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片桐

第十下 · 段落 6 · 780525 36コマ Lから

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この家によく出る人物・地名

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地名 4 3 3 3 1 1 1 1 1 1 1 1

出雲守源孝利は、初名は元包東市正直盛が、後名は且元男なり、六孫王經基の御子下野守源滿快朝臣の曾孫信濃守爲公、信濃の國伊奈の郡に住す、爲公が三男藏人大夫爲基、始て片切と名乘る源八といふ、片桐と書くこといつれの頃より改めしにや爲基十代の後胤爲賴隅之助といふ生年十七歲、本國を去つて近江國に移る、爲賴が曾孫孫右衞門尉直貞淺井殿に仕ふ、則ち贈大納言長政卿の御事元龜四年直貞に給はりし感狀ありといふこれ則ち市正直盛主膳正貞隆が父なりけり、直盛初め助作と申して豐臣家に仕へ、近江の國志津が嶽の合戰に、高名七人が其中にて、所謂七本鎗也其勸賞に今年天正十一年七月朔日初て所領の地を賜ふ、五千石其後從五位下東市正に成され、豐臣の姓賜り所領の地加へらる、攝津の茨木一万二千石の地秀賴公の御傳として大坂の城に在り、慶長十八年秀賴公の仰せとして所領の地加へ賜ふ、直盛關東の御旨を憚りて固く辭す、此年九月二日駿河の國府に參る、大御所彼が見參の序に、右大臣家加恩の事、辭し申さで給るべしと仰せ下さる、一万石を賜ひしと云ふ、此事內々は大御所の仰によりて賜ひしと云ふ明れば十九年の夏、大佛殿修造の事につきて、大御所の御氣色よからずと聞いて、直盛駿河の國府に參り向ひ、一々に申し披き東西の御中和らかせ給はんやうを、深く謀り遠く慮りて三の策を獻る、大御所大に悅はせ給ひ直盛を返されたり、直盛が計ひ、偏に關東に心を合せ、當家を傾けまゐらせんとする所なりと讒し申す人ありしかば、秀賴公御母子、大に怒らせ給ひ、さらば直盛召して速に首を刎られ、天下の軍勢を催して、軍起させ給ふべしとぞ議せられたる、直盛此由を聞きてさしもこの年ころ二心なく忠貞を存ぜし甲斐も無く、讒者の實否をも糺されず、忽ちに誅せられんとの御結搆こそ安からね、此上は討手の御使を待つて、尋常に討死せばやとて、父子兄弟悉くおのが宿所に閉籠つて、召せども更に參らず、さらば軍兵を差向けられ討たるべしとて、城中既に軍起らんと、ひしめく古き者共色々に拵へて直盛が父子兄弟、事ゆゑなく城を去ておのが所領茨木に引籠る、大御所この由を聞召し、彼が兄弟に御敎書をなされ、直盛が計ひ徒らになりて世既に亂れぬる事を歎かせ給ひ、其後も御使を賜て訪らはせ給ふこと度々に及び、間も無く打て登らせ給ひし時、先づ彼が兄弟を召さる直盛畏て辭し申しけるは、初めに計り申すところ、空しく成つて東西既に御不快の事起りぬ、今何の面目あつてか再び見參には入り候ふべきとて參らず、重ねて本多上野介正純仰を傳へて、此度大坂の兵起りし事、汝が罪にあらざるよし、能く知し召す所なり、ていれば早く御陣に馳せ參り、此上も猶天下の無事ならんやうを計り參らすべき者なりと、起請文を書きて言ひ送りしかば、父子兄弟打連れて都に登り、兩御所に見參し大坂の御陣に從うたり、程なく東西御和順ありて、天下無事に屬しければ、明る元和元年四月の初、直盛駿府に家を移す、再ひ軍起りしには直盛病に伏す、子息孝利も父が病看んとて駿府に止る、同五月八日秀賴公御母子の御事ありし後、同廿八日直盛卒しぬ六十歲とぞ聞えける、
世の人は直盛君に背きし故に、忽に天罰かうむり三十日を越えずして死しぬと云ふ、我思ふに如何にや死しけん、あはれなりし事なり、
孝利が所領四万石と記せる記あり、不審、直盛が遺領は三万二千石なるべし其後加恩の事ありしにや
其後孝利卒して、卒せし年月いまだ詳ならず、寛永八年の後なるべし、年は三十八歲にて卒せし也嗣なし舍弟半之亟爲元に別に所領の地給て、直盛が家つがせらる一万石爲元年四十四歲承應三年に卒す、其子助作父に繼ぐ、明曆元年助作死し舍弟又七郞を世嗣とす、所領の地大半を減ぜられぬ、三千石を給ふ
主膳正源貞隆は、孫右衞門尉直貞が二男、市正直盛が弟なり、初め豐臣家に仕へ、播磨國三木の城にして能き敵と組て首取る秀吉公の御感に預り、頓て播磨の揖東郡にして所領の地賜る、大坂の兵起りし初め、舍兄直盛と同く攝津の國茨木の地に引籠り、將軍家に召出され再ひ兵起りしには關東に留められ、其後大和國小泉の地を賜り、一万五千石寬永四年六十八歲にして卒す、嫡子石見守貞俊一万二千石二男勝七郞某三千石父が所領を分ち給ふ、貞俊が子主膳正貞房父に繼ぎて延寶二年十一月廿七日叙爵す、