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安藤

第五 · 段落 5 · 780522 24コマ Rから

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對馬守源重信は、河內守賴信朝臣二男、肥後守賴清の曾孫、安藤太郞長基が後胤也按ずるに、賴清は從四位上肥後守、又安藝陸奥等の守たり、家の系圖に曰く、賴清が子美濃守家宗其子三郞大夫家基其子安藤太郞長基なり、長基が子高倉院藏人成基、其子兵庫頭基重、其子判官代業基其後は世繼不詳と云ふ、世又一說あり、安藤元は安倍姓たり、仲麿七世の孫泰平と云ふ、鎭守將軍になさる、其子朝任は鳥羽院の武者所に侍ひて、僧文覺を生捕る賞に藤原の姓を賜ひ安藤左衞門尉とめされしより、子孫相承て安藤と稱す、朝任十一代の孫太郞家重是なりといふ、仲麿の事の如きは詳に國史に見えしかば、論ずるに及ばず、十六歲にて入唐し、七十餘にして、かしこに死す、其子其孫の本朝に來り歸り入るといふ事、國史に見えず、泰平といひしが鎭守將軍たりと云ふ事いまだ所見あらず、又文覺坊が事は、高倉院御在位のほど、治承三年二月の事にて鳥羽の上皇崩し給ひしよ
重信が祖、三河國の住人安藤太郞左衞門尉家重、始て岡崎贈大納言家に仕へ參らせて、德川殿の御時に至る、家重が嫡子木工助基能、德川殿の御時、御旗奉行を承て、元龜二年十二月1三方が原の戰に討死す、男子貳人嫡男は帶刀直次、對馬守重信は二男にてぞ候ひける、直次生年十七歲姉川の合戰に、高名を極めしより長湫の戰に、敵の大將二人まで討て、天下に其名を顯せしに至るまで、度々の高名數を知らず、大御所駿河に御座移されし後、直次本多上野介正純、成瀨隼人正正成と三人、奉書連署の事を承る、其後遠江宰相殿には附られたり、慶長十五年の事なりといふ、子孫今紀伊家の長臣なり、重信童名は彥十郞、成人の後又左衞門と申す、これも長湫の戰ひに高名し、其後中納言殿に附られて、宇都宮の御陣に隨ひ、上方の兵、起しかば、山道の御供す、此年慶長五年四月九日叙爵し、同十五年十二月廿五日上野國吉井の地を賜ふ、五千石、今迄は如何程といふ事詳ならず、十二年に奉行職を承る、諸役人帳を按するに、御納戶頭の中に、安藤又左衞門といふあり、さらば始めは是等の役をも經しなり、十七年十二月廿一日下總國小見川の地を加給ふ、一万石を加へられて、一万五千石を領すといふ、十八年常陸下總等にして所領加給ひ、鹿島結城二万石を給り、三万五千石に至る、一說に此事は元和元年なりといふ、如何あるべき、大坂の兵起し時、將軍家の御供して打立つ、大御所近江國永原に御陣をめされて、早々のぼぼらせ玉ふべきよしを仰せ遣されしかば、御勢をば重信に屬られて、御自らは近習の人々ばがり御供にて上り玉ふ、其後東西御和睦ありて、御上洛ありしにも、重信又御跡に留る事、數日の後、御勢を引ぐして上洛す、明年又兵起し時、將軍の御陣の後に陣し、手の者をば息男重長に下知させ、其身は常に御陣にあり、五月七日の戰に、御勢を下知して戰ひ、城既に落ちて、井伊掃部頭直孝を城中に差遣されし時、重信檢使を承る、其後又御跡に留る事廿日餘り、大坂の事とも沙汰して上洛す、元和五年福島が國除かれし時、重信また御使を承り、息男重長と共に安藝國に向ふ、此年上野國高崎の城を給つて、五万石同き七年六月廿九日六十五歲にして卒す、其男右京進重長家を繼く、重長實は本多藤四郞某が男とぞ聞えける、大坂の城落し時、父が手の者に下知して戰ひ、自らも首切て獻る、其後御書院番の頭になされたり、寬永三年の事なりといふ、さらば父の家つきし後の事にや、役人系圖を按ずるに大猷院樣御書院番五組の頭の中に、右京進重長見えたり、寛永九年十月駿河大納言忠長卿、罪蒙らせ給ひ、重長を以て預人になさる、明れば十年十二月六日、忠長卿、高崎の城にして失せ玉ひぬ、
  1. — 底本のまま。三方が原の戦いは元亀3年12月
寬永日記等の諸記を合せ見るに、寬永九年十二月駿河殿、高崎の城に渡らせ玉ふ、明る十年九月、阿部對馬守重次、將軍家の御使として、行向ひ右京進重長に逢て、御使の旨を傳ふ、駿河殿、初罪宥られ玉ひ、重長に召預けらるゝ事既に終んぬ、されども猶御心改らせ給はず、よからぬ御振舞ひ世に漏ぬる事少からず、きつと其罪を定めさせ玉はん事は、さすがに親しき御中なり、如何でか仰も出さるべき、此上は重長如何にも計らひて、彼の御心より起りて、御自害あらん樣に仕るべき者なりとのべたり、重長畏り承り、暫しは、ものをも云はず、やゝありて後重次に向ひ、重長かゝる仰を蒙る事、尤も不幸の至なり、さりながら、などか仰をば背き候べき、御敎書をや帶し玉ふらん、さらば拜し奉るべしと望む、重次聞て此事、君の御心より出て、重次が口に傳へ、御身が耳に入るべき事なれば、御敎書を下し給はるべき事にあらず、また重次苟も執政の事に加る身として、此御使を承る、何をか疑ひ玉ふべきといふ、重長重て重長が申所、わ殿を疑ひ參らするにもあらず、まして仰を輕んじ奉るにも候はず、そも〱此殿は大相國の御寵子、將軍家の御愛弟、親しくも貴くも、わたらせ玉ひ、古にあつて、六議の中其二つを兼させ玉ふ御身なり、縱令いまかく罪蒙らせ給ふとも、よのつね人臣の例に准し難し、されば執政の重臣、仰を傳へ給ふとも、口づから述られん事は重長たやすく領掌に及ぶべからず、只願くは、御筆を染られて下し給るべきよしを、よきに執し給るべしと云切てければ、重次力なく引かへして、此由を申す、やがて自から御筆を染められし御敎書を帶して、これを渡す、さてこそ重長領掌をば、してんけれ、かくて月を越て後、十二月六日の朝に至りて、重長大納言殿のわたらせ給ふ所を守る侍に下知して、殿のおはします庭に、緣の間少し引のきて、嚴しく鹿垣を結びわたす、殿みづから御出ありて、何故にかくはするぞと尋ねさせ玉ひしに、重長が侍、畏りて、公よりの仰にや候はん、精き事は存ぜず候と申す、障子引建て入らせ玉ひて後は、出させ玉はず、日も既に暮れぬ近く召仕るゝ女房達三人を、宵より皆御暇給はりて、おのが局々に下さる、御傍にはべるもの、女の童たゞ二人あり、酒溫めて參らせよと仰られしに依て、御前を立て、やがて提子もちてまゐる、御盃を取上け玉ひて、めすこと二たびに至りて、今少し溫めてまゐらせよとあれば、一人の童、提子もちて出つ、今一人の童には、汝は肴取りて來れとありしかば同じく御前を立て御酒御肴もち來て見れば、白き御小袖の上に、黑き御小袖に御紋つきたるを打掛て、伏させ玉ひしが、御小袖悉くあけに染みて、事切れさせたまふ、二人の女の童は大に驚き走り出て、かくと告しかば、配所の御供に侍ひし人々、走せ參りて見るに、御わき刀にて、御頸の半つき貫かせ玉ひ、前の方へおし切つて、うつぶしに伏させ玉ひぬ、御年は廿八にぞならせ玉ひける、また御事あるべき五三日前より、御寶物ども長持に入れさせ玉ひ、御手ずさみに書せ玉ひし反古やうの者と同じく、おはします所の庭にして、悉く燒棄させ玉ひき此程より、かく思召たゝせ給ひしにやなど、世には傳へぬ、詳なる事をば誰か知るべき、もし此等の事誠ならんには、重長が申せし言葉、今又一月を越ん程を待て、其後御心つかせ玉ふやうに計らひしは、深き心ありとぞ、見えし其事も皆空しくなりぬれば、あはれなりし事なり、今の世誰かかゝる仰うけて、一月をこえん程を、その事となく打過ぐべき、誠に重長はゆゝしき人にこそ、
明れば十年所領の地加へ給ふ、一万石加られて六万六千石と成、十六年二月十一日寺社奉行の職奉りて、明曆三年九月廿九日卒す、五十八歲一說に六十才、嫡男式部少輔重之父に先立て卒しければ、嫡孫對馬守重貞家を繼ぐ、六万石二男丹波守重好父が所領を分給ふ、六千石、三男壹岐守重常叔父伊賀守重元が世嗣となる、一說に、丹波守に五千石、壹岐守に、千石をわかちたまひしといふなり、