加賀守紀正盛は、武內の大臣三十五代の孫尾張守之高が後胤なり、之高が子尾張守正重、尾張國津島に住す、其孫加賀守正道が時に至て、織田備後守信秀に屬す、正道が子孫右衞門尉正貞が子勘左衞門尉正利は、加賀守正盛が父なりけり、正利初め金吾中納言秀秋家に仕へ五百石を領せり、稻葉佐渡守正成が娘を妻とす、正成金吾家を去りし時、正利同しく彼處をさる、其後佐渡守正成が妻春日の局がゆかりに就き、正利正成と共に御家人になつて、御書院の番衆となる、大坂の合戰に水野隼人正忠清が手に屬して高名せしに依て、其賞を下したふ、三百石を賜ふ、合て七百石なり又御使番になされたり、其子加賀守正盛幼きより左大臣家に仕へ奉り、双なき寵臣なりしがば、元和九年十二月十六歲にて叙爵し、次第に身を起して祿あまた給ふ、正盛が母は春日局の生みし子にはあらず、佐渡守正成が前妻の生みし所ともいひ、また妾の生みし所ともいふなり、寛永九年二月十七日正盛が父正利死す、年五十九才なり、
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堀田
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인물 堀田正信 17堀田正盛 13保科正之 7松平信綱 7堀田正俊 6堀田正吉 5稲葉正成 5春日局 4脇坂安政 4徳川家綱 4堀田正英 3堀田正勝(正盛五男) 3阿部忠秋 3堀田之高 2堀田正道 2徳川家光 2堀田正休 2酒井忠直 2蜂須賀綱通 2蜂須賀綱矩 2武内宿禰 1堀田正重 1織田信秀 1堀田正貞 1
지명 下総佐倉城 3若狭国 2尾張国津島 1摂津国大坂 1武蔵川越城 1信濃松本城 1江戸 1下総国守谷 1信濃飯田城 1播磨国龍野 1京都 1山城石清水八幡宮 1山城清水寺 1淡路国 1上野国安中 1
世に傳ふる所は子息正盛が次第に身を起すを深く悅ひ、なまじひに我世に在らんは、子息のために惡しかりなんと思ひ、自害せしとなり、
同八年五月廿一日、正盛御小姓組の番頭となり十二年の十二月に至る十二年二月宿老の職となり、程なく加判の事御免ありて、世には御近習出頭といひしなり、同十月廿二日武藏國河越の城を給ふ、三万石十五年、正月十一日、信濃國松本の城に移る、七万石、一說に此時十万石、十七年十二月廿九日、侍從に進み、十九年正月十一日、下總國佐倉の城に移る、十二万石慶安四年四月廿日、左大臣家薨じさせ給ひしかば、此日、正盛腹切て殉死す、年四十六歲、正盛男子五人、嫡子上野介正信、二男脇坂淡路守安元が養子となつて、中務少輔安政といふ、三男久太郞正俊、後には備中守四男虎之助、後には對馬守正英といひしなり、五男右馬助、後には南部山城守が養子と成つて、内藏助正勝といひ早世しぬ、此年八月嫡男上野介正信に父が遺領を賜ふ、十万石1其餘の男子等にも分ち賜ふこと差あり、久太郞一万石、虎之助五千石、右馬助三千石、正信家を繼て、御詰衆に加りぬ、萬治三年十月八日、一封の諫書を上り、身の暇をも申さで江戶を去て、己が佐倉の城に引籠れり、其諫書の大畧は、當代御幼稚の昔より、世を知召す事、既に十年輔導の人、其道を得ず、天下の人民悉く疲弊し、幕下の將士盡く貧困す、すべからく早く恩惠を施し、窮愁を宥めらるべし、まづ正信が父より傳へ賜ふ所の祿を以て、御家人等に充て賜るべき料とせらるべし、依て今は正信が領する所の城地悉く返し奉るの旨を載せ、肥後守正之豐後守忠秋を上所にしたり、
- 十万石 — 지면 그대로(할주 오른줄 「十万」). 석고의 사실관계는 미확인
かくてこの事披露ありて、正之朝臣を先として執政の人々僉議ありしに、伊豆守信綱一人、上野介が心狂じてこそかくは侍るらめと申ける、さるは此諫書のさす所、偏に信綱が執する所を深く非するに似たり、また正之忠秋ばかりを以て上所とす、これといひ、かれといひ、信綱、上野介が所爲を憎み思ひ、かく申し妨くるにやと思ひけるが、正之朝臣は、たとへ正信が諫め申す所、一々其理を盡さずとも、世を憂ひおのが家をも身をも忘れて、君を諫め申條は、如何で狂氣とは申さるべきと宣ひけれども、信綱は正信が狂氣疑ふ所あるべからずとのみ爭ふ、正之朝臣重ねて、正信は故加賀守が嫡子にて、其身もかく忠を存ずる者なるを如何であへなく狂人と定めらるゝ事あらんやとありければ、信綱仰せ承て候、故加賀守が嫡男なれば、如何なる罪を犯したりとも、一度二度はなど御宥めなかるべきと存るに依て、信綱は彼を狂氣と思ひなして侍ると答ふ、人々猶も不審に思ふ氣色なりければ、其時信綱いひけるは、彼の諫言を見るに、領する所の城地盡く返へし奉る、それを又御不審の事あらんには召されて尋ね問はるべし、事の由を一々に申べしとしるせり、さらばなど此所にありながら、召しをも待たで候べき、夫れに身の暇をも申さで、恣に、己が城に引籠つて候は如何に、たとへ心に存ずる所、忠なりとも、其所行は上を蔑如し奉て、いさゝか反逆に似て候、若し正信が常の心にて、かゝる事候はんには、其身は云ふに及はず、一門の輩をも急度嚴科に處せらるべくや候はん、故加賀守が後にて侍れば餘りに不便に存ずれば、狂氣とは思ひなして候、心狂じたらん人は、如何なる罪をもゆるし宥めらるゝこと、勿論の事に候ふ者をと云ひしにぞ、正之朝臣を始として、一座の人々誠に深き慮りにて候ひき、夫迄の事は、思ひも寄り候はず、扨〱と大に感じあへると、此事よく知れる人の語りしをうけ給り畢んぬ、
頓て安藤對馬守同市兵衞、佐倉の城に行向て、正之忠秋の旨を述ふ、諫め申さるゝ所、承りぬ、さりながら其城に引籠て居給はんには、諫め申さるゝ所、御聽に達し難し、同しくは舍弟中務少輔安吉、備中守正俊二人が所領の地、いづ方ならんにも、まづ籠居あるべくや候といひしかば、さらばとて、正俊が所領、守谷といふ所に移る同き十一月三日、正信が所領收公せられて、弟安吉預りて、おのが信濃國飯田の城に趣く、正信が息帶刀正職、別に俸米を賜ひ、一万俵寛文八年十二月廿七日、叙爵して豊前守に成る、正信また寛文二年五月十八日、酒井修理大夫忠直に預られて、若狭國に移さる。是は中務少輔安吉、播州龍野を賜て移りしゆゑなり、延寶五年の春、正信密に若狹國を出て都に上り、男山清水等に參詣し、願書を籠めて、將軍家の若君御誕生の事を祈る、此事披露ありしかば、修理大夫が守りの怠れるを御咎あり、また豊前守正職も同しく籠りて有りしが、二人程なく御免しを蒙り、正信をば淡路國へ移されて、松平阿波守綱通に預けらる、同六年の秋、綱通卒して、其子淡路守綱矩預人となる、同八年五月八日、右大臣家薨じさせ給ひぬ、正信配所にて此由を傳へ聞て、深く歎き、預人綱矩が許へ文のこして、同月の廿日、剪刀を以て自ら吭をかき切て死す、年四十九歲、