筑前守源長政は、勘解由孝高入道が男なり、宇多天皇の御末、佐々木源三秀義が曾孫、京極近江守氏信が男、佐渡守滿信が二男黑田左衞門尉宗滿が末葉、備前の國邑久郡福岡の住人、下野守重隆、赤松が被官として、播磨の國飾東郡姫路の城に移住む、重隆嫡男美作守識隆1、故あつて小寺と名のる、これ孝高入道が父なりけり、孝高始は小寺官兵衞尉と名のり、黑田勘解由と改め、入道の後、如水軒と號す、初め美作守識隆、織田殿に志を通じて、天正三年赤松別所等と、同く上洛し、信長の見參に入り、同五年九月、其孫長政が十歲なるを質として、信長へ參らす、羽柴藤吉郞秀吉に預けられ、近江國長濱の城に置かる、幾程なく、秀吉筑前守になされ、播磨の國を賜ふ、孝高父子二心なき方人にて、秀吉に隨ひ、佐用の城を攻て先懸し、同き十一月廿七日、秀吉の下知に依て、孝高竹中半兵衞尉重治と共に、備前の國福岡の城を攻め、同き六年毛利が上月の城を攻し時、孝高うしろ卷して、高倉山に陣を取る、此年攝津の守護人荒木攝津守村重謀反す、孝高行向て村重を諫む、村重承引の氣色なく、遂に孝高を捕ふ、小寺が一門馳集り、子を捨てゝ織田殿へや參る、孫を棄てゝ荒木にや組みすと僉議す、美作守識隆聞て、我初めより織田殿に二心なきが故に、嫡孫を以て質とす、いま思はざるに禍に懸つて、我子失はれんが悲しきとて、忽に志を變じて、無道に組みせんこと本意に非ずとて、更に荒木に組みせず、孝高又希有にして逃れ返り、荒木も頓て亡びけり、同八年、秀吉播州三木の城を攻落して、此所に住せんと擬す、孝高いひけるは、我すむ所の姫路の城と申すは、當國第一の要害にて、殊に海路の便よく凡そ當國を知らん人、必ず住むべき所なり、さらば參らせんとて、秀吉に讓る、秀吉悅ふこと限なく、此城に移り住む、孝高宍粟の郡を賜りて、山崎の城にあり、秀吉山陰山陽の合戰を始として、志津が岳、小牧、筑紫の軍に至るまで、孝高の戰功、數を知らず、同十五年七月、豐前の國六郡の地を賜ふ、同き十七年、孝高四十五歲、其子長政に家の事をば讓り、其後小田原名護屋の陣に隨ひ、朝鮮に押渡て、軍の掟す、子息甲斐守長政、十四歲にして、父と同しく、三木の軍に、初めて首を取る、十六歲の時、父に隨て、和泉の國岸和田の城に後卷し、紀伊の國雜賀根來の者共と戰ひ、首を斬る事二つ、天正十五年、筑紫の合戰に、財部日隈茅切山觀音原の戰を初めて、犬丸の城を攻落し、討取る所一千五百餘人、賀來福島等の城を攻め落す、關白の御感淺からず、朝鮮の軍に先懸して、金海昌原を破り、王城平安に戰ひ、白川の城を守る、凡そ七箇年の間、所々の戰に打取る首數、幾萬といふ事を知らず、黑田父子の武功は、林道春が撰びし、長政の碑の銘に詳なり今は大畧を採る、太閤薨し給ひし後、朝鮮の事終り、長政等小西寺澤等と功を爭て訴へ起り、軍奉行の輩、流刑に處せらる、慶長四年の春、秀賴の奉行人、德川殿失ひ參らせんとて、大坂伏見の間、以ての外に騒動す、黑田父子、德川殿の御方として、長政宗徒の大名を催し、組みし申す人多かりしかば、戰に及はず、頓て和睦事成りぬ、德川殿、彼れ父子が志の程を、深く感じさせ給ひ、子息長政を聟君とぞなされける、保科彈正忠正直の娘を養君として、長政に配はせ給ふ、これ即ち德川殿の御外姪なり、ことし五年、東西の軍起る、又長政の計ひにて、御方に參る人々多し、長政海道より攻登りて、上方の軍勢を打破る、
- 識隆 — 底本のまま(3か所)。黒田職隆の「職」を底本が「識」と記したものとみられる。未確認