藩翰譜원문 데이터베이스

가문 목록 › 第七上 › f083

京極

第七上 · 단락 6 · 780523 17코마 L부터

인물지명관직가문날짜색인 목록
이 가문에 자주 나오는 인물·지명

인물 15 12 10 9 8 6 5 4 4 3 3 3 3 3 2 2 2 2 2 2 2 2 2 2

지명 4 4 3 2 2 2 2 2 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1

參議源高次は、宇多天皇の御裔、近江國の住人佐々木源三秀義より四代、京極近江守氏信に十二代の孫、長門守高吉が嫡男なり、累代江北の地を領す、高次が姊、初め若狹の武田が孫八郞か事也妻なりしが、武田死して後、秀吉關白の妾となつて、松の丸殿と申す、高次の母また淺井下野守祐政の娘1なりければ、高次淀殿にも從弟なり、一かたならぬ緣故に附き、高次いまだ小法師丸といひしより、關白の御覺淺からず、元服して近江守になされ、大津の城を賜ひ、若狹の内副て六万石を領す、又淀殿の御妹を、高次の妻となさる、淺井下野守祐政の男、備前守長政の娘也大相國家の御臺所の御姉、常高院殿と申せし御事なり、太閤薨じ給ひし後、慶長四年の春、大坂の奉行等、德川殿を失ひ參らせんと謀る、伏見の御舘、無碍にあさまなりしかば、高次おのが大津の城に迎へ奉らんとす、德川殿大に悅ばせ給ひ、井伊侍從して其芳志を感ぜらる、明れば五年の秋、上方の軍起りしに、大坂近き邊りにては、高次獨り關東の方人して、大津城に立籠る、德川殿攻め上らせ給ふ程、今一二日を待ち得ずして、城遂に攻落さる、されば德川殿も高次今暫し城を落されざらんには、近江の國をば賜ふべき者なりと、深く惜ませ給ひけり、此年其賞として、若狹國に越前の敦賀郡をそへて給ひ、若狹守になさる、九万二千石高次從四位侍從より、少將を經て、參議從三位に至り、四十七歲にして、慶長十四年五月三日に薨す、公卿補任を按するに、高次の參議に任ぜしは、慶長九年の事なり、然るに關が原の諸記に、京極宰相と記せること誤れるにや、嫡男右少將忠高、母は贈大納言長政卿第二の女也、忠高朝臣は、左大臣家の御外從弟にて、御姉婿なり、慶長十年十三歲にて、元服し、將軍家の御諱字賜り、從四位下の侍從兼若狹守になさる、大坂の軍起りしに、馳向て城を攻む、忠高の母常高院殿、城中にまし〱て、御中なほりの事を執し申されければ、やがて事調りぬ、幾程なくして又軍起りければ、大御所猶常高院殿して、東西御和睦の事仰せけれども、秀賴用ゐ給はで、五月七日城落ちぬ、忠高搦手に向ひ、打取る首三百七を獻る、寛永三年八月十九日、四位の少將になされ、同十一年閏七月六日、出雲隱岐兩國を賜ふ、廿四万石、此年又石見國二万石邑知郡の銀山を預けらると云、十四年六月十二日卒す四十五歲、此忠高、大相國家第四の姫君に添ひまゐらす、北の方は御子なくして、妾の腹に男子一人ありしかど、將軍家の御聽を憚りて、初めより子なき由、申せしかば、世嗣なくて家絕えぬ、忠高の北の方は初姫君と申奉り、忠高に先立らせ給ひ、寬永七年三月四日に、かくれさせ給ひて、興安院殿と申し奉りしなり、刑部少輔源高和は、忠高の舍弟、主殿頭高政が男なり、實は忠高の男とぞ聞えける、高政は廿八才にして、寬永六年五月九日卒せしなり、忠高世嗣なくて家絕えしかば、高和を召出され、播州龍野の城を賜ふ、五万石餘、但し今は此城なけれとも城地に准ず、叙爵して、萬治元年讃岐國丸龜の城に移る、寛文二年九月十三日四十四歲にて卒す、子息備中守高豐家をつぐ、
  1. — 지면 그대로. (이 쪽 2곳) 京極高次 어머니의 아버지(외조부)이자 浅井長政의 아버지는 통설 浅井久政(下野守). 「祐政」은 久政의 오기이거나 조부 亮政과의 혼동으로 보임
侍從兼丹後守源高知は、長門守高吉の二男、參議高次の弟なり秀吉の御時、近江國蒲生郡の地を賜り、五千石修理大夫になされ、文祿元年舅毛利河內守秀賴が領せし、信州伊奈の郡を賜て、十万石、一說には八万石と不審、〇秀賴は武衛の末流と云、四位の侍從になさる、慶長五年の秋、奧の景勝、追討のため下向す、上方の軍起りしかば、引返して、美濃の國にして、岐阜の城を攻落し、關が原の合戰に多く敵を打破り、兄高次が心元なしとて御暇申して、鞭鐙を合せて馳せ登り、近江の國長濱の在家に、火を掛けて、大津の城に至りしに、城をば既に攻落さる、同き十一月、丹後の國を賜て、十二万七千石丹後守になされて、此度の功を賞せらる、高和田邊1の城を毀ち、宮津の城を築て住む、大坂前後の軍して、元和六年八月十二日五十一歲にして卒し、子息三人に所領分ち讓る、侍從兼丹後守高廣は高知が五男なれども、家を繼ぐ、七万五千石、按ずるに高廣が母は、故の毛利河內守秀賴が娘なり、年幼けれど、嫡子たれば家を繼きしなるべし、初め元和二年十二月、從五位下の侍從になされ、系圖幷武家補任等同し、父子並ひて侍從に任する事覺束なし、家を繼ぎて後、寬永三年八月從四位下に叙し、大御所の御外孫輝政參議の娘に相偶して、男子三人をまうく、年頃眼煩うて承應三年四月廿三日、所領子息に讓り、入道して安智齋と號す、其嫡子侍從兼丹後守高國、初め叙爵して山城守に任じ、寛永廿年十二月、從四位下に昇り、家讓られし年、侍從になされ、丹後守を兼ぬ、寛文六年四月、父の入道、高國が無道の事共を、一々に訴へしに依つて、同き五月三日、高國奧の南部へ流され、大膳大夫重信に賴けられ、其嫡男近江守高賴を初め男四人女二人悉く大名に預けらる、高賴は藤堂大學頭、二男万吉年七才松平新太郞、三男杢助年五才松平相摸守、四男松之助三才伊達遠江守へ、十九才十六才になる女子をば、松平龜千代丸へ預けらる、高國高賴には、米三千俵づゝ、又父に黃金五百兩、子に黃金二百兩を給ひし也、
  1. — 지면 그대로. 「高知」의 저본 오식으로 보임
世の人の申せしは、高國年頃父入道が虐政を見聞くにつけて、うたてき事に思ひければ、家繼ぎし始は、上を敬ひ、下を惠む事、大かたならず、家子郞等らを先として、土民百姓等に至るまで、此年月のうさを忘れ、渴せる魚の水を得たるが如くなりしかど、いつしか志みちて、奢生じ、親しきを遠ざけ、疎きを近つげ、舊きを退け、新しきを進め、賦役日々に重く、民の資を奪ふのみか、家人等に與ふる俸祿にだに、息利をかけて責めはたりしかば、國中の土民、中々に昔こひしうなつて、苦み極まりぬ、入道は初めより嫡子高國が、おのが政道をさみしぬるよと、安からぬ事に思ひ、弟を愛して、家をば弟に繼がせばやと思ひしかど、公儀につきて力なく、嫡子には讓りしなり高國がかゝる振舞を見て、さらば高國を押こめ、舍弟信濃守高勝に國を知らせばやと思ふ心つきしが、猶心にも任せず、年月を送る、高國また此由を聞て、父を踈み弟を憎む心起り、又不孝不悌の行ひも多かりき、入道此上はとて、一封の書を奉りて、高國が無道の程を一々に訴へしかば、かくはなりしとなり、
高國かくて憂き年月を送り迎へて、延寶三年十二月廿四日、年六十歲にて配所に死す、されば父入道はまさしき親が、己が子の咎かくさで申たらんには、丹後守は罪に處せらるとも、累代の所領なれば、三男にこそ賜べけれと思ひしに、案に相違してければ、詮方なくて、洛陽黑谷のほとり岡崎と云ふ所に庵室かまへ、引籠て、心にもあらぬ後世のいとなみしが、憎しと思ひし子にだに後れて、延寶五年四月廿二日、七十九歲にて、はかなくなりぬ、入道の二男、下總守高治は、これより先さ、慶安三年七月廿九日に卒す、三男信濃守高勝は兄が流されて後、明る寛文七年召出されて、同十二月廿七日、僅かに俸祿を賜ひぬ、俸米五千俵
修理大夫源高三は、丹後侍從高知が三男なり、父卒してのち、田邊の城を分ち領し、三万石又は三万五千石寛永十三年九月十三日に卒す、其子飛驒守高冲1、家を繼き、寛文三年正月七日、三十二歲にて卒す、其子六丸父に繼ぎ、寬文三年十二月叙爵して、伊勢守高盛と申す、同き七年八月廿九日身の煩によりて致仕す、其子甲斐守高任、實は高仲の四男、兄の世嗣となり、舍弟兵部に所領を分つ、三万五千石の内三千石を分つと云寛文八年五月廿一日、但馬の國豐岡の地に移る、按るに、豐岡に移りし事、高盛が時とす、高盛は此一年の前寛文七年に致仕せし由、武家補任に見ゆ覺東なし、
  1. — 지면 그대로. 같은 단락 「高仲」과 어긋나고 실명은 高直. 저본 오식으로 보임
主膳正源高通は、丹後侍從高知が二男、實は高知が外甥、朽木兵部少輔宣綱が二男なり、宣綱が妻は高知が妹なり高知初め長子万作丸死し男子なければ養て子とす、高知が所領分ち讓らる、丹後國丹波郡を領す、峯山といふ一万三千石餘寛文五年近江國水口の城を守り、十二月十四日かの城に卒す、六十三歲、嫡子主膳正高供1、家を繼ぎ、一万千石舍弟等に所領を分つ、二男伊織千石、三男左門千石、高供延寶二年二月廿八日卒す、五十二歲、子息備後守高明父に繼ぐ、
  1. — 지면 그대로. 같은 쪽 두주는 「高通 タカミチ(一に高道)」로 적음