にまし〱て、都鄙のうち、さすが昔を忍ぶ者の猶少からず、人の心も定まらず、上は一人より三公九卿諸衞百司の事を執し、下は神職寺務農工商賈の事に至るまで、悉く皆此職にすべ司る、云ふ斗りなき要劇の職なれど、事一つとして淹滯なく、物一つとして廢缺なく、天下皆其能を稱せずといふ者なし、此人の事、世に傳る事極て多し、悉く擧ぐるに暇あらず、當時の智ある人に、勝重の事を尋ねしに、此人の訴を斷わるに、訟へにまけしもの、おのが罪なる事を悔みて、職を恨まずと答へしといふ、此一言にて、此人の才と德とを知るべし、
大坂の兵再びまで起りしにも、勝重かくて在りければ、王城のうち動きなく、叡慮も殊に安かりけり、元和五年從四位下侍徒1になさる、齡既に傾きしかば、職頻に辭じ申けるに因て、同き六年御許しを蒙て、子息周防守重宗、父が闕に補せられ、勝重年積りて八十三歲、寬永元年四月廿九日に卒しけり、
- 侍徒 — 底本のまま。「侍從」の誤植とみられる
勝重頻りに職を辭しけるに、將軍家今暫くかくて候へ、いまだ汝に代りて此職をさむべき人なしと仰られて、御許あらず、なほ請ふ事止まざれば、されば汝に代るべき人を選みて薦めよ、いまだ其人を得ずと仰せ下さる、勝重都に候ひて、多くの御家人の事、如何で知るべき、此程の人の中に、などか其人のなかるべき、よく人々に御尋ねあるべきにて候、さりながら、なほも勝重に進申せと侍らんには、子にて候ふ周防守重宗は、密夫の首きるべき者には候はず、若し彼を以て父が闕に補せらるべく候やと申ければ、將軍家大に悅せ玉ひ、重宗を召して、京職に補せられ、勝重御免を蒙る、重宗辭し申けれども、子を知るは父に若かずといふ事あり、汝が父の薦めにてあれば、辭する所あらじと仰せ下されしかば、力及はず、重宗なく〱父に向ひ、重宗如何で此職に堪へ候べき、なさけなうも御推擧に預り候者かなと、怨みかこつ、勝重打笑うて、おことは世話を知り玉はぬよな、爆火を子に拂ふといふ事は、此父が事にて候ぞと答へしといふ、
周防守重宗は、勝重が嫡男なり、將軍家に近く仕へて、御扈從組の番頭となされ、小十人歩行衆等の頭を兼ぬ、大坂前後の戰に、一人して三つの職を兼ね司れり、元和六年三十五歲にて父が薦めに依て、京職に補せられ、一說に元和五年十月と云、職に在りし事凡そ三十餘年、人の敬ふ事神明の如く、愛する事また父母に似たり、父も子も同し名臣にて、君の寵恩尤も厚く、位、從四位の上に昇り、官、左近衞權少將に進む、承應三年十月廿九日に御免を蒙て、明曆二年八月四日下總國關宿の城を賜ひ、五万石、按するに、重宗職とけしこと、承應三年たるのよし、諸役人系圖幷に諸役人帳に載する所なり、明曆元年の日記を按ずるに、八月廿六日牧野佐渡守は、寄騎五十人同心百人を預けらる、十月十二日御暇を給ひ、十一月十六日板倉周防守が家に移ると云云、然れば板倉牧野が交替は、明曆元年の冬と見えたり同き年十二月朔日七十一歲にて關宿の城に卒す、
此人の職にありし時の名譽、天下の稱する所、また擧て數ふべからず、其要を取て、一條をこゝに註す、重宗職に任じて後、毎日に决斷所に出つるに、西面の廊下にして、遙に拜する事ありて、决斷所に至る、此所には、茶磨一つをすゑ置き、明障子を引たてゝ、その內に坐し、手づから茶ひきながら、訴へを聞分つ、人みな此事どもを不審しあへり、されども、問ふ事も得ならず、はるか年經て後、問ふ人ありしに、答へて曰く、まづ决斷所に出る時に、西面の廊下にて拜する事は愛宕の神を拜するなり、多くの神の中に、殊に愛宕は靈驗あらたなりと聞し程に、所願ありてかくは拜しぬ、その所願といふは、今日重宗が訴へを、ことわらんに、心に及はん程は、わたくしの事あらじ、若し過ちて、わたくしの事あらんには、たち所に命を召され候へ、年頃深く賴みまゐらする上は、少しも私心あらんには世に永らへさせ給ふなと、日毎に祈誓するにて候ふ、また訴へを判つ事の明かならぬは、我心の事にふれて動くが故なりと思ひなしぬ、よき人は自ら動さざらんやうこそあらめど、重宗それ迄の事は叶ひ難く、たゞ我心の動くと、靜なるとを試るには、茶をひきて知る、心定りて靜かなる時は、手もそれに應じて、磨の環る事平にして、きしられて落つる所の茶、如何にも細かなり、茶のこまかに、落る時に至りて、我心も動かぬと知り、其後やうやくに訴へを判つ、また明障子を隔てゝ訴へを聞く事は、凡そ人の面貌を打見るに、憎さげなると、憐がましきとあり、かたましきあり、其品多くしていくらといふ數を知らず、見る所の誠しきと思ふ人の云ふ事は、誠と聞かれ、かたましきと見ゆる人のなす事は、何にても皆詐りと見ゆ又あはれがましき人のうつたへは、まけられたる所あるよと思はれ、にくさけなる人のあらそひは、ひがことならんと覺ゆ、これらの類は我が目に見る所に心の移されて、彼れが言葉を出さぬ內に、はや我が心の中に、邪ならん、正しからん、まがらん、直からんと思ひ定むる程に、訴への言葉を聞くに至りては、我が思ふ方に其事聞きなす事多し、うつたへのなるに及びては、あはれがましきに、にくむべきあり、にくさげなるに、あはれなるあり、誠しきに、僞りかたましきが、多き事、此たくひ殊に多し、人の心の知り難き、容を以て定めん事叶ふべからず、古へのうつたへを聞くには、色を以て聽く事あり、夫は覆はるゝ所なき人の事なるべし、重宗が如きは、見る所に就て、心おほはるゝ事多し、またさなきだに訟への庭に出でんには恐ろしかるべきに、まして生殺を掌る人を見ては、まばゆくいぶせくて、おのづから云ふべき事も得いはで、罪にも科にもあふ人あらんと思へば、所詮互に面を見も見られもせぬには若じと思ひて、かくは坐を隔つるにて候と答へしとなり、そも〱日々に神明に祈りて、私なからん事を盟ひ、まづ我心を內外より養うて、正しくなして、其後に訴へを聞き政をなす、是しかしながら、君に事ふるに力を盡せしが致たす所なれば、古への循良の吏といふとも、如何で此人に過ぐべき、又或る人の云ひしは、此人官反內貨來の五つともに備りしかば、訴へを聞く事の明かなる事むべなり、但し、かほどの人にも、反の一事をば、人の疑ひ受けし事一度ありき、誠につゝしむべき事なり、一とせ質物の訴ありしに都に代々質取る商人の古法を引き出し例として、殿はいまだ此事は知し召さぬなどいひし事あり、其後ある人盜みし物を質とす、かのあき人とり置きぬ、其事顯れて、盜人罪にふす、かの質とる商人も、夫れに坐せられて、一族盡く誅せられぬ、この罪死にあたらず、されば此商人は、はぢがましく云ひし事ある反報にやと、京童の云ひしなり、これより外には、三十餘年がうち、行ひし所の政事、人の咎むる事あらざりき、後世には有がたき賢臣なりといひしを承りき、
內膳正源重昌は、伊賀守勝重が二男、大御所に近く召仕れ、營中の事を執る、近習出頭人衆と云、慶長十年の夏叙爵、世のひと臙脂內膳と名つく、周防を蘇芳といひ替へて、兄より色の增りぬるとの心なり、大坂の軍、初め御和睦の事なる、城中に行向て、豐臣家の御起請文を受取るべき人を選まれしに、重昌、其年二十六歲、此御使にさゝれ、たゞ一人城に入て、大御所の思召すまゝに、事を調て歸る、大御所かくれ玉ひし後、大相國に仕ふること、大御所の御時の如し、西城に移らせ玉ひし時、御書院番頭を承る、其後寬永十四年十一月肥前國嶋原の賊徒起りし時、追討の使を承て馳向ひ、明る十五年正月元日西國の諸軍勢を率る、城を攻て討死す、其年五十一歲、嫡子主水重矩年廿一歲、父と共に筑紫に趣き、重昌討れて後、父が吊軍せんと、手の兵引ぐし、城中に攻入り、散々に戰ひ、首多く切て引返す、万治三年十一月廿一日大坂の城番となされ、所領加へ賜ふ、一万石を加へ都て二万石なり、寛文五年正月二日の夜、雷大坂の城に落かゝつて、五重の層樓悉く燒失せぬ、思ひも寄らぬ事なれば、城中、城外以の外に周章し、火救はんとて內に入らんとするに、城中の女童は、外に逃け出んと、互ひに門々を爭ひ、出やらざれば、入る事も得ならず、こゝに重矩が守る所、京橋の口は、城門の外を去る事數十步、忽ちに柵を結ぶ、柵の中また門を開けり、兵、門々を守りて、甲乙人の亂入を禁ず、かねて又此邊なる所領の民に下知して、もし城に火あらん時は、是を持ち來りて、其偶を合せて、郞從等が妻子を引つれて行けとて、蛤の貝の半は民に與ふ、其貝の內に、郞從の名をしるす、半は郞從に與て、彼民の名を貝のうちにしるし配分す、此夜かの民共が馳せ來り〱、符を合せて、郞從等が妻子、盡くゐて行きし程に、郞從等身のほだしなければ、一筋に城の守りを堅くし、靜まりかへつて音もせず、かゝる備へ、いくらもありて、世の美談となりぬ、
寛文五年十二月廿三日、關東に召されて、執政の職に補せらる、同き廿七日從四位下に昇る、同六年の七月廿八日所領を加へらる、二万石を加へられて四万石を領せしなり、八年二月の朔日、假に京職の事を行ふべきよしを奉る、政務の事、猛を以て寬を救ふ、法皇殊に其能を稱しさせ給ひ、叡感の事多し、此年十二月の二十三日侍從に任ぜられ、九年從四位上に叙せらる、十年十月關東に歸つて、執政元の如し、十一年二月十日、所領を加へ給ひ、すべて五万石、十二年閏六月三日、下野國烏山の城を賜ひ、明る十三年五月廿九日五十七歲にて卒す、嫡子伯耆守重良天性多病なりしがは1、二男石見守重種を世嗣とす、一說に重良が子重宣、幼より家事を行はしむるとも云、重良父に先たち、寛文十一年五月廿八日卒す、其子越中守重宣なり、石見守重種は、初め叔父筑後守重直が嗣となりしが、兄重良多病なるに依て、實父重矩が世嗣となり、わが子千次郞を以て、重直が嗣とす、寛文十三年重矩が家を繼き、延寶八年九月廿一日寺社奉行となりて、御奏者の事を兼ねまた內膳正となる、
- 多病なりしがは — 底本のまま。「なりしかば」の濁点位置の誤植とみられる