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黑田〔後賜松平〕

第七上 · 단락 5 · 780523 20코마 L부터

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지명 7 6 4 3 3 3 3 3 2 2 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1

筑前守源長政は、勘解由孝高入道が男なり、宇多天皇の御末、佐々木源三秀義が曾孫、京極近江守氏信が男、佐渡守滿信が二男黑田左衞門尉宗滿が末葉、備前の國邑久郡福岡の住人、下野守重隆、赤松が被官として、播磨の國飾東郡姫路の城に移住む、重隆嫡男美作守識隆1、故あつて小寺と名のる、これ孝高入道が父なりけり、孝高始は小寺官兵衞尉と名のり、黑田勘解由と改め、入道の後、如水軒と號す、初め美作守識隆、織田殿に志を通じて、天正三年赤松別所等と、同く上洛し、信長の見參に入り、同五年九月、其孫長政が十歲なるを質として、信長へ參らす、羽柴藤吉郞秀吉に預けられ、近江國長濱の城に置かる、幾程なく、秀吉筑前守になされ、播磨の國を賜ふ、孝高父子二心なき方人にて、秀吉に隨ひ、佐用の城を攻て先懸し、同き十一月廿七日、秀吉の下知に依て、孝高竹中半兵衞尉重治と共に、備前の國福岡の城を攻め、同き六年毛利が上月の城を攻し時、孝高うしろ卷して、高倉山に陣を取る、此年攝津の守護人荒木攝津守村重謀反す、孝高行向て村重を諫む、村重承引の氣色なく、遂に孝高を捕ふ、小寺が一門馳集り、子を捨てゝ織田殿へや參る、孫を棄てゝ荒木にや組みすと僉議す、美作守識隆聞て、我初めより織田殿に二心なきが故に、嫡孫を以て質とす、いま思はざるに禍に懸つて、我子失はれんが悲しきとて、忽に志を變じて、無道に組みせんこと本意に非ずとて、更に荒木に組みせず、孝高又希有にして逃れ返り、荒木も頓て亡びけり、同八年、秀吉播州三木の城を攻落して、此所に住せんと擬す、孝高いひけるは、我すむ所の姫路の城と申すは、當國第一の要害にて、殊に海路の便よく凡そ當國を知らん人、必ず住むべき所なり、さらば參らせんとて、秀吉に讓る、秀吉悅ふこと限なく、此城に移り住む、孝高宍粟の郡を賜りて、山崎の城にあり、秀吉山陰山陽の合戰を始として、志津が岳、小牧、筑紫の軍に至るまで、孝高の戰功、數を知らず、同十五年七月、豐前の國六郡の地を賜ふ、同き十七年、孝高四十五歲、其子長政に家の事をば讓り、其後小田原名護屋の陣に隨ひ、朝鮮に押渡て、軍の掟す、子息甲斐守長政、十四歲にして、父と同しく、三木の軍に、初めて首を取る、十六歲の時、父に隨て、和泉の國岸和田の城に後卷し、紀伊の國雜賀根來の者共と戰ひ、首を斬る事二つ、天正十五年、筑紫の合戰に、財部日隈茅切山觀音原の戰を初めて、犬丸の城を攻落し、討取る所一千五百餘人、賀來福島等の城を攻め落す、關白の御感淺からず、朝鮮の軍に先懸して、金海昌原を破り、王城平安に戰ひ、白川の城を守る、凡そ七箇年の間、所々の戰に打取る首數、幾萬といふ事を知らず、黑田父子の武功は、林道春が撰びし、長政の碑の銘に詳なり今は大畧を採る、太閤薨し給ひし後、朝鮮の事終り、長政等小西寺澤等と功を爭て訴へ起り、軍奉行の輩、流刑に處せらる、慶長四年の春、秀賴の奉行人、德川殿失ひ參らせんとて、大坂伏見の間、以ての外に騒動す、黑田父子、德川殿の御方として、長政宗徒の大名を催し、組みし申す人多かりしかば、戰に及はず、頓て和睦事成りぬ、德川殿、彼れ父子が志の程を、深く感じさせ給ひ、子息長政を聟君とぞなされける、保科彈正忠正直の娘を養君として、長政に配はせ給ふ、これ即ち德川殿の御外姪なり、ことし五年、東西の軍起る、又長政の計ひにて、御方に參る人々多し、長政海道より攻登りて、上方の軍勢を打破る、
  1. — 지면 그대로(3곳). 黒田職隆의 「職」을 저본이 「識」으로 적은 것으로 보임. 미확인
關が原の事しるせる一書に曰く、福嶋左衞門大夫正則が最初に御方せしと申すは、長政が勸めに依りし所なりと云々、其大畧は、上方の軍起りし由、小山の御陣に告け來る、黑田福嶋等の先陣は、宇都宮にあり、まづ大御所より長政を召す長政御使の旨を察して、小山へは參らず、福嶋が陣に行て、上方にや組みすべき、又關東にや隨ふべきと問ふ、福島が母妻、大坂に居れば、其心定らず、長政が曰く、秀賴いまだ幼なくまします、如何で內府失ふべしと宣ふべき、是れ石田等が計ひたること明けし、又おことが子刑部少輔、小山の陣にあり、是を棄てゝ上方へや參るべき、母をすつるも子をすつるも、人質を捨る事は一定なり、又今の勢ひを以て見るに、內府の勢ひは弱し、上方の勢ひは强し、されば正しきを捨てゝ、邪しまなるに從ひ、强きに附きて、弱きを避けん事は、武士の本意にあらずと思ふは如何にと云はれて、福島が志决しぬ、其後長政小山に參り、かくと申しければ、おことを召す事、餘の義にあらず、其事はかるべきがためなり、早く察しけりと悅ひ給ひし事淺からず、こゝに於て、諸大名を小山に召し集められて、人々の心の程を尋ね給ひし時、福嶋最初に御方すべき由を申せしとなり、林道春が撰みし長政の碑の銘を察するに、初め長政奧の御陣に從ひ、宇都宮にあり、身の暇を申て上方に上るとて、相摸國大磯にて三成が兵起ると聞き引返して小山の御陣に參る、德川殿悅ばせ給ふ事淺からず、鞍おきたる馬賜ひしと見ゆ、これ其家の說なれば、疑ふべからず、前の說は信じ難きに似たり、但し長政また小山より宇都宮に行きて福嶋を勸めて御方となせしかど、人の功を掠めん事を恥ぢて、子息等にも語らざれば碑の銘には漏れしにや、覺束なし、
父の入道、西海道にして、所々に戰ひ、九州平均に屬す、父子の戰功、類ひなかりしかば、此年十一月筑前の國を賜ひ、五十二万五千石筑前守になされ同き八年二月廿五日從四位下に叙す、同き九年三月廿日孝高入道五十八歲にして卒す、初め大坂の兵起りし時長政關東に留り、再び兵起りしかば、將軍家に屬し奉る、元和九年閏八月四日卒す、年五十六歲、其子侍從兼筑前守忠之、母は大御所の御養女なり、忠之十一歲にして慶長十七年、駿河の國府に參り、十二月十八日大御所の御前にて元服す、此時御刀二腰御鷹御馬等を賜りて歸されたり十八年正月廿一日關東に下りて、初て將軍家に參る、御家號ゆるされ、御諱字を賜ひ、右衞門佐に任じ從五位下になされ、此時御刀二腰賜る、一說に御家號賜りしは慶安元年十二月廿八日の事と云不審同き二月從四位下に叙す、大坂の兵起りし時、本國に在て身煩ふこと甚し、病を勉めて馳せ上る、兩御所の御感斜ならず、父卒して家をつぎ四十三万二千石餘寛永三年八月、侍從兼筑前守に任ず、同き十五年の春、肥前の國嶋原の城を攻て、攻めおとし、同き十八年二月、鍋嶋と共に長崎戍衞の事を承る、承應三年二月十二日年五十三歲にして卒す、子息侍從兼右衞門佐光之、寛永廿年十二月廿九日十六歲にて元服し、御諱字を賜ひ、御刀を賜ふ從四位下右衞門佐になされ、家繼ぎし年の十二月廿六日侍從に任ず、嫡男筑前守綱之初め寛文九年十二月元服し、御諱字を賜ひ、從四位下の筑前守に任ず、かくて親父光之、綱之が家つぐべき器ならざるよしを訴ふるに依つて、延寶五年二月十二日、其請に依り、二男宮内少輔長寬を世嗣となさる、綱之は籠居す長寬が今まで領せし地を獻り納めん事を請ふ御許しなくて光之に返し賜ふ、この年の冬、長寬に御諱字を賜り、從四位下に叙し、肥前守に任し、綱政と申す、
f084.p005교정 완료23L:4–9
東市正源高政黑田と稱す長政が三男、母忠之に同じ、父が所領を分ち讓らる所領の地しらず四万石を領す寛永三年八月十九日叙爵、同十五年の春、嶋原の城に向て軍す、家繼ぐべき子なかりしかば、兄忠之が二男養て世嗣とす、慶安四年十二月叙爵して、左馬頭之勝と申す、之勝家を繼ぎて後、承應二年八月、市正に任じ、寛文三年七月廿五日三十歲にて卒す、是も子なかりしに因て、光之が二男宮內少輔長寬を世嗣とす、光之嫡男綱之を退けて、長寬を以て世嗣としければ、市正高政の家は絕えてけり