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池田〔後賜松平〕

第七上 · 단락 15 · 780523 3코마 L부터

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이 가문에 자주 나오는 인물·지명

인물 30 27 26 13 12 11 11 11 6 6 5 4 4 4 3 3 3 3 2 2 2 2 2 2

지명 8 7 7 6 5 4 3 3 3 3 3 3 3 3 2 2 2 2 2 2 2 2 2 2

信輝初め勝三郞恒興と名のる、織田上總介殿の乳母子なりしかば、介殿の御父備後守殿の時より彼家に仕へ星崎の城を攻められしに双なき高名を顯し、諱字賜りて信輝とは改めけり、弘治元年四月尾張の海津の合戰に、信輝一番に首を取り、同三年正月武藏守信行信長の舍弟謀反の聞えありて、信長討手の勇士三人まで選まる三人共に討損じ、信行母上の御方に逃げ給ふに、信輝折節廊下に伺候せしが、馳向ひ、取て押へ刺殺し參らす、此時信輝二十二歲浮野名古屋桶狹等の合戰を初として、度々の武勇を顯し、元龜の初め尾張の國犬山の城に、一万貫の地をつけて賜ひ、一方の大將をば賜りけり、其後また此處彼處の合戰に先懸して、敵を破る事いくらといふ數を知らず、安土日記、信長記、太閣記等を按すべし天正六年攝津の守護荒木攝津守村重謀反す、信輝父子討手の大將承り、森勝藏長一と信輝が聟同じく向つて、終に荒木を討亡し、その勸賞として、有馬尼崎花隈1等の城を加へ賜ふ、皆是れ攝津の地、同き九年犬山の城をば聟君源三郞殿に讓り參らす、信長の五男也明れば十年五月四國の地、退治せよとて、三七信孝を大將として、丹羽蜂屋の人々、攝津の地に至るに及びて、同じ六月二日、信長信忠、明智がために討れ給ふ、羽柴筑前守秀吉、山陽道より馳上りて、尼が崎にいたる、
  1. — 지면 그대로. 荒木村重 토벌 뒤 池田恒興가 받은 성은 통설 有岡(伊丹)·尼崎·花隈라 「有馬」는 「有岡」의 오기일 가능성. 미확인
三七信孝諸卒を率て、頓て明智を誅し、宗徒の家人等と尾張の國淸洲の城に參會して、織田殿の世嗣の事を議せられ、秀吉等が謀にて嫡孫三郞殿後に岐阜中納言秀信を世嗣とし、御成人の程は御領の國々を分て、宗徒の輩、沙汰すべしとて、攝津の地をば信輝に屬せらる。大坂尼崎兵庫の地十二万石信長失せ玉ひて後、信輝髪薙て勝入と號し、嫡子勝九郞之助、紀伊守になる、秀吉柴田修理亮勝家を亡し、三七殿を弑し奉りて後、信輝に美濃の國大柿の城を與へ、之助に岐阜の城を與ふ、天正十一年の事秀吉また北畠殿を失ひ奉らんとせし時、信輝が父子、秀吉の方人して、まづ手合せに犬山の城を攻落す、
豐臣家譜を按ずるに、此時信雄より御使給りて、勝入が父子並にかの聟森武藏守長一の方へも、御方に參るべき由を賴る、秀吉また尾藤甚右衞門尉して組みせらるべきよしを申さる、入道家子郞等を集めて、此事を議せらる、片桐半左衞門進出て、いかで信長の御恩を忘れ給ひて、秀吉の方人たるべきといふ、伊木淸兵衞是を聞て、片桐が申所ことわり至極せり、去ながら、家をも興し子孫の後榮をも計らんには、秀吉にくみし給ふに若く可らぞといふ、入道も心惑ひして、とやせん、かくやあらんと分かねし所に、秀吉重ねて津田隼人佑を使として、秀吉に組みせられんには、美濃尾張兩國の事、進退に任せらるべしと、いひ送られし程に、忽に心動きて、秀吉の方人して、いかにもして功を顯さんと思ひしとなり、德川殿は信雄を助けて淸洲の城に至り給ひ、天正十二年三月十七日、御方の人々、まづ森武藏守長一が羽黑の陣を打ち破つて、秀吉の多勢に向ひ、小牧の山に陣を取る、同き四月四日、勝入、秀吉の陣に秀吉犬山に陣す行き向つて、德川が勢、日々に馳せ集ると見えて、小牧のかたき、多勢になつて候ふ、今は家康が國々に殘る勢、多からじ、まづ三河の國を襲ひ取て候はんには、一定小牧の敵も破れつべう覺え候といふ、秀吉よく謀つてこそと答て、入道をば歸さる、明れば五日の朝、入道また來て、家康篠木柏木1の鄕人を催し、かの邊に要害を構て、軍勢こむべしと承る、道のほど塞らぬ內に、三河の國に向はゞやと云ひしかば、秀吉甥の三好を大將とし、池田森が勢と同しく、三河國を襲はんとす、三好も森も入道が聟なれば、重て軍の檢使を乞ふ、堀久太郞秀政を加へて、同き六日の夜半より打立つ、秀吉も、かさねて犬山を立て、樂田に陣を移さる、同き九日のあした入道岩崎の城を攻め落し、心よげに首ども實檢して居たるに、後陣に打つたる大將三好が一万騎、德川殿の先陣に打破られ、さん〱に成つて逃げ來る、堀久太郞秀政、追來る敵を待かけて、最先に切て懸る、森も池田も續て懸く、德川殿に出合て堀が軍勢、忽に亂立つて、武藏守長一既に討たれ、池田が勢も破れしかば、信輝入道、馬失つて步立になり、堀が勢と一所にならんとす、間遙かに隔りぬ、敵は間近く追詰めたり、これまでとや思ひけん、胡床に坐して、かたきを待つ、永井傳八郞直勝、おち合て首を取る、年積て四十九歲、嫡子紀伊守之助、生年廿六歲安藤彥四郞直次が爲めに討れてけり、
  1. — 지면 그대로. 尾張 春日井郡의 지명은 통설 篠木·柏井이라 「柏木」은 「柏井」의 오기로 보임. 미확인
之助いまだ勝九郞と云て年僅か十五歲にして荒木攝津守が謀反せし時、父と共に向ひ、倉橋に陣どり、明る年十六歲にて、一方の大將して、倉橋に陣す、明れば天正八年花隈の城に向ひ、三月二日敵の勢、城より打出しに、弟古新と共に鞭鐙合て馳向ひ、かたきの勢を駈け破り、城のほとりに追ひ詰め、よき武者と引組て、首かき斬る、敵の多勢、城中より切て出で既に危く見えし所に、つゞく味方五六十騎、馬烟を蹴立てゝ走せ來れば、敵は城に引入けり、年僅に十七歲、同し年又羽柴秀吉と共に、淡路の國に押渡り、安宅駿河守を攻め降し、十年の春武田亡ひしに、兄弟共に先陣す、父入道して後、紀伊守となる、
輝政手の兵散々に打なされ、信輝之助、討たると聞き一所にこそ討死ずべけれとて取て返へす、輝政の家人伴大膳、其頃いまた厩の舍人なりけるが、たゞ一人追附て、馬の口にすがり、引返して一鞭あつ、輝政怒て、あつはれ不覺の奴かなといふまゝに、鐙のはなにて、首くだけよと蹴たり、蹴られて、ちつともひるまず、やあ若殿こそ不覺なれとて、片手に轡をしかと執て、片手には鞭をあてゝ馳す、馬はさすがに逸物なり、鞭は頻にあてられぬ、飛ふが如くに、馳せ行けば、輝政腹にすゑかねて、つゞけざまに蹴しほどに、かうへ盡く蹴られて、流るゝ血、遍身朱に染むれども、猶放ちやらざれば、力及ばず、初め輝政童名は古新とて十五歲になりし時、花隈の城の邊にて荒木が勢を追詰て、兄と同じくよき敵と組んで首を取る、天正十年兄弟共に甲斐の國の先陣す、信長失せ玉ひし後、秀吉大德寺にして葬送の儀を行れしに、信輝故殿の御乳母子たるに依つて、子息等常は公達と同じく御寵愛ありしとて、秀吉の養ひ參らせし御次丸殿と、この古新二人して、御棺の前後を舁せらる、斯て長湫の合戰に、入道父子秀吉のために討死せしかば、輝政岐阜を賜ひ、豐臣の姓許され、羽柴三左衛門尉と名のり、秀吉關白に任じ給ひし時、侍從にこそなされけれ、天正十八年の秋北條亡びし後、三河の國吉田の城に移る、十五万二千石を領す輝政初め中川淸秀が瀨兵衞尉か事女を迎へ、男子一人をまうけて、其妻死す、大閣の御媒にて文祿三年九月、德川殿第二の御娘、輝政の家に入らせ給ひ、督姫君、北條左京大夫氏直の許へ入らせられし御方なり、男子五人女子二人を設けさせ給ひけり、慶長五年の秋、關東の御方として、岐阜の城を攻落し、南宮のかたきを打拂ひ、所々の功ありければ、今とし十一月播磨の國を賜ふ、五十二万石同き八年正月六日備前の國を加へられ、三十一万五千石二月十二日少將に進みて、十五年淡路の國を加へらる、六万三千石余〇創業記考異政事錄等を合せ案ずるに、備前をば二男左衞門督に、淡路をば三男宮內少輔に賜る、二人成人の後あたふべしとなり、其時左衞門督僅か五才なれば嫡子武藏守、備前に在て治む、十七年八月十三日、輝政駿河に來て、大御所に見參し廿三日關東に下り、將軍家に參らる、年來の病氣たいらぎし故なり、將軍家御家號ゆるさせ玉ひ、參議の事、御推擧あるべきよし仰下され、物多く賜て、蜂屋郷の御刀、乙御前の釜御馬二匹等なり、御暇を給ひ、廿七日關東を立て、九月二日又駿河に參り、大御所又物を賜ふ事多く、虛堂の筆蹟の掛物、若狭正宗の御刀、歸國の道すがら、津の國わたりにて鷹逍遙あるべしとて、御鷹御馬等をたぶ、同十七日上洛して參議に任し、明る十八年輝政病再ひ起りて、正月廿五日五十一歲にて卒す、兩御所御使あつて、賻物多く賜りぬ、侍從兼武藏守源利隆朝臣初は玄隆輝政卿の嫡男、母は中川淸秀が女なり、慶長十年四月十六日、侍從兼右衞門督に任す、此年將軍家の御養女、利隆の家に入らせ給ふこれ榊原式部少輔康政の息女、此時引出物として、靑江の御刀左文字の御脇刀、御馬二匹を給ひしといふなり同き十一年利隆初めて關東に參らる、將軍家御家號を許され、武藏守になされ、長光の御刀、國光の御刀安吉の御脇差を賜ふ、物多く賜て御暇を給り、御鷹御馬、白銀時服等なり、鎌倉の跡、一見あるべしとて、鵜殿兵庫を案内となさる、十四年備前の國にして男子誕生すと聞えしかば、牧野豐前守を御使として、父子に物賜ふ事差あり、靑江の御刀、信國の御脇刀を息男に、時服白銀を親父に下さる又利隆の北の方に備中の國にて湯沐の地賜ひぬ、千石十八年正月利隆關東に在りしに、父の參議、病起りぬと聞召し、御暇給て國に歸さる。此時吉岡左近將監助光の御脇刀をたまふ、輝政卒して後、播磨の國を以て利隆に賜ふ、五十二万石、此內宍粟佐用赤穗三郡をば舍弟左衞門督に分つ、大坂の兵起らんとせし時、利隆關東に伺候せしに、將軍家仰下されし旨あつて、夜を日に繼ぎて我國に馳せ歸り、軍勢を催し、兵分て尼が崎の城守らせ、我身は大坂に向て軍す、此年十二月廿八日、其勳賞を行はる、白銀三千兩再び兵起りしに、討取る所の首六百廿一を獻る、明る元和二年六月十三日、三十三歲にて卒す、嫡子左少將光政童名新太郞年僅に三歲にて、慶長十六年關東に下りて、將軍家の見參に入る、國俊の御刀を賜ふと云ふ、父卒する時九歲、因幡伯耆を賜て移る、三十二万石元和九年四位の侍從、寛永三年八月十九日左少將に任し、大相國家の御外孫女に添ひ參らす、天樹院殿、本多中務大輔に添ひ給ひ、設け給ひし所なり、同き九年六月十八日、備前の國に移る、此人周公孔子の道を尊て、私に學校を設て、物學ぶ事を勸めしかば、幾程なくて國中の士民、悉く其風に化す、本朝この事絕えて後、人臣として再び振起せし事、めでたきためしなり、年既に老いて、國を讓りて致仕す、嫡子侍從兼伊豫守綱政、承應二年四位の侍從に任じ、寛文十二年六月十日父の讓りを受く、三十万石
備後守源恒元、松平と稱す利隆の二男、元和元年、年五歲初て將軍家に見參す、此時中堂來の御刀を給りし也、寬永六年叙爵し、慶安二年十月五日播磨國宍粟郡を賜ふ、三万石六十一歲にて、寛文十一年に卒す、其子豐前守恒行父に繼ぎ、延寶五年正月八日卒す、卒する時伊豫守綱政の二男二郞三郞を以て世嗣とせん事を請望む、御免しを蒙て、其家を繼き、數馬と改め稱す池田と稱す明る六年十二月廿七日、早世し世嗣絕えぬ、
侍從兼左衞門督源忠繼朝臣は、大御所の御外孫、參議輝政の二男、童名は藤松丸、生れて五歲、慶長八年正月六日に、備前の國を賜ふ、同十三年將軍家に召れて、元服の儀あり、御家號を許され、御諱字を賜ひ、四位の侍從になさる、正宗の御刀を賜ふ、十八年父參議卒して、播磨國宍粟佐用赤穗三郡を分ち賜ひ、本領に井せ賜る、又左衞門督を兼ぬ、是迄は松平十郞と稱す大坂の軍起りし時、軍勢を率ゐ馳向て軍し兩御所の御感を蒙り、御暇給ひ國に歸り、程もなく元和元年二月廿六日、十七歲にて卒す、嗣なければ舍弟忠雄家を繼く、參議忠雄朝臣、是も大御所の御外孫輝政の三男、童名藤五郞、七歲にして。忠繼と共に元服し、御家號御諱字を賜ふ事、皆兄に同し、御刀を賜ふと云從四位下に叙し、宮內大輔に任じ、九歲にして、慶長十五年淡路國を賜ふ、大坂の軍起りし時、生年十四歲馳せ向て戰ひ、明年の春、忠繼卒し、其世嗣として備前國を給ひ、大坂の軍再び起りしには、五月十日に參着しければ、軍には合はず、明れば元和二年正月十九日、侍從になされ、寛永三年參議正四位下、同九年四月四日三十一歲にて卒す、其男光仲、家を繼ぎ、此年六月十八日因幡伯耆を賜て移る三十一万石寛永十九年十二月晦日、從四位下侍從、相摸守を兼ね、承應二年十二月廿八日左少將に任じぬ、嫡男從四位下兼伯者守綱淸、二男九鬼和泉守隆律は、長門守隆昌の養子たり、三男壹岐守仲澄、
侍從兼石見守源輝澄朝臣、松平と稱す輝政の四男、母は忠繼に同じ、生年十二歲、元和元年より播磨國宍栗郡を賜ふ、六万石同三年從四位下寛永三年八月十九日侍從になさる、同十七年家人等が爭論の事起て、御勘氣を蒙り、所領收公せられ、伯耆の國へ流されて、相摸守光仲に預られ、入道して石入と號す、五十九歲にして、寛文二年四月十八日配所にて卒す、男子三人あり、嫡男能登守政直、松平と稱す父が流されし時別に所領を給ふ、佐用郡にて一万石寛文五年十二月六日三十二歲にて卒す、子なかりしに依て、舍弟久馬助政武松平と稱す七千石庄左衞門尉政勝池田と稱す三千石二人に、兄が所領わかち賜ふ、右京大夫源政綱朝臣、松平と稱す輝政の五男、母は忠繼に同じ、元和元年六月播磨國赤穗郡を給ふ、五万四千七百石寛永三年八月十九日從四位下に昇り、同八年七月廿九日卒す、廿八歲、子なくして家絕えぬ、
右近大夫源輝興朝臣、松平と稱す輝政の六男、母は忠繼に同じ、元和元年六月、播磨の國佐用郡を賜ふ、如何程と云ふ事未詳寛永八年同國赤穗に移り、五万四千七百石餘或は二万五千石未詳同十一年七月從四位下に昇り、正保二年三月十五日忽ち心狂しければ、備前國に流されて、光政に預けられて家絕ゆ同き四年五月十七日三十七歲にて死と云、
備中守源長吉、此流池田と稱す十三歲の時、秀吉の養子と成て、羽柴藤三郞と名乘る、其後治兵衞と申せしか長湫の戰に、疵かうむる、天正十三年に叙爵し、筑紫小田原名護屋等の陣に隨ひ、慶長五年の秋、舍兄輝政と共に、關が原の御方して、こゝかしこの戰ひに功ありしかば其勸賞として、此年因幡の國鳥取の城を賜ふ、六万石又一說六万五千石同十九年九月廿四日四十五歲にて卒す、子息備中守長幸、初め慶長元年、年九歲にして德川殿に見參す、中納言殿より御刀を賜ふ、新藤五父卒して家を繼ぐ、此年の冬、大坂の兵起りしに馳向ひ、明年夏の戰には、武藏守利隆朝臣に屬して、首三十を獻る、元和三年備中國松山の城に移る、六万五千石寛永九年四月七日卒、四十六歲、子息出雲守長常、父に繼ぎ、寬永十六年九月六日三十三歲にて卒す、男子なくして家絕えたり、