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有馬

第七上 · 段落 2 · 780523 23コマ Lから

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この家によく出る人物・地名

人物 9 7 7 5 4 3 2 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1

地名 3 2 2 2 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1

侍從兼玄蕃頭源豐氏は、村上天皇の御子具平親王の御末、播磨國の住人赤松二郞則村入道圓心に五男、律師則祐が末孫、中務入道則顯1が嫡男也、系圖には、則顯は則祐八代の孫と見えたり、一說に十代の孫と不審、又有馬と名のる事、則祐が次男出羽守義祐、攝津國有馬郡の地頭職を賜りしに依てなり、これより子孫世々有馬郡を領す、筑後守重則が時に至て、播磨の國に移りて、三木郡浦田の城に住す、其子中務少輔則顯、同國淡河の城に移る、太閤いまだ筑前守と申て、當國の守護たりしより、御方に屬す、相摸の北條滅びて後、遠江國橫須賀の城を賜ふ、三万石、但し子息豐氏に賜ひしと見えたり、年老いて後入道し、兵部卿法印になさる、金森入道素玄、德永入道壽昌、これら三人は、當時の故老たるに依つて、殿下御相伴衆の隨一にて、世人三法印と名づく御はなしの衆とも云ふ入道また德川殿にも親しく伺候す、太閤薨じ給ひ、彼の家の奉行等、德川殿失ひ參らせんと、大坂伏見の間、物さわがしかりし時、入道父子常に御舘を守る、關が原の軍に、父子又御方にて軍しければ、父入道には本領攝津の有馬を賜ひ、二万石を領し、三田に住す、子息玄蕃頭豐氏には、丹波の國福智山の城を賜ふ、六万石入道年つもりて八十餘歲、慶長七年七月十七日に卒す、此月十九日大御所御養女を以て、豐氏に配せらる、家忠日記追加に出づ大御所の御甥、長澤松平源七郞康忠の娘を養君とし給ひしなり、按るに入道の卒せし事、遠き境にていまだ知れず、婚禮ありしにや、豐氏又有馬郡を賜る、合せて八万石、十六年十二月十四日豐氏の嫡子生年九歲にて、關東に赴き、將軍家に見參す、同き十八年、御前にて御裝束賜て元服し、兵部少輔になされ、御諱字賜て忠鄕と名のる、後に忠賴、豐氏大坂兩度の軍に從ひ、首五十七を切つて獻る、元和六年筑後の國久留米の城を賜ふ、二十一万石寛永三年八月、從四位下、同十一年七月、侍從になさる、同き十五年の春、子息中務大輔忠賴と共に、肥前國嶋原の城に向ひ攻落し、十九年七十四歲にて卒す、此人將軍家御伽衆と云、子息中務大輔忠賴、初は兵部少輔忠鄕母は大御所の御養女なり、承應四年三月廿日、關東に赴くとて、備前の海上にて卒す、五十三歲、此年改元明曆元年其子從四位下玄蕃頭賴利、家を繼ぎ、十七歲にて寬文八年六月廿四日に卒し、舍弟從四位下中務大輔賴元を嗣とす、
  1. — 底本のまま。(780523_0024R「中務少輔則顯」も同じ)有馬豊氏の父は通説では有馬則頼(中務少輔、兵部卿法印)