山城守藤原廣照は、秀鄕將軍九代の孫小山下野大掾政光が嫡男、下野國の住人長沼五郞宗政が十七代の後胤也、廣照が五代の祖長沼淡路守秀宗、嘉吉の頃の人皆川の地に移る、秀宗が孫宮內少輔宗成、初て皆川とは名のつてけり、相摸國北條が起るに從ひ、彼家の被官として天正十八年の春豐臣關白、小田原に攻め下り給ひし時、山城守廣照、成田下總守壬生上總介、の者共と北條陸奧守氏輝に隨て、竹鼻口に出向つて防き戰はんとす三月廿九日山中の城落ちて、明れば四月朔日德川殿の先陣宮城野に攻め入ると聞えしかば、氏輝等小田原の城に引き返す、同八日、明日寄手小田原の城攻めらるべしと聞えし夜、廣照密かに城中を忍ひ出て德川殿に付て關白の御陣に降參す、德川殿兼てより廣照を知召されし故也此年の秋北條亡ひし後、本領なれば皆川の地をぞ給りける、三万石慶長五年の秋東西の軍一時に起る、廣照父子は參河守殿の御手に屬し東國に止る、大田原の邊に陣取しと也同き八年二月六日、上總介殿に信濃國にして所領の地、參らせられし時、廣照かの御傳になされて飯山の城を給ぶ、四万石を領す、是は上總介殿幼なく渡らせ給ふ時、廣照取て養ひ參らせし故なり然るに介殿の御振舞荒々敷まし〱て、古き老臣共の諫をも用ゐ給はず、十四年九月廣照を初として、山田長門守松平讃岐守等、駿河の國府に參て密かに大御所に訴へ申ければ、介殿この由關東にて聞召され、夜を日に繼て馳せ參らせ給ひ、一々に陳じ申させ給ひて、彼等を屹と罪科に處せらるべき由を、頻に訴へさせ給ひしかば、廣照は死罪一等を宥められ所領を沒收せられ、同十月廿七日、殘る二人は誅せらる、廣照やがて入道して老圃と號す、嫡男志摩守隆庸元より將軍家に仕へ參らせ、慶長五年十一月十九日叙爵す、父が罪蒙りし時、隆庸も其綠坐に1處せらる、上總介殿御行ひ改らたまらせ給はず、大御所の御不興蒙らせ給ひ、終に流されさせ給ひぬ、其後隆庸將軍家に召返され、元和九年常陸國新治の郡府中の地賜り一万五千石山城守になされて、寛永九年大番の頭になされ、正保二年に卒す、嫡子又三郞成鄕家を繼ぎ、幾程なくて世を早うし、世嗣なければ家絕えぬ、舍弟左京隆慶を御家人に召出され、皆川の地五千石を下し賜ひしなり
- 其綠坐に — 底本のまま。「緣坐」の誤植とみられる