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前田〔後賜松平〕
이 가문에 자주 나오는 인물·지명
인물 前田利長 36前田利家 36徳川秀忠 15徳川家康 14前田利常 13豊臣秀吉 12織田信長 6柴田勝家 6徳川秀忠女(前田利常室) 5前田光高 4前田綱利 4前田利孝 4佐々成政 3芳春院 3土方雄久 3前田利昌 2斎藤春基 2織田信勝 2織田信勝家臣宮井勘兵衛 2前田利久 2前田利益 2豊臣秀頼 2前田利政 2前田利明 2
지명 関東 9加賀国 8能登国 6北陸道 5加賀金沢城 4越中国 4美濃国森部 3摂津国大坂 3山城国伏見 3上野国七日市 3越前国 2能登国石動山 2近江国賤ヶ岳 2越前府中城 2越前国福井 2能登末森城 2加賀大聖寺城 2加賀小松城 2越中富山城 2尾張荒子城 1尾張国荒子 1尾張国前田 1筑前国太宰府 1筑前国前田 1
系圖を考ふるに、藏人利昌が領せし荒子の地、前田といふ所を去る事、僅に十町と載らる、然かれば住せし所に依て、かくは名のりしなり、或人曰く菅家の御裔、筑紫太宰府の菅廟の邊り前田といふ所に住す、これ筑紫前田の因て出し所なり、其子孫尾張國に移るなりといふ、又或人曰く、然はあらじ、前田は元は藤氏なるべし、左大臣藤原魚名の末葉、北陸道七國の押領使、越前の追捕使齋藤權介爲賴が後、六波羅の奉行人、齋藤伊豫房春基が孫、前田孫四郞利世が孫にあらずや、春基が事、大平記等に見えたりといふ、家に傳へぬ事外より論ずべきにあらず、童なりしより織田殿に仕へ、生年十四歲にて軍に從ひ、高名を顯を、此事一說に十六才の時、弘治二年の事と云なり、又天文二十三年の事といふ、不審、利家十四才の時ならば、天文二十年也、其後故ありて、織田殿の童坊を斬て逃去りぬ、童坊名は十阿彌といふ、此事十八歲の時といふ、かの童坊、利家の刀の笄を盜みしより事起りしといふ、弘治二年の夏、信長舍弟武藏守信之と軍ありし時、利家首二つを切り、信之の侍宮井勘兵衞尉に面射られ、終に宮井が首取て、信長の御前に參る、感じ給ふ事淺からず、やがて所領の地を給ひ、三百石、一說に信長に勘氣ゆるされしは永祿四年五月十三日濃州森部合戰の時也と云舍兄藏人利久が世嗣たるべしと仰せらる、初め利久瀧川義大夫が弟慶二郞を養て子とせしなり、此慶二郞世にかくれなき勇士なり、利家また改めて又左衞門尉と名のる、永祿三年桶迫の合戰に、首二つを切る、同き四年森部合戰に先懸して首を取る、世に傳ふる所、信長記に異なり、信長記には、此時始て信長の勘氣を免されしといふ、いづれが實なる、同き八年九月1、近江の國箕作の城を攻めらる、利家使を承り、先陣に行向て、眞先に首取て歸る同き十年母衣武者十九人を撰定められし時、利家赤母衣を許さる、信長記に出づ、一說に利家は森部合戰の功に因て免されしと兩說あり、元龜元年九月、攝津國大坂の合戰、味方散々に打なされ、利家一人蹈み止り、追來る敵を打破りて引返へす、其抽賞に所領多く加へらる、初め一万石を領す、當時天下に傳へし前田が堤の上の槍、此事なり、天正三年五月、長篠の合戰に足輕の兵ひきゐて進み、自ら槍執つて戰ひ、右脚に疵蒙りぬ、此年九月越前國平ぎしかば、府中の地を分ち給ひ、三万三千石同九年、柴田修理亮勝家に從ひ、初めて一方の大將となつて、越中の國魚津の城を攻おとす、十年能登の國石動山の敵を討亡し、十一年の春、利家父子柴田に組みして、羽柴筑前守秀吉を討たんと、近江國に發向し、四月廿一日志津が岳の戰ひ敗れしかば、利家府中の城に引返へす、勝家やがて府中の城に落ち來り、利家父子に對面し、湯漬乞うて喰ひ、疲れざる馬壹疋たぶべしとて、打乘て出づ、利家道のほど送り參らせんと打出づる、勝家固く辭して立別る、又利家を呼返へし、和殿羽柴と年頃のよしみあり、けふよりは勝家との盟を棄てゝ、和殿が家のため謀り給へと云ひ捨て、北の庄へ趣く、秀吉續て北庄を攻落せば、勝家腹切て死す、秀吉また利家を賴みて、加賀の國を平け、其賞として石川河北二郡を與へ、御山の城を守らす、御山は今の金澤の城なり、かくて利家、加賀能登の境、末森と云ふ所に城廓を構ふ、佐々內藏助成政越中にあり、北畠殿の御方として、まづ末森を落さんとす、利家やがて後卷し、成政も引て歸る、幾程なくて、能登の國平きぬ、秀吉此由を聞き、能登は二十三万三千石自ら從へし國なれば、秀吉が參らするに及ばず、知行せらる可きこと勿論なり、其賞などか無かるべきとて、叙爵させ、我が名字をも官をも讓りて、羽柴筑前守と名のらせ、子息も劣らぬ人なれば、同しく名字をまゐらせ、叙爵させ、羽柴肥前守になさる、今まで孫四郞、初は利勝といふ、是れ秀吉の家號賜ひし初なり、菊桐の紋をも賜ふと云ふ同き十三年の秋、秀吉佐々を攻降し、越中國三郡を割て、利家これを領せんこと一兩年、其後は子息利勝に讓るべしとてたびてけり、利長を初め越中侍從といひしは、この故か、十四年嶋津を討れし時、子息肥前守、關白殿に從て向ふ、十六年の春、右少將になされ、十八年の春、參議從四位下、此年の夏北條を亡されしに、北國より攻下り、此處彼處の城を攻落す、文祿の初より、朝鮮の事起り、肥前國名護屋に陣し、同三年の夏、從三位權中納言、慶長二年三月十一日、大納言に轉じ、家司二人任官す、高畠織部中川清六郞同き三年太閤薨じ給ひ、利家を以て若君の傅と定られしかば、天下の倚賴、當世の權威此人に並ぶ者なし、明る四年の春、豐臣家の奉行等、此人の威を假りて、德川殿を失はんと謀る、利家德川殿と間快からず、細川越中守忠興、利家に親しければ、此卿が彼等に、たばかられて、家滅さん事を歎き、さま〲に教訓す、利家頓て事の情を察し、德川殿によしみ結ばんとて、我が病を助けて、大坂の城より伏見の御舘に參らる、德川殿も又利家の病、日々に重しと聞召し、彼が大坂の家に至て訪せ給ひしかば、利家悅びに堪へず、子息等が事、深く賴み申て、閏三月三日、六十二歲にて薨ず、從一位を贈られしとぞ聞えける、中納言利長若きより軍に從ひ、志津岳石動末森等を始とし、筑紫關東の戰に至るまで、終に不覺を取らず、初め關白殿越中國三郡を賜ひ、羽柴の號ゆるされ、肥前守に任じ、侍從を經て、慶長二年の秋、參議從四位下、同三年の夏、從三位中納言に至る、世には利長の參議たりしのみを傳ふ、公卿補任を按するに、從三位中納言に至れり、太閤薨し玉ひし時、秀賴の傳を仰置る利長をば御いたきもりと定らるといふ父利家薨じて後、加賀越中の地を領し、八十一万石を領す、能登國は舍弟侍從利政が領せしなり、此年八月廿八日、利長入部のために、加賀の國に赴く、かゝる所に、石田三成が謀にて利長謀反の由にて討手向ふべしと聞ゆ、利長大に怒り、討手を待て戰はんとす、家人等が計らひにて、老母を關東へ參らせ、誤りなき旨を顯はし、又舍弟犬千代丸を世嗣とし、中納言殿の御娘を迎へ參らせ、國讓らん事を誓はれしかば、世の疑解けぬ、明る五年の秋、德川殿奧の會津を伐ち給ふ時、利長北國の大將として、既に打立たんとせし所に、上方又軍起りければ、利長同國大聖寺の城を攻落し、小松の城に戰て、金澤の城に引返し、德川殿海道を攻め上り給ふと聞て、手合のために、北國より打登り、九月廿日、大津の驛にして、御陣に參らる、舍弟能登侍從利政が此度の軍に怠りしに依て、彼の所領沒收せられ、利長が勳功の賞として、能登國に加賀の能美江沼二郡そへて下し賜る、明れば六年五月十一日、利長の養子犬千代丸元服し、德川殿より御家號賜りて、侍從兼筑前守になされ、同き九月中納言殿の姫君加賀國に下らせ給ふ、七年正月の末、利長關東に赴き、大納言家へ此時台德院殿大納言に轉し給ひしなり、參られ、物を獻る事多ければ、賜ひし者また少からず、
- 同き八年九月 — 지면 그대로. 앞 문맥으로 永禄8年이 되나 信長의 近江 箕作城 공략은 통설 永禄11.9(1568)
利長關東へ參らるべき由、かねて申されしに、折ふし大御所、關東に渡らせ給ひたり、大納言家、利長を迎へ給はんとて、板橋の驛の邊に御出ありて、見參の事を悅び仰せらる、利長かねては、かくあるべしとも思はれず、悅び思ふ事淺からず、又後日城に上られしに、大納言家、寢殿に御出ありて、利長の座を遙かの下に設けらる、對面の義ども嚴重に、饗應の式また善盡せり、利長此時は悔しき事に思はれしとぞ聞えし、黃金百枚、白銀千枚、時服百領を獻ぜらる、大納言家より、鍋藤四郞の御脇刀に、黃金百枚、馬鷹そへて賜はる、此後子息に國讓り、引籠り居て、再ひ關東へ參られずと、古き人の語りしが、古記に合せ見るに、大やうは違はず、又古き人に、うけたまはる、慶長のころの下文に大御所と利長と連署たりしを見きといふ、されば此度利長見參の事、上下の分定りぬべき時なれば、大御所の伏見へ上らせ給ひし事も、深き御心ありぬべし、又大納言家の振舞も、いにしへ准南の黥布が漢の高祖へ參りし時に、事さかしまにして心は均かるべきや、天下の英雄駕御の法、千載ともに一揆なり、
利長また伏見に赴きて、大御所へ參り、やがて國に歸らる、同き十年三月、大納言家御上洛あり、これ大將拜賀の御爲なり、同き四月の初、利長父子伏見に赴き、大御所へ參りて、色々の獻物あり、兩御所物を賜ふ事多し、利長頓て歸國し、子息筑前守をば、こゝに留めらる、十一年四月、筑前守關東に下り、將軍家へ參らる、十九年五月廿日、利長越中國戶山城に薨す、年五十三歲、正二位大納言を贈らるとぞ聞えし、中納言利常始は利光利家大納言の末子、生年九歲にして、兄利長の世嗣となり、大相國家の姫君に添ひ參らせ、禰々姫君と申し奉る第二の姫君なり、慶長十九年、父の卿薨せし年の冬、大坂の兵起りしかば、急き軍勢を催し、馳向て城を攻む、明る元和元年五月の合戰に、將軍家の先陣して、多くの敵を破つて、首三千二百を獻る、其賞として閏六月參議になされ、寬永三年の秋、從三位權中納言に昇り、老て後、國を讓り、小松の城に住れしかば、世の人小松中納言とぞ申ける、嫡子筑前守光高朝臣、大相國家の御外孫、寛永六年四月廿三日、十四歲にて元服し、御諱字を賜り、四位の少將兼筑前守になされ、御刀を賜ふ正保二年四月五日、年三十一歲にて、父に先立て卒す、利常中納言の請に依て、嫡孫犬千代丸、父光高朝臣の家を繼ぎ、百二万五千石餘、其外は二人の叔父に分ちしなり、利常の子息等に所領を分ち賜ひぬ、承應三年正月十二日、犬千代丸元服し、御諱字賜ひ、四位少將兼加賀守に任し、綱利と申す、萬治元年十月十二日、中納言利常六十六歲にして薨ず、此年閏十二月、綱利中將になさる、