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山內〔後賜松平〕

第七上 · 段落 8 · 780523 24コマ Lから

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この家によく出る人物・地名

人物 31 10 10 8 6 3 3 2 2 2 2 2 2 2 2 2 1 1 1 1 1 1 1 1

地名 3 3 2 2 2 2 2 2 2 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1

弘治三年岩倉の合戰に打ち死す、嫡男十郞、父と共に討れぬ、時に十六才一豐十二歲にて父に離れ、長大の後、猪右衞門と名のりて、織田信長朝臣に仕ふ、織田殿失せ給ふ後、羽柴殿に隨て、天正十一年、若狹の國高濱の城を賜ひ、同き十三年、近江國長濱の城に移り、對馬守になされ、十八年遠江國懸川の城に移る、時に五万石これ年來の戰功を賞せられし所なり、慶長五年の秋、德川殿奧の景勝中納言、御追討の時、一豐先陣に在て、下野國宇津宮に至る、かゝる所に上方又軍起り、國々の飛脚到來して急を告ぐ、されども未だ事の體分明ならず、こゝに來れる大名小名、妻子從類悉く大坂にあり、人々の周章斜ならず、一豐が妻、さるさかしき人なれば、しかるべき侍くだせしにぞ、精しき事は知れにける、
昔一豐、織田家に出て仕へし初め、東國第一の名馬なりとて、安土に引來て商ふ者あり、織田殿の家人等、これを見るに、誠に無双の名馬なり、されども價餘りに貴くして買ふべき人一人もなく、空しく引て返へらんとす、其頃一豐は猪右衞門尉と申せしが、此馬ほしく思へども、求る事如何にも叶ふべからず、家に歸りて、世の中に身貧しき程、口をしき事はなし、一豐仕の初めなり、かゝる馬に乘て見參に入たらんには、屋形の御感にも預るべき者をと、獨言いひしに、妻もつくづくと聞いて、その馬の價いかばかりにやと問ふ、黃金十兩とこそ云ひつれと答ふ、妻さほどに思ひ給はんには、その馬もとめ給へ、あたひをばみづからまゐらすべしとて、鏡の筥の底より、黃金十兩とり出しまゐらす、一豐大きに驚き、この年頃身貧しく、苦しさのみ多き頃には、この黃金ありとも知らせ給はず、いかに心つよくは包み給ひけん、されども今此馬うべしとは思ひもよらざりきと、且は悅び、且は恨む、妻はのたまふ所ことわりにこそ侍れ、さりながら、これはわらはが父の、此家に參りし時に、この鏡の下に入れ給ひて、あなかしこ、これよのつねの事に、用ゐべからず、汝が夫の、一大事あらん時に、參らせよとて、賜ひき、されば家まづしく苦しむなどいふ事は、よのつねのならひなり、これはいかにも堪へ忍びても過なまし、まことか此度、都にて御馬揃へあるべしなど聞こゆ、もしさもあらんには、天下の見物なり、君また仕へのはじめなり、かゝる時ならでは、屋形にも傍輩にも見知られ給ふべきよしもなし、よき馬めして見參に入れ給へと思へばこそ、まゐらすれと云ふ、一豐やがて其馬もとむ、程なく都にて馬揃へのありし時、織田殿この馬御覧あつて、大に驚き給ひ、あつぱれ名馬や、何者の馬ぞと仰ありしに、是は東國第一の馬なりとて、商人が引て參りしが、餘りに價たつとくして、誰も買ふ事叶はず、空しく引て歸るべかりしを、山内が買ひ得て候ひしと申す、信長聞召し價貴き馬なり、當時天下に信長が家ならで買ふべき人なしとて、奧よりはる〱來りしを、空しく還したらんには、無念の至りなるべし、その山内は、年頃久しき浪人と聞く、家もさぞ、貧しからんに買ひ得たる事の神妙さよ、且は信長の家の恥をもすゝぎ、且は武士のたしなみ、いと深しと感じ給ふ事大かたならず、これより次第に身を起せしといふ、誠にや、
かくて德川殿の御陣に、小山宇都宮に有合ふ大小名召して、人々の心の程を尋ね給ひしに、福嶋左衛門大夫正則、最初に御方に組みす、對馬守一豐續て進み出で、一豐が領せし城、海道にあり、速に御勢を以て守らせらるべし、年頂貯へ置きし兵粮も乏しかるべからず、次に一豐が家子郞等が妻子從類、悉く吉田の城に參らすべし、人質のため召し置るべき者か、此時吉田城は池田輝政の領せし所、此人德川殿の聟君なればかくは云ひしなり、一豐は軍兵を率ゐ、先陣に從つて軍仕るべしと申せしかば、滿座の人々一同に、彼が二人の旨に同じて、天下の大事立ところに定りぬ、德川殿大に悅ひ給ひ、一豐が申す旨に任せらる
堀尾信濃守忠氏いまだ年若けれども、才智ある人なりしかば、一豐常に親みて、家の事大小となく、此人と謀る、上方の軍起りて、德川殿の御陣に召されし時、まづ堀尾が陣に往きて、此度の事如何にや思ふと問ふに、忠氏われは我が城に兵粮つけて、內府へ參らせ、人質をば吉田の城に入れて、自らは先陣して軍せんと思ふといふ、一豐此義尤も然るべしと、同じく打連て參り、福嶋味方に參るべしと云ひしに續きて、一豐進み出て、堀尾が云ひし樣に申す、堀尾山內打連れて歸る時、今日は一豐日頃の律儀に相違しければ、忠氏いふべき言葉もなかりしとて、堀尾大に笑ひしかば、山內も同しく笑ひて歸りしといふ、これを古き人の評して我が及ばぬ所を自ら知る事まづ難し、よき人見知る事尤も難し、善き人の言を能く用ゐる事、次に難し、此三つを合せしは大智の流なり一豐は誠にたゞ人ならずといひしなり、
其後一豐先陣の人々と共に馳せ上りて、所々の軍す、一豐の功、莫大なりしかば、此年土佐の國を賜ひ、土佐守に任す、入部の後、悅申すのために、大御所に參りし時、土佐の國、租稅の歲額を問はせ給ひしに、凡そ二十萬二千六百斛と申して候と答へ奉れば、大に驚かせ給ひ、さては思ふにも似ぬ小國なりけり、昔し長曾我部が家の富、賑ひし程、又太閣かの家に入り給ひし時、元親が設けし有樣、其國の稅入凡そ百萬斛ばかりもやあらんずらんと思ひしかば、賜ひし者をと仰けるに、一豐感淚に堪へず、忝なき事にぞ思ひける、同き九年、從四位下に叙す、此日主正坊といふ茶入給ひしなり、十年五月十三日、子息伏見に來り、初て將軍家に見參す、對馬守に任じ、大御所の聟君になさる、御姪松平隱岐守定勝の娘を養君となさる此日兩御所より彼父子に御刀を給ふ、此年九月廿日、一豐卒す六十歲、其子侍從兼土佐守忠義、はしめ對馬守實は一豐の弟修理亮康豐が嫡男、家繼ぎし後、慶長十五年三月朔日、將軍家御家號御諱字賜り、從四位下の土佐守になさる、御刀を賜ふと云ふ大坂の軍起りし時、南海より押渡て城を攻む、再び軍起りしには、軍散じて後、馳せ參る、寛永三年八月、侍從に任ず、明曆二年七月三日、子息等に所領を分ち讓りて致仕し、三男近江守一安に分ちし所分明ならず、子なくして家絕えしにや、寛文四年十一月廿四日、七十三歲にて卒す、侍從兼對馬守忠豐、忠義の嫡子、母は大御所の御養女、承應元年從四位下に叙し、父が家讓られ、明暦二年侍從に任じ、寛文九年六月十五日致仕し、同き八月五日卒す、六十一歲、子息從四位下土佐守豐昌、はしめ筑後守家つぎし年十二月侍從に任ず、
修理大夫藤原忠直、山内と稱す忠義の二男、母忠豐に同じ、按するに一豐の弟忠義の父修理亮といひしなり、若し此忠直して其跡を繼せしにや、詳なる事は知らず、父の所領分ち讓られ、三万石と云墾田にや、寛文七年六月九日五十五歲にて卒す、其子右近大夫豐直父に繼ぐ、二万七千石延寶五年十月十三日卒、子なかりしかば弟大膳亮直久、世嗣となる、直久初め父が領を三千石分て領す、兄が家を繼きておのが領を合せ、三万石を領せしなり、