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淺野〔後賜松平〕

第七上 · 단락 4 · 780523 9코마 R부터

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지명 6 5 4 3 3 3 3 2 2 2 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1

彈正少弼源長政は、攝津守賴光朝臣七世の孫、美濃守光衡が次男淺野判官代光時が後胤、尾張の國の住人、又右衞門長勝が子なり、其家の系圖かくの如し又曰く長勝は織田殿弓の衆なりと云、世には津嶋に住し大富有の人なりといふ實は長勝男子なければ、一族の子養て子とす、系圖に曰く、長政實は平井彌兵衞1が子、長勝が家を繼て、織田殿弓の衆となれりと、初め長勝同國の住人木下七郞兵衞家利が娘を妻とす、妻の姊杉原助左衞門に相偶して、二人の娘あり、長勝その二人の娘、養うて子とし、姊は織田殿の家人前田又左衞門尉利家が、なかだちにて、木下藤吉にあはせ、秀吉を長勝が長屋に入聟にして、竹簀子に緣取し席敷て、婚禮せしと、後に北政所と仰れしとなり、妹をば我子の長政が妻とす、妻は長成院と云左京大夫但馬守等の母なり、かの藤吉秀吉、次第に歷上て、織田殿一方の大將になされ、播磨の國賜り、羽柴筑前守と名のる、長政其後彌兵衞と申て、織田殿に仕へしが、彼秀吉が手に附られたり、固より長政は秀吉と相婿なりし程に、羽柴の家、第一の人にて、かの家の事大小となく司る、織田殿失せ玉ひて、秀吉忽ち天下の權を執り、内大臣の正二位にして、關白に任し、家の奉行五人を置く、長政を上首として叙爵させ、彈正少弼に任し、禁裡仙院幷に兩政所の事を執らしむ、是より先き、天正十一年、長政近江國大津の城を賜ふ、系圖を考ふるに、太閤初め近江の長濱にましませし時、長政坂本の城を領せしと見えき、〇世に傅る所は、長政初め播州網干地三千石を領し、其後宇治槇島にて二万石、次は若狭の國九万三千石、を領し、其後甲斐の國に移りしといふ同十四年秋、關白の御妹、德川殿に參り給ふ時、長政して送らる、此年德川殿御上洛の時、長政饗應の事を掌りて、御旅館に祗候す、是よりして後、德川殿の申次を承はる、關白島津を伐ち給ふ時は、大隅國に向ひ、北條を亡し給ふ時は、武藏の國に向ふ此時殿下駿河の國府に至らんとし給ひしに、石田治部少輔三成、御耳に附きて、家康北條に、むすぼゝれたる中なり、如何なる謀やあらんずらん、彼れが城に入り給はんこと、尤も然るべからずと止め中す、實にもと思召す氣色にて、馬を控て時を移さる、長政參て此由を聞き、いかでさる事や候べきと、諫め爭ひ申せしに依て、關白の疑ひ立所に散じて、國府の城に入り給ひぬ、北條滅ひし後、奧の地悉く平きて、長政等撿地の事を奉行し、奧にて賊徒起りし時、關白の御使承り、馳せ向ひて退治す、其後甲斐の國を賜て移る、廿一万七千石、關白天下の黄金を改め造らせられしに至て、長政が家臣、此黃金を僞て造り出す、事顯はるゝに及び、長政其坐に係つて、既に罪科に處せらるべきに極る、德川殿不便の事に思召し、忍びて彼の家に入らせ給ひ、事の由を能く尋ね究められ、長政罪なき樣を執し給ひしかば、其咎を免さる、こたび首つがれし事、偏に德川殿の御恩に依る所なりと、悅ぶ事あさからず、文祿の初め朝鮮の事起る、同二年六月長政かの國に渡る、石田增田等と相議し、諸軍勢を率して、晋州城を攻め落す、今年の冬、大閣朝鮮の軍、はか〲しからぬを怒つて德川殿を初め、宗徒の大名を、名護屋の陣に集め、朝鮮の軍、今のやうならんには、いつ事定るべしとも思へず、今は秀吉みづから向はんと思ふ、三十萬の勢を三手に押し分け、利家前田氏鄕蒲生に大將させ、三道より向ひ、朝鮮を打ち破り、まつすぐに大明に攻め入らん、本朝の事、家康さてましませば、心に懸る所なし、かた〱如何にや思ふと仰せある、德川殿御氣色損じて、利家氏鄕等に向ひ、日本の大名、多き中に、かた〲二人撰り出されて、一方の大將を賜はらんこと、弓矢取ての面目、何事かこれに過ぎん、抑も家康苟も弓馬の家に生れ、戰の中に年老いぬ、今この大事に及びて、いかで人々の跡に留つて、徒らに本朝を守り候ひなん、少勢には侍るとも、家康も軍勢をひきゐて、必ず一方の先陣を承るべし、かた〱の御推擧を仰ぐ所に候と宣ひしに、彈正少弼長政進出で、暫く候ふ德川殿、殿下この年月の御振舞ひ、昔の御心とや思召す、年經る狐の入り替つて候を、何事か宣ふべきと、申しもはてぬに、太閤御佩刀に手を掛けられ、やあ、秀吉が心に、狐の入かはつたるいはれ、きつと申せ、申し損じなば、しや首うち落してくれんずと、責懸け〱仰せけるに、彈正ちつとも騷がず、長政等が如きは、何百人が首刎られんにも、なん條の事か候べき、抑も此とし頃、よしなき軍起て、異國のみにあらず、本朝にも父を討たせ子を打たせ、兄弟を失ひ、夫に別れ、妻に離れ、歎き苦むもの、天下に滿つ、又それより兵粮の轉漕、軍勢の賦役、六十餘州が內、悉くあれ野となる、けふ御參向あらんには、五畿七道の間、竊盜强盜等、蜂の如くに起りて、やすき心も候まじ、德川殿いかに思ひ給ふとも、如何でこれを防ぎて、動きなく御跡を守り玉ふ事かなふべき、此等の事を思ひてこそ、先陣とは宣ふらめ、されば昔の御心ならんには、かほどの事、など御心づきなかるべき、かゝる御心の附かせ給ふ事、これたゞ事にあらず、一定ふる狐の入かはつたるには候はずや、賤しき者の諺に、人とらんとする鼈は、必ず人に取らるゝとは、此御事にて候ぞと、憚る所なく申ければ、太閤、鼈にもせよ、狐にもせよ、おのが主と賴たらん者に、雜言をはく條奇怪なりと、飛かゝらんとし給ふを、利家氏鄕押隔て、人々御前に伺公せり、長政が首を刎られんに、御手を下さるゝまでも候はず、そこ罷り申せ彈正と、云れて長政は、さらぬ體にもてなし、人々に色代して、己が陣に歸り、御使を待て腹切らんとす、重ねて仰出さるゝ旨もなく、かゝる所に、肥後の國に逆徒起りぬと、早馬を參らす、太閣大に驚き給ひ、德川殿に御使あつて、長政具して御參りあれと仰せらる、やがて長政めしぐせらる、太閣、肥後の國に逆徒起りぬ、汝が嫡子左京大夫幸長、追討の使たるべしと仰下さる、長政大に悅びぬ、又德川殿に向ひ給ひ、幸長いまだ年わかし、本多中務少輔忠勝を副て給ふべしと仰せらる、やがて彼の逆徒、國人等討てまゐらす、軍をば出さず、長政仰を承て、肥後國に向ひ、國政を沙汰す、慶長三年八月十八日大閣薨じ給ひしより、石田等、長政と年頃の遺恨を散ぜんがため、長政が德川殿に罪かうむらん樣を謀る、遂に長政職を去て、おのが國に蟄居す、猶憚りありとて、武藏の府中に隱れ住む、中納言殿かれが罪なき由を知召し、常には訪せ給ひける、石田等が兵起りし時、中納言殿の御供して、山道よりのぼる、嫡男左京大夫幸長、此度の戰功に依て、紀伊の國賜りて移る、同き十一年、長政老を養ふべき料とて、常陸國眞壁郡五万石近江國愛智郡五千石等の地を賜ふ、十三年妻子悉く關東に呼取びつて、常に將軍家に伺候す、十五年に二男長晟備中國にて所領を賜ふ、十六年四月七日長政年六十五歲にして卒す、紀伊守幸長、長政が嫡子、初め豐臣家に仕へ、左京大夫になさる、父と共に筑紫關東の軍に從ひ、朝鮮に渡り所々に戰ふ、太閤薨じさせ給ひし後、石田等が父と中不快なるを憤りて、軍せんとしけれども、德川殿の御裁斷にて事鎭りぬ、父長政職を失ひて、甲斐の國に下りけるにも、幸長は都に留つて、政所の御所を守護しまゐらせ、奧の景勝御退治のため德川殿、下らせ給ふ時、御跡を慕うて馳せ下る、上方の兵起りしかば、美濃國に馳向ひ岐阜の城を落し、關が原に戰ひ、其功最も多かりければ、此年慶長五年十一月紀伊國を賜ふ、三十九万五千石從四位下に叙し紀伊守に任し、年三十八歲にて同十八年八月廿五日卒す、子なかりしかば、
  1. — 지면 그대로. (系圖 인용) 浅野長政의 실부는 통설 安井弥兵衛重継
舍弟右兵衞佐長晟を以て其家を繼しむ、長晟は、長政が二男にて秀賴の昵近なりしかど、後に政所の御方に附けられて、都に住す、慶長十五年、大御所、長晟に備中の國にて所領を賜ふ、二万石一說に二万四千石兄幸長が卒して後、其家を繼ぎ、但馬守になる、大坂の軍起りし時、長晟大坂に向ひて軍す、其隙を窺ひ、吉野熊野の者共、大坂の方人して、紀伊の國に軍起りしかど、家人等打破り首を獻る、再び兵起りしに、大坂の軍勢、紀伊國に向ふ、此處彼處に戰ひて、首多く切て獻る、續いて大坂に向ひ軍し、又討取る首四十二を獻る、同年閏六月、從四位下に昇る、將軍家の仰を蒙り、元和二年四月七日大御所第三の姫君を迎へまゐらす、御名分明ならず、はじめ蒲生秀行へ參らせ玉ひし御方なり同五年、安藝備後の國賜て移る、四十二万六千石寛永三年八月十九日侍從になされ、同き九年九月三日、四十七歲にして卒す、左少將光晟朝臣は大御所の御外孫長晟の嫡子、父の侍從の家を繼ぎ、三十七万六千五百石餘寛永十一年七月十六日元服し、御家號を許され、御諱字を賜ひ、四位侍從兼安藝守になされ、實盛の御刀を給ひしなり左大臣家の御養女を迎へ參らす、實は小松中納言利常卿の長女左大臣家の御外孫なり、寛文五年十二月廿七日左少將になさる、年いまだ六十にだに滿たざれども、身いたはる所多ければ、子息に國讓らん事を望み請ふに因て、同き十二年四月十八日、御許し蒙りて致仕す、侍從綱晟、父少將の讓りを受く、初め承應二年十二月廿一日元服し、御諱字を賜ひ、從四位下彈正大弼に任ず、御刀を賜ふ事例の如しと云寛文八年十二月廿七日侍從になされ、延寶元年正月二日、三十七歲にて卒す、其子岩松丸、家を繼ぎ、此年九月十八日元服し、御諱字を賜ひ、從四位下に叙し、安藝守に任ず、備前正恒の御刀を賜ふ、此日祖父光晟、紀伊守になる、安藝守綱長、延寶二年十二月廿七日侍從になさる。
因幡守源長治は、但馬守長晟の長子、母賤しければ家をば繼がず、寛永九年十一月二日、備後の國を分て、三吉の城を賜ふ、五万石、別に御朱印を賜ふ、延寶三年正月十九日に卒す、長治初め安藝守光晟朝臣の二男を養ひ、和泉守長尙といふ、廿三歲にて寛文六年七月廿八日に卒しければ、又光晟が三男を養て子とす、式部少輔長吉、父長治の家を繼ぐ、
采女正源長重は、彈正少弼長政が三男なり、始より關東に伺候し、中納言殿に仕へ、二万石を賜ひしと云慶長二年十月朔日に敍爵し、長政卒して後、其所領を賜ふ、常陸國眞壁五万石、大坂前後の軍に、將軍家の先陣打て向ひ、首六十を切て獻る、元和八年常陸の國笠間の城を賜ふ、五万三千石寛永九年九月三日卒す、四十五歲、其子內匠頭長直、父に繼ぐ、正保元年正月十一日、播磨の國赤穂郡を賜ひ、五万三千五百石新に城を築く、寛文十年三月五日、子息等に所領を讓る、嫡子長友五万石、二男內記三千五百石、三男長三郞に開發の田三千石、同十二年七月廿四日、六十三歲にて卒す、嫡子采女正長友、家を繼ぎ、延寶三年正月廿六日に卒す、三十四歲、其子又一郞長矩、家を繼ぎ、延寶八年十二月內匠頭に任ず、