參議源高次は、宇多天皇の御裔、近江國の住人佐々木源三秀義より四代、京極近江守氏信に十二代の孫、長門守高吉が嫡男なり、累代江北の地を領す、高次が姊、初め若狹の武田が孫八郞か事也妻なりしが、武田死して後、秀吉關白の妾となつて、松の丸殿と申す、高次の母また淺井下野守祐政の娘1なりければ、高次淀殿にも從弟なり、一かたならぬ緣故に附き、高次いまだ小法師丸といひしより、關白の御覺淺からず、元服して近江守になされ、大津の城を賜ひ、若狹の内副て六万石を領す、又淀殿の御妹を、高次の妻となさる、淺井下野守祐政の男、備前守長政の娘也大相國家の御臺所の御姉、常高院殿と申せし御事なり、太閤薨じ給ひし後、慶長四年の春、大坂の奉行等、德川殿を失ひ參らせんと謀る、伏見の御舘、無碍にあさまなりしかば、高次おのが大津の城に迎へ奉らんとす、德川殿大に悅ばせ給ひ、井伊侍從して其芳志を感ぜらる、明れば五年の秋、上方の軍起りしに、大坂近き邊りにては、高次獨り關東の方人して、大津城に立籠る、德川殿攻め上らせ給ふ程、今一二日を待ち得ずして、城遂に攻落さる、されば德川殿も高次今暫し城を落されざらんには、近江の國をば賜ふべき者なりと、深く惜ませ給ひけり、此年其賞として、若狹國に越前の敦賀郡をそへて給ひ、若狹守になさる、九万二千石高次從四位侍從より、少將を經て、參議從三位に至り、四十七歲にして、慶長十四年五月三日に薨す、公卿補任を按するに、高次の參議に任ぜしは、慶長九年の事なり、然るに關が原の諸記に、京極宰相と記せること誤れるにや、嫡男右少將忠高、母は贈大納言長政卿第二の女也、忠高朝臣は、左大臣家の御外從弟にて、御姉婿なり、慶長十年十三歲にて、元服し、將軍家の御諱字賜り、從四位下の侍從兼若狹守になさる、大坂の軍起りしに、馳向て城を攻む、忠高の母常高院殿、城中にまし〱て、御中なほりの事を執し申されければ、やがて事調りぬ、幾程なくして又軍起りければ、大御所猶常高院殿して、東西御和睦の事仰せけれども、秀賴用ゐ給はで、五月七日城落ちぬ、忠高搦手に向ひ、打取る首三百七を獻る、寛永三年八月十九日、四位の少將になされ、同十一年閏七月六日、出雲隱岐兩國を賜ふ、廿四万石、此年又石見國二万石邑知郡の銀山を預けらると云、十四年六月十二日卒す四十五歲、此忠高、大相國家第四の姫君に添ひまゐらす、北の方は御子なくして、妾の腹に男子一人ありしかど、將軍家の御聽を憚りて、初めより子なき由、申せしかば、世嗣なくて家絕えぬ、忠高の北の方は初姫君と申奉り、忠高に先立らせ給ひ、寬永七年三月四日に、かくれさせ給ひて、興安院殿と申し奉りしなり、刑部少輔源高和は、忠高の舍弟、主殿頭高政が男なり、實は忠高の男とぞ聞えける、高政は廿八才にして、寬永六年五月九日卒せしなり、忠高世嗣なくて家絕えしかば、高和を召出され、播州龍野の城を賜ふ、五万石餘、但し今は此城なけれとも城地に准ず、叙爵して、萬治元年讃岐國丸龜の城に移る、寛文二年九月十三日四十四歲にて卒す、子息備中守高豐家をつぐ、
- 下野守祐政の娘 — 지면 그대로. (이 쪽 2곳) 京極高次 어머니의 아버지(외조부)이자 浅井長政의 아버지는 통설 浅井久政(下野守). 「祐政」은 久政의 오기이거나 조부 亮政과의 혼동으로 보임